「ほらっ!アルウィン!!」
オトゥリアが手を引く街並みは、どことなくジルヴェスタ・ゴットフリードが統治しているツァラストラに似ていた。
「ほら着いたよ!」
オトゥリアに連れてこられた場所は宝石店。
ぎいっと音を立てて開いた扉の奥にいた店主は、アルウィンを見ると恭しく礼をする。
「これはこれは。ユスティニア千人長ではありませんか」
───千人長!?オレが!?
アルウィンは息を呑んだ。
千人長とは、エヴィゲゥルド王国の軍階級のひとつである。王国の軍学校で二年間学習した末に取得が許される地位で、百人長、二百人長、三百人長、五百人長、千人長と下から数えて五番目の階級である。
───なるほど。だからこの幻惑魔法の中のオレのコートには色々な勲章があるのか。
「〝尖矢〟のユスティニア千人長とその
とっておきのものを準備しております。少々、お待ちを」
と言って奥へ消えた店主。
「奥方、だってよ。私……ちょっと恥ずかしいな」
頬をぽっと紅潮させて、溢れんばかりの喜びとあざとさのある目線をアルウィンに向けるオトゥリア。
嬉しさの滲み出た表情に、アルウィンは表面上は微笑み返すものの、内心の混乱は極まりなかった。
「そうだな」とだけ返して、目線を周囲に移す。
───自分の知らないことが多すぎる。オレは何故か軍人になってるし、オトゥリアが奥方と呼ばれている。
オレたちは指輪……婚約指輪か結婚指輪かを買いに来た、ってところか。
困惑の色は、表情にも現れそうになっていた。
けれど、怪訝そうな顔を向けたオトゥリアには引きつった口角を無理やり上げて誤魔化す。
「お待たせ致しました。こちらが当店自慢の逸品になります」
店主が差し出した箱の中にあったものは、二つの白金の丁寧に彫られたリングである。
片方には翠色の輝きが、もう一方には空色の光が鎮座しているものだった。
そのあまりの美しさに、オトゥリアは「わぁっ」と息を呑む。
彼女の喜悦の情はとめどなく溢れていた。
「こちらはダイザール迷宮産の魔石を使用したものでございます。ささっ、お二人にはお似合いかと思われますが、是非とも試しに着けて頂けませんか??」
店主が放った、ダイザールという地名。
その言葉に、アルウィンの瞳が鋭く光る。
───そうだ。ここはダイザール迷宮だ。
このオトゥリアはあまりにも本人に似ているが、それは幻惑。偽物なんだ。
違和感を感じつつも、流されてしまった。
早く決着を着けないと、この幻惑に呑まれてしまうな。
眼をカッと開き、覚悟を決めたアルウィンは───店主をギロリと睨むと剣を引き抜いていた。
その姿に、突如撒き散らされた重苦しい空気感に、店主は口をあんぐりと空け、恐怖に呑まれている。
心臓から早鐘のように押し出される血液の圧迫感を感じているのか、胸を押えながら。
───ここまで強力な幻惑魔法の使い手が迷宮内にいるようだが、幻惑魔法を扱う
自身に幻惑を見せてくる術者は、幻惑の中にも個の人格として存在する。
それを、幻惑の中で攻撃すればいい。
そうすれば魔境から抜け出せるのだ。
彼は、術者が何に化けているのかは解らなかった。
だが、幻惑の中の住人を攻撃すれば、術者がダメージを負うことを知っている。
ならば、することは一つだ。
ここにいる無抵抗な店主に一撃でも与えればよい。
白銀の光が、店主に向かって振り下ろされていくのだが───
「ちょっちょっ!?何してるの!?アルウィン!!」
急に立ち上がったオトゥリアは、すぐさま彼に肉薄して腕を掴み剣を封じる。
が、その時。
アルウィンは、観た。
オトゥリアの表情が一瞬だけ揺らぎ、そして彼を止めようとした瞬間───彼女を形成するものの外側に、僅かに魔力が漏れたことを。
これは魔力感知のような、確実なものではない。
寧ろ、勘に限りなく近いものであろう。
けれども、彼の本能は告げていた。
このオトゥリアは、オトゥリアではない別な何かであるということを。
アルウィンの身体は、ここ数日間一緒に居たことでオトゥリアの発する魔力を思い出していた。
それは、彼女自身の性格を表すかのような魔力。
まるで太陽のように暖かい、優しさに溢れた魔力だ。
しかし、目の前のオトゥリアの漏れた魔力はそれとは異なった、人をバカにしたような冷たい魔力だったのである。
その魔力を感じ取ったアルウィンの身体全身にゾワッと走る、毛が逆立ったかのような感覚。
それは、生理的な嫌悪感に等しかった。
「落ち着いて!!アルウィン!」
アルウィンの腕を掴む、オトゥリアの身体を持ったなにか。
彼はそれを、激しい憎悪の篭もった目で睨める。
───オトゥリアの……姿でオレに近付くなッ!!
彼は剣の柄を強く握った。
そして。
「シュネル流!〝辻風〟!」
それは正しく、不意打ちだった。
至近距離にいた、オトゥリアのガワを纏ったものに高速で届く、半月状の剣の軌道。
それが皮膚を貫かんとする瞬間に。
周囲の空気が一変した。
「!?」
と同時に、オトゥリアの姿をした何かは片手で、アルウィンの剣を止めていたのだった。
───オレの剣を……素手で止めただと?
