「……ロイエンタール伯爵夫人は、フィッツェンハーゲン卿と親しかったんですね。」
シュテファンさまがケーキを購入してお帰りになった後で、ヴィリがそんな風に言ってくる。
「それも、ご家族に気に入られているとか、おっしゃっていましたが……。それでお名前で呼び合っているのですか?」
ヴィリが寂しそうに眉を下げる。
「え?いいえ。それはまた別のお話ですわ。親しくなる過程でそうなったと申しますか。そこまで特別なことでもありませんわ。」
私がそう言うと、
「──では!僕もフィリーネさまとお呼びさせていただくことは可能でしょうか!?」
「え、ええ、構いませんが……。」
前のめりでそう言うヴィリに、思わず圧倒されてしまう。結婚している貴族は、夫以外に名前を呼ばせるものではないけれど、公爵夫人など一部の人は呼ばせていることもあるし、他の貴族の集まりで呼ばれなければ、別にそれほど気にすることでもない。
これまでは、私が結婚しているという意識が強かったこともあって、固辞していたところがあったけれど、イザークに離婚を切り出した今となっては、友人たちにくらい、名前を呼ばせてもいいかも知れないわ。
「では、これからはフィリーネと。ただ、貴族の集まりの際は、ご遠慮くださいね。私は今夫と離婚協議中なので、そうでなければそれほど問題ではないのですが、痛くもない腹をさぐられても困りますし……。」
「わかりました。では2人きりの時と、アデリナ嬢がいらっしゃる時だけ、フィリーネさまと。そう呼ばせていただきますね?」
「ええ。それでしたら。」
そう言うとヴィリは嬉しそうに微笑んだ。シュテファンさまだけが、私を名前呼びしていたことが引っかかっていたのね。……なんだかとてもくすぐったい気持ちになるわ。
ヴィリとはそれなりに親しくさせてもらっていたのに、他の人には呼ばせて、ヴィリには呼ばせなかったら、それは少しモヤッとしてしまうかも知れないわ、と思った。
私としては、ヴィリのほうがシュテファンさまよりも気の合う親しい友人のつもりでいたのに、そのヴィリに真っ先に名前呼びを許可しなかったことは、少しヴィリに申し訳なく思った。
「ご自宅にうかがったのも、シュテファンさまのおばあさまの怪我をほんの少し治療させていただいただけですわ。それで感謝してくださったのだと思います。」
「え?ロイエンタール伯爵夫人は、回復魔法か聖魔法をお使いになられるのですか?」
「いいえ、魔法絵を使いました。私の絵は魔法陣を再現することが出来るのです。」
「そこまでの力を、魔法絵で……?失礼ながら魔法絵を描く為に使っている魔石の粉末に込められる魔法は、ごく微細なものです。それでそこまでの力を発揮するなど、正直実感がわかないのですが……。」
魔法絵は本来、絵が少し動いて見えるだけのものだものね。私だってこんな特別な力を持っているだなんて思ってもみなかったし。
ヴィリがそれを不思議に感じるのも無理のないことだわ。魔法絵は国内外ではやっているけれど、少なくとも私以外に、そんな能力のある魔法絵師だなんて聞いたことがないもの。時間を戻す魔法絵なんて、魔塔から秘匿の契約書を結ばされたくらいだしね。
「そうですね。絵が少し動くだけのものが多いと聞いていますが、私の魔法絵はそうだったのです。魔塔にもそのように効果を認めていただきました。私は魔石の粉末入りの絵の具を使って絵に描いたものを、それがなんであれ、実際に出すことが出来るのです。」
「魔塔が認められたのであれば、その能力に間違いはないですね。ロイエンタール伯爵夫人は、そんなにも凄い魔法絵師だったのですね……。それでフィッツェンハーゲン卿のおばあさまの、怪我の治療を……。」
「はい。以前防御魔法の魔法陣を描いて、それを発現させることが出来たので、同じように聖魔法の魔法陣を描いてみたのです。」
「魔法陣を描いて、魔法が出せたと?」
「はい。結果聖魔法の魔法陣を発動させることが出来、シュテファンさまのおばあさまの治療をすることが出来ました。気に入って下さったというのは、ただ、それだけのことですよ。もともと若い方とお話されるのも好きな方だとおっしゃっていましたから。」
私はそう思っていたのだけれど、ヴィリは真剣な顔つきで顎に手を当てた。
「……最近噂に出ている聖女さまの話は、ひょっとしてフィリーネさまのことなのでは?フィッツェンハーゲン卿のおばあさまを治療されたのは、いつ頃の話でしょうか?」
「ほんの数日前のことだけれど……。そんな筈はないわ。私には、魔物を倒す力なんてないもの。せいぜいちょっと古傷を怖がられていた御婦人の背中を押せただけよ?」
「そうでしょうか……。それにしてはタイミングが近いような気もします。」
とヴィリは真剣な表情でそう言った。
ヴィリの考えすぎだと思うけれど……。万が一聖女だなんて祭り上げられていたのだとしても、実際私にはそれだけの力がないのだから、困ってしまうわ。
