「おい、小島。俺の靴をくわえて持ってこいよ!」
「聞こえてねぇのか? パシリの仕事だろ、ヒャハハ!」
「チッ、まだヤラれ足りねぇみてぇだな。意地張ってんじゃねぇよ、ザコが」
湿ったコンクリートの臭いと、カビ臭さが混ざり合った不快な臭いが鼻を刺す。点滅する古びた蛍光灯が、この薄暗い男子トイレをさらに陰鬱なものにさせる。
男子トイレの中では汚れた床にうずくまる男子生徒を、いかにもな不良たちがニヤニヤしながら取り囲んでいた。
その不良たちの真ん中にいるリーダー格、青原がニヤついた表情のままおもむろに腰に下げていた革ベルトを取り出した。
手に握った革ベルトを振るうと、湿った空間に鋭い音が響く。一瞬の静寂、その後に不良たちの下卑た笑い声が男子トイレに響き渡った。
泥水と汚れが染みついた床にうずくまったままの男子生徒、小島秀一の姿を見て青原はわざとらしく大きな溜息をつく。
「オラ、いつまで寝てんだよ。立てよ、駄犬が」
その言葉に応えるように、秀一はゆっくりと腕をついて体を起こそうとする。だが――
バシン!
「ぐっ!?」
背中に振り下ろされた革ベルトが鋭い音を立て、体を貫くような痛みが秀一を襲う。しかし秀一は一瞬だけ苦悶の声を漏らしたものの、一言も弱音を口にしようとしない。
青原はさらにもう一撃を加えるそぶりを見せつつ、周囲の不良たちを振り返る。
「コイツ、ほんっと根性だけはあるよな? ま、何の意味もねーけど」
「根性っつーか、馬鹿なだけだろ」
「そろそろ気付けよ。自分がどんだけ無駄なことしてるかってよ」
周囲からの嘲笑を聞き流しながらも、秀一は悔しさのあまり歯を食いしばっていた。肉体的な苦痛など大したことはない。彼にとって何よりツラく悔しいのは、自分の無力さだった。
平穏な生活と、大切な人を守りたい――ただ、それだけなのに。
それは秀一が描くたった一つの、ささやかな夢。
物語の主人公のような色鮮やかな生活なんて必要ない。ただ普通に一日を過ごし、笑ったり怒ったりして、そしてそこに大切な人がいればそれだけで良かった。
だからこそ、この不良たちを大切なあの
「……僕はただ、平穏に生きたいだけだ。大切な人を守りたいだけだ。それなのに、なぜ僕の夢を邪魔するんだ」
その言葉と反抗的な視線を受けた青原は、怒りに任せてさらに暴力を加えようとした。だが次の瞬間、秀一や不良たちのものではない厳しい声が響いた。
「お前たち、何をしている! 今度ケンカなんぞしたら、厳しい処分を覚悟しろ」
校長に気に入られている教師の小野は、この状況を「ケンカ」の一言で事態を片づけてしまった。つまり不良たちの行動を黙認したということだ。
泥に汚れた秀一は、腫れた目をゆっくりと開けて窓の外を見た。鈍色の雲が漂う空は、彼の心に根を下ろした重苦しい痛みそのものに思えた。
全身の痛みに顔をしかめながら、教室へと歩く。放課後の校舎には生徒がほとんど残っておらず、ボロボロの顔を見られずに済んだのは幸いだった。
教室に入ると、一枚のメモ用紙が彼の机に置かれていた。そこにはたった一言。
『もう余計なことはしないで』
見覚えのある端正な文字。たったこれだけでも誰が書いたものかよくわかる。彼の大切な幼馴染――絵里の字だ。
「はは……」
胸の奥で何かが崩れる音がした。喉の奥から乾いた笑い声が漏れる。腕が力なく垂れ下がり、メモ用紙が教室の床にハラリと落ちた。
「あぁ……そうか」
自分の力では、彼女を守るどころか迷惑をかけただけだったのではないか。本当は……大切だと思っていたのは自分だけだったのではないか。
秀一が校舎を出ると、空を覆う灰色の雲から冷たい雨がぽつぽつと降り始めた。傘もささず、ずぶ濡れになりながら帰路につく。
頭の中がぼんやりとしていて何も考えられなかった。ただ染み付いた惰性に従って、重い足を家へと向かわせる。
その時だった――
信号機のない交差点。横断歩道を渡っている最中に、大型トラックが突っ込んできた。クラクションの音に反応する間もなく、まるでボールのように吹き飛ばされ、硬い地面に叩きつけられる。
「ぁ――」
頭の中に飛来するのは過去の思い出たち。
長年、家族のために身を粉にして働いてきた父。その無理が祟り、病に倒れて亡くなった――
『秀一、これからはお前が家族を守っていくんだ。お母さんと妹を頼む…』
父が亡き後、苦労しながら自分と妹を育て上げてくれた母。パートを掛け持ちしてヘトヘトになって帰ってきても、優しい笑顔を向け続けてくれた――
『秀一、合格おめでとう! 今日は奮発してちょっとお肉を買ってきたんだよ」
天真爛漫で、いつも自分のそばにくっついていた可愛い妹。ツラい時にはいつもそばにいて、明るい笑顔を見せてくれた――
『お兄ちゃん、新商品のアイスクリーム買ってきたんだ! 一緒に食べよう!』
そして――
『秀一、合格おめでとう。また一緒の学校に通えるね』
(あぁ……まだ、何も守れてないのに……僕はまだ、やるべき、ことが、ある、の、に……)
徐々に意識が遠のいていく。降りしきる雨の冷たさも、血とアスファルトの入り混じった匂いも、もう何も感じない。
だが、最期の瞬間に強く願った。もし生まれ変わることができるのなら、
――今度こそ、
――誰にも、何があろうとも、
――僕と大切な人たちの平穏な暮らしを邪魔させはしない。