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第33話 濁流とともに

「辰三郎、辰三郎っ! 気をしっかり持て!」


 辰三郎はぐったりと意識を失っていた。俺は彼を背負い、何とか河岸へ向かおうとしたが、水の勢いが強すぎて思うように進めない。足元は滑り、全身に押し寄せる濁流が体力を奪っていく。辛うじて大岩に引っかかった流木にしがみつくのが精一杯だ。焦りと苛立ちで胸が締めつけられる中、どうにも身動きが取れず立ち往生していた。


「ゴオーーッ、バシャーン、ゴオーーッ……!」


 その時だった。溜池の水門が完全に決壊し、大量の泥水が新たな濁流となって押し寄せてきた。

「ああっ……!」

 咄嗟に声を上げるも、すさまじい水圧が俺たちを一瞬でのみ込んだ。


「わ、若ああああああーーーっ!!」

 遠くから六郎たちの叫び声が聞こえた気がしたが、それも濁流の轟音にかき消されていく。


─ ─ そして、意識が途切れた……



 濁流の轟音は高台にある神社まで響き渡り、避難している領民たちが不安げに山村を見下ろしていた。

「忠次郎さん、すごい濁流です! こんな光景、見たことないよ!」

「これ……まさか溜池が決壊したのか?」

「いや、まずいでしょ! このまま氾濫が続けば被害はさらに拡大します! 民家が流されるだけでなく、田畑も壊滅してしまいますよ!」

「忠吾郎、こんなに長くて激しい豪雨は初めてだ……。悔しいが、こればかりはどうにもできん」

「大助さまは、ご無事なのでしょうか?」

「……」

 言葉を失いながらも、誰もが心の中で安否を案じていた。


 皮肉なことに、溜池が決壊した直後から雨は止み、昼過ぎには野分台風も通り過ぎていった。しかし、その残した爪痕は山村に深い悲しみを刻んでいた。低地の村は広範囲にわたって冠水し、民家は跡形もなく流され、田畑もほぼ壊滅状態となっている。


 その頃、辰二郎が全身ずぶ濡れになりながら、忠次郎らのいる神社へ駆け込んできた。彼の表情は悲痛そのものである。辰二郎は、兄の辰太郎や弟の辰三郎とは異なり、村で悪事を働く「悪童」ではなかった。そのため、面前家、神田家、国宗家といった村の有力者たちも、彼に対しては特に悪い印象を抱いていない。


「忠次郎殿……その……お詫びをしに参りました」

「あ、貴殿は富盛の方ではありませんか。決壊の件でしょうか? いや、あそこまで持ちこたえられたのは立派でした。この大雨では仕方ありませんよ」

「……それを詫びに来たのではありません」

「では、一体……?」

「決壊の際、辰三郎が濁流に流され……そ、それを助けようと……真田殿が川へ飛び込まれました……」

「なっ、なんですとっ! それで、二人はどうなったのですか!?」

「……濁流とともに二人は行方不明のままです。もはや……」


 辰二郎は首を横に振り、沈痛な面持ちで言葉を飲み込む。その意味の重さに、その場は一瞬で静まり返った。


 やがて、忠吾郎が大声で叫び出す。

「嘘だあああっ! 大助さまが、大助さまがあっ!」

「忠吾郎、落ち着けえ! 辰二郎殿、六郎さまのご様子はどうなのですか!?」

「六郎殿もまだ捜索を続けています。いや、我々全員で探していますが……見つからないのです。本当に申し訳ありません……」

「そ、そんな……」

「わーーっ! 僕の師匠があああっ! こんなことがあっていいのかあ! ちきしょうーー!」


 その場の混乱を見かねた給仕の女衆が割って入った。

「うるさい忠吾っ! 大助さまはきっとご無事よ!」

「お、お久さま!?」

「絶対に大丈夫! そんなこと信じられるものですか!」

 お久は必死に涙をこらえ、毅然とした態度でそう言い放った。その気丈な姿に触発され、その場にいた人々の表情も次第に変わり始めた。


「よ、よし、我々も捜索に出よう!」

「そうだ! 大助さまを探すぞ!」


 しかし、そんな領民たちの空気とは裏腹に、面前家、神田家、そして忠次郎の父・忠兵衛が静かに制止の声を上げた。

「待て、忠次郎。大事な話がある」

「父上?」

「今は緊急事態だ。村方三役で、今後の対応を話し合わねばならぬ。……富盛殿にも加わっていただきたい」

「……私も、ですか?」


 山村の被害は計り知れなかった。宮迫神社に避難している領民以外の安否確認も取れておらず、民家や田畠の被災状況についても全容は分かっていない。ただし、平地に屋敷を構える面前家や神田家の被害は甚大であることが容易に推測された。


「忠兵衛殿、庄屋の役を国宗家にお渡ししたい。そう代官殿に願い出るつもりだ」

「うむ、致し方なしじゃな」

「えっ! ど、どういうことでしょう?」

「忠次郎、田畠は壊滅だ。我が国宗家は材木業で成り立ってるゆえ、まだ財政に余裕がある。復興を優先するには適任だろう」

「神田家としましても、三役から外れさせていただきたいと思います」

「な、なぜですか?」

「皆様のお力をお借りしながら、復興に集中するためです。村の運営に携わる余裕がありません」

「そこでじゃ。新たに富盛殿に組頭をお引き受けいただきたい」

「……我々が? いや、それは兄上に相談しなければ」

「辰二郎殿、今は財政や土木建築に長けた家が中心となり、この村を立て直さねばなりません。どうか、辰太郎殿にお伝えください」

「は、はあ……」

「厳島から職人を数名呼び戻そう。それから忠次郎、お前には庄屋の代行を任せる」

「私が……? そんな大役、父上がなさるべきです」

「無論、庄屋は私だ。しかし復興に専念したい。お前には村の運営、代官殿との交渉、そして年貢の徴収を任せる」

「ちょ、ちょっと……そんな……私にできるでしょうか。……大助さまがいないと不安で仕方ないよお……」


 庄屋名主の選出方法は藩による家格の任命が一般的であったが、年番交替制や農民による入札制が採用される場合もあった。また、庄屋は村の代表として年貢の徴収や農民の統制にあたる役目を担うと同時に、藩支配の末端職としての側面も持つ。そのため、この地位は二面性を帯びていた。


 ここ山村では、野分による大災害を機に、庄屋国宗組頭富盛百姓代面前という新たな体制が築かれ、復興に向けた動きが始まった。



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