シュネル流師範のオルブルは、シュネル流第4位の剣士ベルラントの住まいに寝かされていた。
「ベルラント爺……師範の容態は?」
峠が近いと聞いて、転がり込むように現れたアルウィンとオトゥリア。
彼らはベルラントに「こっちだ」と、導かれて部屋に入っていく。
そして二人は愁眉を寄せて、静かに目を閉じていたオルブルの顔をまじまじと見つめていたのだった。
腹部は上下に動いている。
微弱ながらも、魔力は身体中を巡っていた。
眠っているのか、意識を既に喪失しているのか。
静かな部屋に響くのは、オルブルのかすかな呼吸音だけだった。
アルウィンは枕元に跪き、オルブルの青白い顔にそっと手を伸ばした。
かつて堂々たる姿を見せてくれていたオルブルのその面影は薄れ、今はただ安らかな眠に支配されているだけのように見える。
なんとも形容しがたい感情が彼の心を締め付けたのか、僅かな躊躇いのあとに彼は伸ばした手を落としてしまう。
そんなアルウィンの動作を知っていたのか、知らずか。
震える手を伸ばし、オトゥリアはそっとオルブルの手に触れた。
冷たいが、わずかに残る体温が命の証だと信じたい気持ちが湧き上がる。
目頭が熱くなるのを感じながら、オトゥリアはその手を両手で包み込み、快復を祈るように握りしめた。
───どうか、目を開けてください…
と、心の中で何度も叫ぶが、湯水の如く溢れ出る感情は喉の奥でつっかえて真っ直ぐな気持ちを声には出せなかった。
どんな言葉も虚しく、ただオルブルの意識が戻ることだけを信じて、祈り続けるしかない。
その胸の奥に湧き上がるのは、希望と不安が入り混じった複雑な感情だった。
───目を開けてよ。
言いたいこと……いっぱいあるんだよ。
目頭が熱くなり、視界が滲む。
が、その瞬間に。
オトゥリアの手に、なにか温かいものが触れた。
それは、アルウィンの手だった。
男らしくゴツゴツとした、力強そうな指。
そこから流れてくる温もりに、オトゥリアは目を開く。
「ううっ……」という声が、オルブルから発せられた。
慌ててアルウィンとオトゥリア、レリウスはオルブルの顔を見る。
すると、覚醒したのかオルブルはアルウィンとオトゥリアを見て
「帰ったか……」
と口にするのだった。
と同時に、満身創痍の体たらくでありながらもむくりと起き上がる。
「師範!
急に起き上がったら身体に悪いですよ……!」
とレリウスが介抱しようとするも、オルブルは「良い」と一言で突っぱねる。
「元気そうだな、二人とも」
アルウィンとオトゥリアを見る瞳は澄んでいた。
二人に手を伸ばすと、頭に手を乗せたオルブル。
「この目で見れる最後の光景に、オトゥリア、お前が来てくれるとはな……」
その表情は、死を受け入れたかのようななんとも哀愁漂うものだった。
「……」
「そんな辛気臭い顔をするんじゃない。
俺の身体はもう瘴気に蝕まれている」
魔力感知を使ってみても、確かにオルブルの心臓から送り出される魔力は微弱で、命の灯火がいつ消えてもおかしくはないという状況だった。
けれどもそんなオルブルは、じっと二人に語る。
「俺は、シュネル流の奥義を教わった後に傭兵になった。
そのうちに馬鹿な幼馴染に誘われて……冒険者となった。
古龍も皆で挑んで、どうにか撃退したこともある。
あの頃は楽しかったが……終わりは来た。
俺が仲間につまらない恋慕をして……でも相手は俺を誘った幼馴染を愛していたせいで叶わなくてな。
仲間を傷付けた罪の意識を背負いながら、去った俺は無我夢中になって先代に挑み、剣聖の称号を奪った。
だが……気が付いたら、俺が手に入れられなかった幸福を掴んだ奴らの子供を……弟子として育てていた」
その目は、アルウィンを捉えていた。
「俺の一生は、未練だらけで格好悪いものだ」
オルブルの口が、ゆっくりと動く。
「だが……
そんな中で、最後の最後で希望を見つけた」
アルウィンとオトゥリアの心臓が、ドクンと強く震える。
