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第57話 この命が尽きるその日まで

 元和五年(1619年)八月

 浅野長晟が、新たな藩主として広島へ入城した。


浅野長晟あさのながあきら

備中足守藩主、紀伊和歌山藩主を経て、安芸広島藩の藩主となる。この浅野家の支配は、以後幕末まで続くことになる。


「若……よりによって」

「運命なんだろうな……」


 確かに“よく知る殿さま”だ。紀州九度山から勝手に脱出した時の藩主 ─ ─ あの浅野長晟。

 皮肉な話だ。またしても「真田」という厄介者を抱えながら、この広島で権勢を振るうことになるとは。俺の身は、これからどうなるのか。「浅野」という名を聞いた瞬間、不安だけが胸を支配した。


 だが ─ ─ 。



「大助さまー、 皆さーん! お食事の用意ができましたよー!」

「お久さま、今日も豪華な山のご馳走ですな」

「僕らが山から採ってきたんだよ、六郎さま!」

「そうなの、大助さまに教わったんだから!」

「そうか、そうか。源と和は、もう立派な山菜名人じゃのう」

「えへへ……大助さまー! 早く、早くー!」

「ああ、すぐ行くよ!」


 美味しそうな香りがふわりと鼻をくすぐる。鍋の中には、フキに紫蘇シソ、そして夏芽を伸ばしたタケノコがたっぷり入った味噌雑炊。それに、こんがり焼かれた岩魚イワナの塩焼きが添えられている。炊き立ての湯気と香ばしい香りが、空きっ腹を刺激する。

 囲炉裏を囲む皆の顔は、自然と笑顔で溢れていた。


※フキ(キク科フキ属)

多年草で雌雄異株。早春に花茎を伸ばし、「フキノトウ(蕗の薹)」として山菜になる。地下茎から伸びる円い大きな葉も特徴的で、山野に自生するものは根元が赤く、香りや風味が強い。下処理にはアク抜きが欠かせないが、しっかり茹でれば葉も美味しく食べられる。


※紫蘇(シソ科シソ属)

香り高い一年草。古く中国から伝わり、現在は野生化して山野の渓流沿いなどでもよく見られる。爽やかな香りが特徴で、香味野菜として幅広く使われる。


※タケノコ(イネ科タケ亜科タケ類)

地下茎から伸びる若芽を食用とする。種類によっては夏場に芽吹くものもあり、丁寧にアク抜きすれば、えぐみが少なく甘みと香りに優れる。


※岩魚(サケ目サケ科イワナ属)

渓流や清流の最上流に棲む魚。「幻の魚」「渓流の王者」とも呼ばれる。川魚特有の臭みが少なく、身は淡白でありながらしっかりとした旨味がある。


 あれから一年が過ぎようとしている。気にかけていた俺の処遇だが、村役人から「藩から何のお咎めもない」と知らされた。拍子抜けするほど静かに、俺の暮らしは続いている。


 これまでと変わらず、警護役として村を見回り、道場で子どもたちに剣を教え、六郎や十蔵、源、和、そして半蔵やお紺たちと共に、大豆を育て味噌を仕込み、山へ入って山菜を採る ─ ─ 何気ない日々が、今は愛おしい。


 そして先日、愛するお久と夫婦になった。


 あの日、戦に敗れ、死を覚悟してこの芸州の山村へ落ち延びた俺が、こうして新しい命をもらい、村人たちに支えられ、笑い合い、愛する人と暮らしている。夢のような時間だ。


 ふと、腰の刀に手を添える。実は幕府に献上したのは、大夫さまから拝領した刀。秀頼公から賜った宝刀だけは、どうしても手放せなかった。この刀は、俺の誇りであり、大阪で散っていった仲間たちとの繋がりであり ─ ─ 俺自身の生きた証だったから。


 宝刀を腰に携え、村のささやかな幸せを守りながら、この暮らしを大切にしていく。もう二度と、過去に縛られることはない。ここで真田大助として、自分の足でしっかりと前を向いて歩む。


 優しい風が草原を吹き抜け、空はどこまでも青く広がっている。


 俺は、この村で生きよう。この村で、愛する人とともに大切な時間を過ごす。


 この命が尽きるその日まで──。




       ─ ─ 完 ─ ─






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