「そもそも聖魔法の使い手は少ないというから、聖魔法の魔法陣を発動させたことで、私がそうであると勘違いされた可能性は否定しないけれど、万が一私が聖女認定されたとしても、魔塔の賢者は他に所属の出来ないものだと所属の契約の際にうかがいましたし。」
万が一聖女認定されたところで、魔塔と教会、または魔塔と王宮の両方に所属出来るわけではないもの。だから私は特に実際そう認定された際の心配をしていなかった。
聖女さまが現れたら、国も教会としても、それを手中におさめて自らの権威を増したいところでしょうけれど、先に魔塔に所属していたおかげで、実際勘違いされていたとしても、私が招集される可能性はないと言えた。
「え?……待って下さい、フィリーネさまは魔塔の賢者になられたのですか?」
ヴィリが驚いた表情でそう言った。
「はい、魔塔から要望をいただきました。既に契約もかわさせていただきましたし。ですから私がどこか他のところに所属することは出来ません。なので国からも教会からも、要望されてもおこたえは出来ませんね。」
「魔法絵師で魔塔に所属要請があった話なんて初めて聞きますよ……。魔法絵師は魔力が弱いものです。魔石の粉末入りの絵の具に入っている程度の大きさの魔石にしか、魔力を込められない存在なんですよ!?」
ヴィリは驚いたようにそう言った。
「それが、そんな微細な魔石でそれだけの能力が発揮できるんだとすれば、普通の大きさの魔石だったら、フィリーネさまはどれだけの力が発揮出来るんでしょうか?」
そう聞かれて、そういえば魔石の粉末入りの絵の具以外では試したことがなかったということに思い至った。やり方も知らないし。
「……試したことはありませんね。そもそも絵を描く方法以外で、魔石に力を込めるやり方がわかりませんし。私は属性魔法が使えなかったので、魔石に魔力を込める方法を、教わったことがありませんから。」
貴族の入る学園では、入学前に属性判定というものがある。そこで魔法属性があることがわかると、普通科ではなく魔法科に入ることになるのだ。そして卒業後は貴族の令嬢であっても王宮勤めをすることになる。
魔法師団の存在は重要だものね。騎士団とともに国の国防を担っているから、能力次第では貴族の令嬢であっても、この時ばかりは政略結婚より国防が重要視されるのだ。
魔法師団は花形職業で、特に下位貴族であったりすると、魔法師団、騎士団、果ては王宮の文官という、花形職業の男性たちと結ばれる可能性が高くなるから、親も喜んで令嬢たちを魔法師団に送り込むのよね。
私の知っている人も、1人魔法師団に入ったと聞いたわ。王宮に所属する男性たちは、仕事が忙しくて社交にせいを出せないから、学生時代に婚約者がいないと、どうしても職場結婚が多くなるのだと言っていた。
レオンハルトさまが騎士団を引退されるまで結婚されなかったのも、おそらく第1騎士団長という仕事が忙し過ぎたからだろう。
だけど無属性魔法はこれまで、契約魔法に使うインクに魔法をこめたり、それこそ魔法絵師の使う魔石の粉末入りの絵の具でしか使い道のないものとされていたから、入学前に判定がされない唯一の魔法なのよね。
魔法科に所属していないと、魔石に魔力を込めるやり方は教えてもらえない。契約魔法のインクを作る工房にでも就職すれば、現場で教えてもらえるものだと言うけれど。
契約魔法のインクを作る工房は、領地を分け与えて貰えない貴族の子息や、少しでもいい仕事につきたい平民に人気だから、一縷の望みをかけて教会で鑑定してもらう人もいるけれど、貴族の令嬢は政略結婚で嫁ぐのが仕事だから、誰も無属性魔法があるかの鑑定をしてはもらわないものなのだ。
だから私も鑑定してもらっていないし、当然魔石に直接魔力を込めるやり方なんて、教わっていないから知らないのよね。
「教わってみたいと思いますか?」
そんな風にヴィリが尋ねてくる。
「まあ……使うかどうかはともかく、単純に興味はありますね。絵の具を使う時と比べてどう変わるのかということは。」
それこそヴィリの言うように、小さな魔石の粉末であれだけの力が発揮出来るのであれば、私が大きな結晶に力を込めることが出来るのであれば、もっと凄いことが出来るのかも知れないしね。
ちなみに世の中には、魔石に魔力を込める仕事、というのも存在するのだ。例えば貴族や商人の屋敷、王宮で使われている魔道具に使う魔石がそれにあたる。
魔法の使える人たちの中で、魔法師団に入れない程度の魔力しかない人たちが、次に狙う就職先が、魔石に魔力を込める仕事だ。
魔石というのは、属性を持った状態で魔物からドロップするのはとても珍しいことで、無属性の物に、属性を持った魔法使いが魔力を込めることで属性を持つようになるのだ。
水を出すのも、暖炉に火をつけるのも、部屋の明かりも、今では生活に欠かせない物となった魔道具。それを使えるようにする為の魔石に、魔力を込める人間が必要なのだ。
無属性の魔法を込められたからといって、何が出来るのかがそもそもわからない。なぜなら無属性の魔法はインクや絵の具などと相性がよくて、それと組み合わせてこそ力を発揮するものだとされているから。