「稀代の剣才を持つオトゥリアと、ひたむきに努力して奥義を自らのものとしたアルウィン……お前らだ」
息を呑んだ二人。
「俺の名前は歴史に刻まれることはないだろう。
けれどもお前らは……歴史に名を残す者になれる。
瞳の色が、鋭さが、他の者と違うのだ。
互いに高みに登れ。
二人切磋琢磨し合って高みに登れる」
アルウィンとオトゥリアは、何も言えなかった。
「あの古龍カリグリスの片目は潰した。
龍神信仰の教えのひとつには……古龍と人との間には、因果が巡るとある。
俺がここで倒れても、俺の意思を継ぐ者が再び奴に挑むだろう。
たとえそれで命が尽きたとしても、その者の意思は次の世代へと継承されていく」
二人を交互に見る、厳しくも優しかった瞳。
「俺は……その俺の遺志を継ぐ次の役目を、アルウィンに託したい」
震える手が、アルウィンの頬に触れた。
「師範の敵討ちならッ……望むところです」
アルウィンはその手を両手で包み込み、そっと告げる。
「師範の名前は絶対に歴史に刻ませますよ……
オレとオトゥリアが歴史に名を残せるほどになって、最高の師だったと」
「そうか……」と、小さくオルブルは声を洩らした。
続いて、「長い旅の終着点が……お前らでよかった」とぼそりと呟く。
その表情は、安堵にも、最後の瞬間を感じ取った諦めの境地にも見えた。
「まだ……死なないで」
オトゥリアも、アルウィンのようにオルブルの手を両手で包み込んでいた。
瘴気を浴び続けたことによって、傷口や呼吸器に瘴気が蓄積している。
オルブルの肺は、アルウィンが来る頃にはもはや腐っていた。
けれども、彼はただならぬ覚悟で、アルウィンらに言葉を紡いだのだろう。
「お前らの成長を見られないのが……残念だな」
オルブルの身体は支える力を失って、アルウィンとオトゥリアに寄りかかるようにして崩れていた。
脈はなかった。
もう、息をしていなかった。
その生涯は43年。
彼の人生の最後の瞬間は、満足気に見えた。
アルウィン、オトゥリア、レリウス、ベルラント。
各々が感情を顕にしながらも、オルブルという男に最大限の賛辞を送るべく黙っていた。
夜にはテオドールや、国境付近を片付けたジルヴェスタと息子ルディガーも現れていた。
ジルヴェスタが何かをボソリと呟き、皆がこくりと頷いた。
オルブルはゴブリン族の村の中央に運ばれる。
皆は彼に愛剣を握らせてやった。
そして───
彼を包み込んだ揺らめく炎は、オルブルの魂を天へと、龍神の世界へと送るのだった。
古龍種の最大の特徴は、身に内包する莫大な魔力のエネルギーだ。
彼らはそのエネルギーを常に周囲に撒き散らしており、そこに存在するだけでも撒き散らされた魔力によって大災害を巻き起こすと伝えられている。
ズィーア村を襲った瘴煙龍カリグリスは瘴気を撒き散らし、それだけで死体しかない村や、地表の木々が全て枯れ果てた森などを作った。
そうすることで生命のサイクルを初期化し、新たな命の苗床を作る龍が瘴煙龍カリグリスである。
既存の生態系を破壊し、新たなサイクルを作るという古龍災害は龍神信仰においては特別なものであった。
英雄が古龍を狩れば、莫大な富が民草に齎される。
骸から放たれるエネルギーは地脈に干渉し、荒地を森へと変えたり、もしくは逆に森林を砂漠に変えたり、土地の隆起を促したり……など、古龍はたとえ死んだとしても地脈の流れを変えてしまうために周囲の環境に多大なる影響力を持つのだ。
古龍の災害は、龍神が臣下に与えた試練であるというのが、遥か古代より伝わっていた龍神信仰の教えの一つである。
討ち取った者は英雄になれる。
戦ったその地は更地となり、時が経てば新たな命が芽吹く。
信仰において、古龍とは恵みをもたらす龍神の遣いと見なされ、古龍を狩る度に人々は祈りを捧げるのがかつてのしきたりだった。
この日からアルウィンは、古龍カリグリスを倒すために剣術を磨いていくこととなる。