山村の大農家である神田家の縄張りに、富盛の嫡男・辰太郎が手下と思しき若者たちを引き連れ、二郷川を占拠していた。そこには弟の辰三郎の姿もある。
神田家付近の二郷川は村で最も賑わう界隈であり、騒ぎを聞きつけた領民たちが次々と集まり、あっという間にその場を埋め尽くしていた。
「辰太郎殿! ここら一帯は神田家の縄張りぞ!」
神田家の若き当主・神田喜左衛門が、怯えつつも無法者たちに注意を促した。
「じゃかましいわ、喜左衛門! 儂らが獲った魚が逃げたけえ捕まえに来ただけじゃ。何が悪い!」
「事情はどうであれ、ここは神田家が使う場所だ。お引き取り願おう」
喜左衛門は領民たちの目もあり、一歩も引けない状況だった。
「そうだ、そうだ!」
領民たちの声援が飛ぶ。
「なんじゃと? おう、力づくでやってみい!」
辰太郎の言葉を合図に、手下たちが河岸へ上がり、喜左衛門を取り囲む。それを見た神田家の郎党たちも慌てて彼の側に集まるが、恐怖で何もできず、ただおどおどとするばかりだった。
「喧嘩じゃ、喧嘩じゃー!」
辺りの喧騒はさらに激しさを増す。
「喜左衛門、勝負しようじゃないか。あん?」
「わ、私は剣術などやりません!」
「じゃあ黙って帰れや!」
「いいえ、このままでは引き下がれません!」
その時、フナを捕まえていた辰三郎が河岸へ上がり、喜左衛門を取り囲む手下たちの間に割って入った。
「へへへ、もう用は済んだわい。ワイらは帰るで」
「辰三郎さん?」
辰三郎の「帰る」という言葉に、辰太郎の手下たちは意外そうな顔を浮かべる。
「なあ兄者! もうこれでええじゃろ!」
辰太郎は中洲にある岩にどっしりと腰を下ろし、余裕の態度で事の成り行きを見守っていた。
「うーん、喜左衛門。お主、儂らに喧嘩売ったんじゃろ。これ、どう落とし前つける気じゃ?」
「お、落とし前って……言ってることが筋違いだろ!」
「言いがかりをつけたんはお主じゃろ。土下座して謝らんかい!」
「何を言ってるんだ! ここは私らの川だ!」
喜左衛門は必死に反論するものの、辰太郎は意に介さない。
「ふん……辰三郎、分からせてやれ」
「お、おう……。喜左衛門、ここは大人しく土下座した方がええぞ」
「嫌だ!」
神田喜左衛門は気丈に振る舞おうとするが、その足は小刻みに震えている。
「……いいから土下座しとけって」
「辰三郎、もうええからさっさとやれ」
「そうですとも、辰三郎さん。何なら儂らがやりましょうか?」
「待て、お前らは手を出すな!」
辰三郎は手下たちを制し、辰太郎に向き直る。
「なぁ兄者、許してやろうじゃないか」
「た、辰三郎さん!? 何をおっしゃるんですか!?」
手下たちは予想外の発言に動揺し、その場がざわついた。
その間、辰太郎がゆっくりと河岸へと歩み寄る。その足取りは自信に満ちており、場の空気を一変させるほどの威圧感を漂わせていた。
「辰三郎、儂の言うことが聞けんのか?」
「兄者、魚は獲ったんじゃ。これ以上揉める必要は無いじゃろ?」
返答を聞くや否や、辰太郎は無言で「バチンッ!」と辰三郎に張り手を見舞った。
「ぐっ……!」
辰三郎は顔を押さえてうずくまる。
「儂らがナメられたら、いつまで経っても武家には戻れんのじゃ。お前はそれが分からんのか!」
辰太郎はさらにもう一発張り手を食らわせようと右手を振りかぶる。その時である。俺は一気に距離を詰め、辰太郎の右手を「ガシッ」と掴んだ。
「おい、兄弟喧嘩ならよそでやれよ?」
「だ、大助ーーーっ!!」
辰三郎は声を荒げた。それはまるで待ち望んでいた助けが現れたかのような叫びだった。
「……ああ? 誰じゃ、お前えええええええ!」
辰太郎は振り向きざま、その勢いを利用して左手で殴りかかってきた。しかし、その動きは十分すぎるほど見えていた。右へ素早く身をかわし辰太郎の拳は空を切る。次の瞬間、身体を反転させる彼の無防備な後頭部へ渾身の蹴りを叩き込んだ。
ゴツンッ!
「い、痛ええええ……!?」
その音と叫び声に場が静まり返った。辰太郎の手下たちは動けず、喜左衛門や郎党たちも目を見開いて固まっている。見物に集まった領民たちさえ、あの暴れん坊の辰太郎が蹴り倒される光景に驚愕し、息を呑んだ。
「だから、誰なんじゃいっ!?」
呻き声を上げながら辰太郎が俺を睨む。
「このお方は国宗の客人、真田大助さまです!」
忠次郎の張りのある声が辺りに響いた。
その一言をきっかけに場の空気が一変する「あれが真田さまか……」とざわめきが起こった。どうやら俺の噂は、この山村でもそれなりに広まっているらしい。
「待て、待てえ! 随分と手荒な挨拶じゃないか。おう、お前らやったれや!」
「へ、へい!」
辰太郎の指示で手下たちが俺に向かって押し寄せてきた。
「かかって来な。元武家の誇りとやらを見せてもらおうか……」
懐かしい感覚だ。大阪夏の陣で足軽どもを蹴散らして以来、これほど胸が高まる瞬間はなかっただろう。俺は体勢を整え、全身に気合いを