「六郎ーーっ、待たんかあ!」
必死に追いかけると、少し先で六郎が立ち止まり、鋭い目つきで周囲を見渡している姿が見えた。
「見失ったか……!」
「はあ、はあ……六郎、無茶をするなよ」
息を整えながら声をかけると、六郎は真剣な表情のまま答えた。
「いや、まだ気配を感じる。若、戦闘態勢ですぞ!」
「六郎、本当に間違いないのか?」
「あの男に間違いありませぬ。儂が追いかけた途端、驚くべき速さで逃げおった。その動き……常人では考えられません!」
─ ─ その時だった。
シュシュシュシュン!
「何だ!?」
「若、危ないっ!」
ガッ、ガッ、ガッ!
「やはり伊賀の者か! この望月六郎がお相手つかまつる! 姿を見せい!」
静まり返った草原に不気味な静寂が広がる中、不意に声が響いた。
「……我らに構うな、真田の忍びよ。これは警告だ」
「何だと?」
「我らは真田大助とその宝刀が、この地から逃げぬよう監視しているだけだ」
「今のは警告ではなく、明らかに命を狙った攻撃だろう!」
「いや、警告だ。お前たちなら、あの程度は容易にかわすだろう。それでもなお刃向かうのなら、容赦はせぬ。我らはいつでも十人以上で囲い込むことができるのだ」
六郎はさらに警戒を強め、身構えた。一方、俺はわずかに漂う人の匂いと気配を頼りに、目を凝らして草原を見渡す。
おそらく一人、二人、いや三人か……その中に女の気配もある。だが、どこに潜んでいる?
意識を集中させた瞬間、視線の先に答えがあった。大木の太い枝の上、こちらを鋭い目つきで見据える伊賀の者。その存在感は、一瞬たりとも隙を見せないものだった。
「六郎、あの木の上だ。ただし、攻撃はするな」
「若!? なぜです?」
「いいから、俺に任せろ」
六郎は不満そうな表情を浮かべながらも、指示に従い身を潜めた。俺は落ち着いた口調で話しかけてみる。
「なあ、お前たち二人は富盛の下人に扮しているんじゃないのか? もう一人の女については知らんが」
風が一瞬止まり、木の上から微かな気配が漂う。沈黙が続く中、相手がこちらの様子を探っているのが分かった。
「……どうする? 正体がバレるのは草の者にとって致命的だろう?」
さらに言葉を続けた。
「俺たちを狙わないと言うのなら、こちらもお前らを詮索したり攻撃したりはしない。そしてもう一つ。安心しろ、この村から逃げる気もない」
静寂が破られたのは、突如として響いた女の声だった。
「フフフ、さすがは真田の若殿ね、大助ちゃん」
「お、女の声!?
「六郎、どうやら富盛以外にも拠点を持ってるようだ。……それにしても「大助ちゃん」とは随分とナメられたもんだな」
「フフン、まあいっか。富盛からは引き上げるわ。でも、どこかで監視は続けさせてもらうから。そのつもりでいてね」
「分かった。ただ一つだけ聞きたい。芸州はいつ攻めてくるんだ?」
「あらあら、それは秘密よォ。じゃねー……」
─ ─ スッと気配が消え、伊賀の者たちは完全に姿を隠した。
「若、これで良かったのですか?」
「六郎、奴らは十人以上いると言っただろう。数人倒したところで意味がない。それに本当の敵は芸州だ」
「まあ、富盛から離れてくれるだけでも好都合ですな。あまりに近すぎて不安でしたから」
「それにしても、六郎の目は確かだったな。助かったよ、ありがとう」
「ははっ、若の護衛としては身に余る光栄! ただ、女忍がおるとは……むふふ」
「……何を期待してるんだ。それより忠次郎が追いついてくるな。さあ、帰ろう」
その頃、国宗家の土間では、お久が桶の水に浸かる「マタタビ」をじっと見つめながら、思いつめた表情をしていた。
「お久、待たせたな」
「だ、大助さま!? よくご無事で!」
お久の目には涙が浮かんでいる。富盛辰太郎とやり合ったと聞いて、無傷では済まないと案じていたのだろう。彼女の視線が、俺の破れた小袖に移る。
「大変! お怪我はありませんか?」
「ああ、大したことないさ」
「……」
「どうした?」
「……ヒック……ヒック……本当に心配しました……」
「お久? 泣いてるのか?」
「わーーーーーんっ!!」
お久が俺の胸に顔を埋め、堰を切ったように泣きじゃくる。
「大丈夫だよ、お久。ほら、マタタビを調理しようか……ん?」
お久は泣きながらも、小さく
ちょうどその時、忠次郎が土間へ駆け込もうとしたが、六郎が入口で引き止めた。
「忠次郎殿、今入るのは野暮というものですぞ」
「な、何ですか、野暮って?」
「あ、思い出しました。畑のことで少々ご相談が……」
「はあ……?」
一方で、俺はお久にマタタビの調理法を教えていた。
「お久、実は辛いから、味噌漬けにして寝かせるのがいい。芽は山菜として雑炊に入れると旨いし、葉は乾燥させて揉んでお茶にするのもいいらしいぞ」
「大助さま、本当にお詳しいですね。では、その通りにしてみます。うふふ」
しばらくして、忠次郎が解放され、土間に戻ってきた。
「大助さまあ! 監視役の私を置いていくなんて酷いですよお!」
「ああ、悪かったな。ところで、お久がマタタビ雑炊を作ってくれるそうだ。一緒に食べよう」
「……まあ、それは楽しみですけど……」
不満げな忠次郎がふと土間の奥に潜む女衆たちに目を留める。
「あれ、お前たち、何してるんだ?」
「もう、野暮なお坊ちゃん!」
「せっかくいいところだったのに!」
「えっ、何がだよ!? さっきから野暮、野暮って!」
その晩、みんなでお久が作ったマタタビ雑炊を味わった。そして一番たくさん食べたのは、何も知らない野暮な忠次郎だった。