「オトゥリア……アリアドネ」
アルウィンの声を聞き、オトゥリアは満面の笑みを見せながら彼の右手を取る。
「アルウィン……」
アルウィンを見つめるのは、極めて真っ直ぐな視線。
うっとりと惚ける彼女に自然と目線がいくが、それと同時に左手を握っていた暖かい手が解けた。
それは反対側にいたアリアドネのものである。
オトゥリアにぞっこんで、甘い空気をすぐさま創り出してしまったアルウィンであるが、アリアドネが手を離したことに気が付いてはいた。
彼女の手が外れた瞬間に、アルウィンは視線を左に向ける。
すると、顔を必死に隠したアリアドネが顔から火が出たような表情で「ばっ、馬鹿!こっち見るんじゃないわよ!」と、向かっ腹を立てるのだった。
そんな中で───
突然、三人の首筋にぞわりと逆立つような感覚が走ったのである。
「「……ッ!?」」
剣を取ったアルウィンとオトゥリア、そして我に返って後陣に就くアリアドネ。
禍々しい魔力が、眼前から勢いよく放たれていた。
その魔力が段々と濃くなり、人の形に収束していく。
「何かが来るぞ……!」
禍々しい魔力が、解き放たれたその刹那。
アルウィンの心臓が、勢いよくドクンと鳴った。
───まさか!?
彼は考えるよりも早く地を蹴り上げて、白銀の光を煌めかせた。
まるで彼自身が竜巻になったかのように高速で回転をしながら魔力に向かっていた。空を斬る音は、縄跳びで二重跳びをするような細かい間隔である。
縮地を発動させ、背面に回り込むと身体を捻りながら二撃の回転斬を放つシュネル流の〝
しかし、闇から飛び出た存在はその剣を綺麗に躱し、そのままアルウィンから大きく距離をとる。
影のようなシルエットは、タンと優雅に靴を鳴らしてからアルウィンを見た。
彼は再度縮地を発動させようとしたが───ハッと息を呑んで動きを停める。
その影は、繊麗な所作で恭しくスカートの裾を軽く持ち上げるカーテシーをとったのだ。
その姿に、アルウィンの空いた口は塞がらなかった。
「ご機嫌麗しゅう、皆さま」
禍々しい魔力の正体は、先程アルウィンに幻惑魔法をかけた
彼女はアルウィンをちらと見、ふっと不敵に笑う。
「お前は……オレがさっき、確りと殺したはずだ」
ドスの効いた声が、アルウィンの喉から飛び出していた。
途端、彼から湧き上がる殺意の交じった闘志。
オトゥリアとアリアドネは彼から放たれる粲然たる意志を感じ取っていた。
けれど、
「高位の
剣を構えながら、彼は口を開く。
「そうか。オレに斬られた瞬間に受肉体から精神体を引き剥がして闇に紛れ込んだんだな。
精神生命体らしく酷くしぶとい真似をしてくれる」
本来は魔界や天界という形而上世界に生息する種族とされているが、形而下のこの世界に顕現すると、この世界に上手く適合出来る身体の構造では無いため肉体から魔力が霧散してしまい、長時間身体の形状を保てなくなる。
そのため、この世界の法則に適応している生命に受肉という行為を行って肉体を乗っ取り、肉体を維持することで魔力を消費しないようにする必要があるのだ。
「いい加減に魔界に戻れ。痩せ我慢するなよ。苦しいんだろう?」
突っ慳貪な口調で放たれる、アルウィンの言葉。
迷宮の最終層に到達するためにこの
挑発するアルウィンだが、女は動じなかった。
「主はお呼びです。アルウィン・ユスティニアの勇姿を称え、御三方で最終層に入ることを認められました」
「それは……」
「主って、
アルウィンを遮って、そう問うたオトゥリア。
が、
「挑戦権が与えられるって訳だよね……?」
「えぇ。そうとも言えます」
オトゥリアの眼が、アルウィンとアリアドネを交互に見る。
彼女の表情は
この迷宮攻略が終わることへの歓喜の面をその頬は有しているように見えるが、最後の敵へ向ける緊張の息遣いも聞こえてきて真意ははっきりとしない。
けれども、これだけは解ることがアルウィンにはあった。
「ベストを尽くす。これだけだよな」
アルウィンが突き出した、ぎゅっと握られた拳。
オトゥリアとアリアドネが同じように固く閉じた拳でアルウィンのそれに触れた。
「遂に……
そう呟いたアリアドネの瞳には何故か、僅かな不安の色が差し込んでいた。
それはまるで、何かから恐れているかのようなものだった。
オトゥリアをちらちらと目で伺って、目が合いそうになると逸らすのだ。
「あれっ、アリアドネ。どうしたの?」
アリアドネの挙動に気が付いたオトゥリアが、慈愛に満ちた表情で優しく声をかける。
彼女の心中では、迷宮最深部に近付くにつれて不安の芽が徐々に大きくなっていっていた。
その僅かな感情の乱れに気が付いていたのか、オトゥリアはアリアドネの背中に手を回し、優しく抱き寄せる。
すると、アリアドネはその温もりに包まれた結果、感情の溢れた息遣いと共に、目に涙を浮かべるのだった。
そんな状況を察して。
「ごめんね、アルウィン。ちょっとアリアドネと二人きりになりたい」
そう言ったオトゥリアだったが───アリアドネは「いえ、アルウィンもここに居て頂戴」と弱々しい声でそう告げる。
「解ったが……女性同士の方が良さそうな気もするし……本当にオレが居ていいのか?」
心配するアルウィン。
「えぇ。アルウィンとオトゥリアには……ずっと言わなければならなかったことがあったのよ」
彼女の声は震えている。
「何でも言って。私はアリアドネの味方だから」
そんな温かいオトゥリアの言葉に、余計アリアドネは苦しそうに視線をずらしてしまった。
「アリアドネ……」
アリアドネに若干の距離を置いてしまっていたアルウィンだったが、彼女の逡巡する姿に過去の自分を投射していた。
どくどくと聴こえる心音は、誰のものだろうか。
「今後も協力してくれるんだろう?
オレだって……そのっ……何だ。お前のことを仲間だって思えてきたわけだし……よりお前のことを知るためにも吐き出してくれないか」
アルウィンが初めてアリアドネに向けた感情は、限りなく優さの溢れるものだった。
その言葉に、まるで氷が溶かされたかのように。
アルウィンは、涙を貯める彼女にハンカチを差し出して、アリアドネの左手に触れる。
すると、オトゥリアは言葉を紡ぎ出した。
「オトゥリア……アルウィン。
ずっと黙っていたけれど……あたしの正体を明かさないとならない状況になったわ。
だけど、気に病まないで欲しい。あたしに気を遣うなんてシケたことはして欲しくはないの」
「「正体……」」
「正体を晒しても、オトゥリア。あんたは罪悪感なんて抱かないで欲しい。あんたには昨日あんなことをしてしまったけど……それと同時に、あんたを大切にしたいと強く思えたの」
「罪悪感……?」
何を言っているのか未だに掴めないオトゥリアが言葉を漏らす。
その僅か数秒後に、震える声で、でもはっきりと。
アリアドネは二人に告げたのだった。
「あたしの正体は……
真名は、フェトーラ・ズィアエスクよ」