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第64話 吸血

 目をゆっくりと開けたアルウィンに一番最初に気が付いたのはフェトーラだった。

 僅かに動いた彼の微細な魔力を感じ取って、もう間もなく起きるだろうと察知する彼女。


「う……ううっ……」


 アルウィンは、僅かに声を発していた。


 それを見たフェトーラはアルウィンが覚醒した途端に、彼の帰還に対する喜びよりも、触れたことによる羞恥心に駆られて居ても立ってもいられなくなった気持ちが強まっていた。

 耳まで顔を紅潮させて、まだぼんやりとしているアルウィンをちらりと見る。


 彼の目は徐々に開きつつある。

 次いでオトゥリアを見、首を傾げる彼女を無視して、再度寝惚けているアルウィンを見る。

 その途端。

 自分の行いに対して、羞恥心が最高潮に達したのだろうか。

 フェトーラの心臓が早鐘を打った。

 触れたら火傷しそうな程に頬を焦がして「ひいいいっ……」と、悲鳴に似た何かを口から放出しながら後退りする。


 アルウィンの頭の下にあったフェトーラの膝は外れ、落ちそうになる彼の頭をオトゥリアがそっと支えていた。

 未だボーッとしているアルウィンを他所に、オトゥリアはフェトーラにぷっと吹き出して笑った。


「くくっ……可愛い」


 そう言われた途端。

 フェトーラは恥辱のあまり両手で顔を隠し、更にはオトゥリアから目線を逸らして口を開いていた。


「……バカにしないでよ!

 あたしにこんな恥ずかしい事をさせたの……オトゥリアじゃない!!」


「ごめんごめん。許してっ」


 両手をぴっちりと合わせて謝罪の意を示すものの、フェトーラを見るオトゥリアの好奇な目線は変わっておらず、それはまるで愛玩動物と遊ぶ無邪気な子供のような瞳だった。

 その姿にフェトーラは妙にトーンが上がった声で「またやるに決まってるわ……」と小さく呟く。


 夢魔サキュバスのクレイタにアルウィンだけが幻惑を見せられた時も、今回アルウィンが幽体離脱して精神世界に閉じ込められた時でも。

 心配のあまりすぐさま彼に寄り添ったオトゥリアだったが、フェトーラも何となくオトゥリアのようにアルウィンの無事を願い、触れたいと思う気持ちがあることに同じ女子として気が付いたのだろう。

 躊躇うフェトーラの背中を促して、二人でアルウィンを迎えようとオトゥリアは言ったのだ。


 譫言を呟きながら苦しんでいたアルウィンに酷く狼狽したのは、オトゥリアだけではない。

 フェトーラは急速に彼の肉体に流れる魔力が乱れていることを見抜き、何やら複雑な魔法を複数展開しながらもアルウィンのいる精神世界を特定しようと必死になってくれたのである。

 結果、解析は上手くは行かなかったものの、戦うアルウィンに力を分け与える術を見つけ、悪魔アグヴィフィトレスにほぼ何も出来なかった先刻の自分を恥じ、どうにか彼の力になりたいと思ってフェトーラと共に無事を祈りながら魔力を送っていたのだ。


 顔に血の気が差して安らかな寝息を立てたアルウィンを見て安心したオトゥリアは、自分だけが彼に触れていたいと思う気持ちもあったが、フェトーラが未だ何らかの秘める想いを持ちつつもアルウィンとの距離を感じていることに気が付いていたため、彼女と共に膝枕をしようと提案したのだった。


 そして、アルウィンが起きたばかりの現在に至る。

 慌てふためくフェトーラに、イジり甲斐を感じたオトゥリアはうっとりと微笑んでいた。


「って……こんな事をしている間にもアルウィンがシャキッとしちゃうわよ!真面目な顔に戻らないとじゃない!」


「……頑張ってね」


「見捨てないで!?」


 僅かに睨んでジト目を向けるフェトーラだが、敢えて無視したオトゥリアはアルウィンに目を向ける。


 けれども。


 オトゥリアが見た彼の表情は、まるで聞いてはいけないものを聞いてしまったかのような、絶妙に気まずさを顕にしたような引き攣った顔だったのだ。

 要は、頭からか途中からかは解らずとも会話を聞かれていた、ということである。

 オトゥリアは聞かれても大して問題はなかったが、この会話を聞かれていたということをフェトーラが知れば、彼女は落ち着いてきた頬を再び上気させ、悶え苦しむことになる。


 アルウィンは聞かなかった事にしたいらしく、「や、やぁ……オトゥリア……フェトーラ」と変に上擦った声で口を開いていた。


 ───うんうん。なら私も、アルウィンの表情を見なかったことにしよう。流石に可哀想だろうし。


 他人を弄っていても、限度を弁えている所はオトゥリアの持つ広い社交性が故であろう。

 対称的にアルウィンは、他人を弄ることはあれど限度を弁えない節々があることが彼らしいとも言えなくはないのだが。


 まだ火照りが冷めないフェトーラと、気まずそうなアルウィン。

 この妙に対面的に困る空気をどうにかしようと、オトゥリアは「アルウィン、戻ってきてくれてありがとう……!!」と言って無理やり彼の手を取り、勢いよく引っ張って抱き起こしたのだった。