でも、フェルディナンドさまを始めとする魔塔の賢者たちは、それぞれ研究室を持っていて、常日頃新たな魔法の研究をしているのだそうだ。それが魔塔の賢者の役目だと。
……だったら私も、魔塔に研究室こそまだないけれど、強い無属性魔法を持つ魔塔の賢者として、無属性魔法の可能性を研究すべきかしら?そんなことを思案した。
「でしたら、うちの工房に通ってみますか?うちで手掛けている契約魔法のインク工房があるのですが、そこで魔石に魔法を込める方法を教えてくれますよ。」
「そうなんですか?でも、魔石の粉末入りの絵の具と同じで、かなり微細に砕いた魔石を使用されているのでは?」
それだったら、無属性魔法を込める前のインクを使用して契約書を書けば、私の場合は勝手に魔力が込められるから、特に教わる必要もないと思うのだけれど……。
「ああ、契約魔法のインクの作り方をご存じないんですね。あれは魔石の粉末入りの絵の具と違って、普通の絵の具に、微細に砕いた粉末を混ぜるやり方とは、違う作り方で作るものなんですよ。」
「そうなのですか?ではどのような作り方をされているのでしょう?」
「一般的に魔道具に使われるような大きさに至らない魔石を使用するのですが、そこに無属性魔法を込めてから、魔石を粉砕するんですよ。手順がだいぶ異なります。」
「そうだったのですか……。それはなぜなんですか?粉砕してから無属性魔法を使う人に契約書を書きながら魔力を込めてもらったほうが、単純で話が早いのでは?」
「平民は字が書けないことが殆どなのもありますし、契約魔法を使うほどの契約書の内容を、外部の人間に見せるだけでも、別の契約書が必要になるから、がその理由ですね。」
「なるほど……。」
確かに、魔法契約を使った契約書を作る為だけに、いちいち秘匿の契約書を書かせていたら、手間で仕方がないわね。
だったら無属性魔法の込められたインクを使って、無属性魔法が使えない人でも、契約書を書く際に魔法が発動してくれたほうが楽でいいということね。
「だから先に魔石に魔力を込めて、インクに混ぜるんですよ。砕いてからですと、インク壺の中にあるインクに、魔力を込めるのが難しい。書類を書く時にしか込められない。無属性魔法が使えない人たちが、魔法契約を結びやすくする為に開発された方法ですね。」
「それで、魔石に魔力を込めるやり方を、インク工房では教えている、というわけなのですね?」
「そういうことですね。無属性魔法使いは、学校などでやり方を教わりませんし。」
ヴィリがこっくりとうなずいた。
「もし教えていただけるのであれば……、実際直接魔石に魔力を込めたらどうなるのか知りたいですし、教えていただきたいですね。」
「わかりました。ではインク工房に連絡を取って、予定を組みましょうか。いつ頃がご都合よろしでしょうか?」
「そうですね……。今日、明日は絵を描く約束をしていますから、明後日以降であれば、早めに予定を知らせていただければ、その日は予定を入れずにあけておきます。」
「わかりました。ではそれで工房のほうにスケジュールを確認しておきますね。」
「ありがとうござます。……こんなに親切にしていただいて、なんだか申し訳ないわ。」
「いいえ、これぐらいのこと、なんてことはありませんよ。フィリーネさまのお役に立てることがあるのが嬉しいのですから。」
そう言って、ヴィリは本当に嬉しそうに微笑んだ。こんなことくらいでそんなに喜ばれると、なんだか気恥ずかしいわ……。
私はヴィリが私にしてくれることの、半分もお返し出来ないのに。
「……ヴィリは何か、私にして欲しいことはないのですか?こんなに良くしていただいてばかりでは、なんだか申し訳ないわ。」
「僕としては、気にせず頼っていただけたほうがよいのですが……。もしもご負担に感じられるようであれば、お願いがあります。」
「なんでしょう?なんでもおっしゃってくださいな。私に出来ることであれば……。」
「──男にそんな気軽に、なんでもなんておっしゃるものではありませんよ。」
ヴィリがそう言ってフッと微笑んだ。私はその表情に、初めてヴィリが1人の男性に見えてドキッとした。
気の合う友人として接してきたけれど、ヴィリだって年齢の近い大人の男性なんだわ。シュテファンさまの前での態度といい、ヴィリは私が思っているような、友人として私を見ているわけではないのかも知れない。
……ううん、私がまだ結婚しているから、適切な距離を保とうとしていてくれただけで、本当なら他の男性と近付いてすら欲しくないのかも知れない。それに思い至った時、私は頬が熱くなるのを感じたのだった。
────────────────────
X(旧Twitter)始めてみました。
よろしければアカウントフォローお願いします。
@YinYang2145675
少しでも面白いと思ったら、エピソードごとのイイネ、または応援するを押していただけたら幸いです。
ランキングには反映しませんが、作者のモチベーションが上がります。