驚動を漏らすアルウィンだったが、向こうも当惑したかのような表情のまま、彼の剣を握っていた。
見渡すと、周囲の風景は酷く歪んでいた。
そして、その歪みはさらに拡大していく。
店の中にいた店主や、宝石や、家具やら、全てを巻き込みながら、まるで貯めた水を排水溝から逃したときのように渦巻いて闇に還る風景。
周囲は禍々しい魔力がたちこめ、そこでアルウィンはオトゥリアの姿をした何かと対峙していた。
息をしようにも、禍々しさに胸が苦しい。
アルウィンが苦しそうに呼吸をするなかで、オトゥリアの姿を纏った何かが、彼の剣を離して闇に包まれる。
───何だ!?
すぐさま距離をとって、構え直すアルウィン。
彼の頬に伝う汗が、闇の中でも光を放って煌めいていた。
目の前の闇が解ける。
その闇の中にいたのは、古風なメイド服に身を包んだ女だった。
アルウィンは心臓を掴まれたかのような気味の悪さを覚え、強い眼光を以て対峙する。
───おいおい。これが
武力もとんでもなかった。オレの剣を素手で受け止めるなんて芸当は師範とジルヴェスタおじさんくらいしか出来ないのに。
先程まで封じられていた魔力感知は、空間が歪んだ瞬間に使えるようになっていた。
女は、不気味な雰囲気を纏いながら口を開く。
「わたくしの幻惑魔法の中では、わたくしがルールです。他人を傷つけるなど不可能だったはずでした」
見ると、アルウィンの剣を受け止めていた女の手には血が滲んでいる。
「けれども貴方は───憎悪を以てわたくしに攻撃出来ましたね。主は大変悦ばれております。
アルウィン・ユスティニア。
貴方に敬意を表します。貴方は選ばれたのです」
その視線を睨みで返すアルウィン。
どうやって攻撃しようかと考えを巡らせるものの、女に付け入る隙などなかった。
「オレは仲間のもとに戻らなければならない。主というのは
首を洗って待っておけと伝えてくれないか」
自分の手には余る、強大な力を得た化け物。
しかし彼には、オトゥリアと合流するために斬らねばならない敵であった。
「なかなかのハッタリですね。伝えておきましょう。
ところで……わたくしは何時でも貴方を倒せます」
「……だろうな。ヤバい雰囲気はビシバシと伝わってくるよ」
「倒した上で主に貴方の身柄をお渡しする予定でしたが……貴方の心まで叩き潰しておきましょうか」
「心を叩き潰す……だと!?」
「えぇ。わたくしは貴方を殺しはしません。精神はへし折らせて頂きますが」
静かに告げた女は、静かに殺気を放出していた。
武器などは無い。
無手でアルウィンを倒せると言っているようなものだ。
「化け物が……だが、オレは戻らなきゃならない」
彼は、剣を構え直す。
女が、瞬きをしたその瞬間。
───今だ。
女の視界が黒に染った途端に、アルウィンは地を蹴った。
見えたのだ。僅かだが、勝つための活路が。
アルウィンは女を右側に捉え、横から一閃を放つ。
気配を遮断して断つ、〝凪風〟だ。
しかし女は高速で動いたアルウィンの姿を確りと認識していたのか、今度は回避に動いていた。
「無駄です。
わたくしと貴方には雲泥の差があるのですよ」
アルウィンが次々と連撃を叩き込んでいく中で、淡々と事実を突きつける女。
彼の攻撃は全て回避され、フェイントすら引っかかってくれなかった。
けれども。
アルウィンの考えた結末に、女は着実に誘い込まれていく。
そんな中で、彼は気付いたことがあったのだ。
「……お前。
魔力や身体能力は化け物だが、戦闘経験が全く足りてないんだな」
「実力差はこの通りですが、今更何を言うのです?」
一生に付した女の全身をアルウィンは視界に捉えていた。
ニヒルな笑みを浮かべると、まるで歌うように低く呟く。
「シュネル流奥義……〝
刹那。
アルウィンの身体が、とるステップが、優雅に舞うような動作となって女の周囲を駆け巡っていた。
女は魔力を見ていたのか、それともアルウィンの身体の動きを見ていたのか。
それは兎も角、アルウィンの攻撃が全て見切れると確信していたはずだ。
『シュネル流剣士と邂逅したら、視覚は信じるな。魔力、気配、音を信じろ』
その文言は、どの流派であろうと伝えられるものである。
それはなぜか。
アルウィンが放ったこの〝
12年間の研鑽を積んで、剣の境地に触れたアルウィンが放つのは、奥義の中でも別格の技である。
シュネル流の別名をも冠するこの技に、彼の剣が瞬いた。
「消えろ」
女は、あまりにも見える情報に頼りすぎていた。
格下だったアルウィンを、どこか舐め腐った女の態度。
視認不可能の一撃は、女の肩口から腹部まで到達するような深い傷となって顕れる。
血は、
そしてそのまま、
………………
…………
……
「うっ……ふああああっ……」
ゆっくりと眼を開ける。
薄ぼんやりとした視界には、金髪と茶髪があった。
次第に焦点があっていく。
途端、安堵したが故だろうか。羞恥心が溢れ出た。
顔を手で隠したかった。
けれども、それは出来ないことだった。
映っていたのは、それぞれ右手、左手をギュッと掴んで離さないオトゥリアとアリアドネの二人の姿だったのだ。
彼の魂底に沈んでいた意識は、たった今戻ったのである。