 精神世界たる黒い虚洞の世界アナザーワールドでの激戦は、彼の精神に多大な負荷をかけていた。

 彼の精神は、あの場所で膝の皿を割っただけに留まらず身体中の骨にヒビが入っていたことを鑑みるに、相当消耗していたことは明白だ。


 その心を癒そうと、アルウィンはオトゥリアの身体に、揺れるその果実に触れようとした。

 けれども、後ろから放たれる視線がちくりと痛い。

 はっとして体を捻って振り返ると、やはりそこに居たのはフェトーラだった。

 禍々しくも高潔さを併せ持ち、そして何故か温かさも感じる深紅の魔力。

 暖かみを持つアクアマリンの視線と、深紅の視線。

 交互に合わせると、何故か彼の傷む精神は回復していったのだった。








 ………………

 …………

 ……







「その…お前らの魔力で、オレは助かったんだ。

 ありがとうな」


 柔らかな笑みを浮かべるアルウィンに、オトゥリアとフェトーラの心臓はドクンと大きく震えていた。

 未だ彼の手を掴んでいたオトゥリアの手に、ぎゅっと力が込められる。


 一方のフェトーラの中にあったのは、頬を上気させると共に、何故か涙腺を駆け上がってくる嬉しさの気持ちである。

 フェトーラは荒い息のままよろよろと立ち上がり、アルウィンの顔の目の前に膝をついた。

 嬉しさに開いた口元からは、なるほど吸血族ヴァンパイアの王女らしい立派な八重歯が覗いている。


「感謝の言葉だけでも嬉しいわ。だけど……」


 艶かしい暖かい吐息が、アルウィンにかかる。

 一瞬だけきょとんとした表情を見せるアルウィンに、フェトーラは婀娜あだっぽい笑みを零していた。


「オレの血が欲しい……ってか?」


 察したアルウィンに、フェトーラはこくんと頷いた。

 それを見たオトゥリアは、「ちょっ……ええっ!?」と困惑の表情を浮かべている。


「ほんの一口よ。アルウィン、あんたの味を知りたいの」


「オレの……味?」


「えぇ。いいかしら」


「あぁ。好きなだけ……とは言えないけど。

 あの時にオレに魔力を送る術を見つけたのは、お前なんだろ?

 救って貰えた対価がこの血なら安すぎる」


「そうよ……あたしとオトゥリアの気持ちが上手くハマったというのが正しいのかもしれないけれど」


「もちろんオトゥリアにも……この感謝を表そうと思うが……フェトーラにはこっちの方がいいのかもな」


 そう言うと、彼は山を覆う雪ように真っ白な首筋をフェトーラの前に晒け出してふっと笑う。

 すると……


「優しくするから、じっとしてなさいよ」


 そう言って、まるで接吻をするかのように。

 ダイアンサスの甘い香りが、彼の首筋を包み込んでいた。

 鋭い八重歯が彼の首筋を貫くものの、何故かフェトーラから沸き立つ香りに脳を麻痺させられているのか。


 痛みよりも、僅かにピリッと痺れるような暖かい快感のみが彼の首筋で反応を起こしていた。

 それは僅か数秒の出来事だったが、数分にすら感じていたアルウィン。


 口を離したフェトーラは「ごちそうさま」と悦に入ったように口角を上げる。

 目鼻立ちがシャープでくっきりした美人が魅せる笑顔。そのなんとも言えないいじらしさに、恋人オトゥリアが背中に張り付いているのにも関わらずアルウィンは息を呑んだ。


 ───まずい。首筋から全身に伝わる快楽が半端ない……流れでこうなったけど、オトゥリアに今の顔は見せられないな。


 そう心の中で言葉を吐いたアルウィンだったが、僅かに額を、不快感を顕すかのようにピクピクさせていたオトゥリア。

 彼女はジトっとした目線をアルウィンの後頭部に、そしてフェトーラに向けると深い溜息の後にこう言った。


「いい感じのところ申し訳ないんだけど、アルウィンは私の恋人なんだよ……」


 途端、アルウィンの心臓がきゅうっと締め付けられたかのような痛みを放つ。

 彼の心の中にあったのは───罪悪感に近いものだった。


「確かに……あんたの恋人の血を飲みたいって言ったのはマズかったかしら?」


「違うよ。血のところは種族の違いもあるし別にいいかなって思ってはいるから。

 私が嫌なのは、ちょっとフェトーラだけズルいって思っちゃう醜い気持ち…なのかな……」


 再度溜息を吐き、アルウィンに目線を向けるオトゥリア。

 そうして、何を思ったか。

 彼を雑に床にぼんと捨てるように押し倒すと、彼の脳天を雑に踏みつける。

 アルウィンは「あぐっ!」と苦しそうに呻くが、ちょっと我慢してもらおうと無視することにし、フェトーラをちょいちょいと手招きして耳元で囁いていた。


「別に……竜神信仰には一夫一妻制モノガミーがないから、私の立場を奪わなきゃ二人の関係に文句とかはない……」


「……!」


 途端、フェトーラの頬から耳までが焔のように熱くなる。

 だが、オトゥリアは続けた。


「だけどね……私はフェトーラの事もアルウィンと同じくらい好きになりたいって思ってるんだ」


 どくんと、フェトーラの心臓が震える。

 その言葉は、その意図は。

 フェトーラが欲していたもので、願ってもみないことだった。


吸血族ヴァンパイアは大切な人の血を欲するよね。だから私の血も……フェトーラには飲んで欲しい」


 心做しか顔が近いことに気が付き───フェトーラは潤んだ目を向ける。


「いい……の!?」


「……うん」


 静寂が、静かに辺りを包み込む。

 鈴蘭とダイアンサスが、静かに触れ合った。

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