私は次の日の朝、朝食を済ませると、安全だと教わった通り、馬蹄のマークを下げた辻馬車を捕まえて、フィッツェンハーゲン侯爵令息が経営している化粧品店へと向かった。
王宮にも出入りしていると伺っているけれど、普段どちらにいらっしゃるのかがわからないし、連絡を取る手段はこれしかない。
もしも店舗にいらっしゃらなければ、店員のエアニーさんに伝言して、ご都合をつけていただこうと思ったのだ。
美しい店の入口をくぐると、果たしてフィッツェンハーゲン侯爵令息は店内にいた。
「おや、お久しぶりですね。息災にしていらっしゃいましたか?」
「ええ、フィッツェンハーゲン侯爵令息もお元気そうで。お会いできて良かったです。」
すぐにお会い出来るとは思っていなかったわ。お時間を取っていただくことは可能かしら。お仕事中でいらっしゃるみたいだし。
「今日は化粧品をご覧になりに?」
「いえ、フィッツェンハーゲン侯爵令息にお願いしたいことがございまして⋯⋯。」
「私に、ですか?」
「ええ。フィッツェンハーゲン侯爵令息でなければ、恐らく難しいかと⋯⋯。」
フィッツェンハーゲン侯爵令息は、奥で棚の整理をしていたエアニーさんを振り返り、
「ちょっと出て来るからここを頼む。」
と告げた。
「かしこまりました。」
エアニーさんが優雅にお辞儀をする。
「お仕事中でいらっしゃったのではないのですか?後日改めてでも⋯⋯。」
元々連絡をつける為だけに来たのだしね。今日いきなり相談が出来るとは思っていなかったわけだし。お仕事の邪魔をすることになるのであれば、それは申し訳ないわ。
「なに、休憩を早めにとるだけです。おすすめのカフェにでも行きましょう。それとも、この後なにかご用事が?」
「いえ、わたくしは問題ありません⋯⋯。」
「では、さっそく出かけましょう。準備をしてまいりますので少々お待ち下さい。」
そう言って、まだ少し肌寒い風が吹くからか、軽い上着を取って戻っていらした。
「お待たせいたしました。いきましょう。」
私はフィッツェンハーゲン侯爵令息と連れ立って、カフェへの道を歩いた。
「こんなにすぐにお時間を取っていただいて感謝致します。急なお願いでしたのに。」
「あなたのお願いですからね。何をおいても最優先に駆けつけますよ。」
冗談なのか、麗しく微笑みながら、フィッツェンハーゲン侯爵令息がそう言った。
私は思わずそれに照れてしまう。フィッツェンハーゲン侯爵令息は、貴族の女性を常に相手にしていらっしゃる方だもの。お世辞なんてお手の物だというのに⋯⋯。
真に受けてしまうなんて恥ずかしいわ。
でも、頼れる人の少ない私からすると、やっぱりお世辞でも正直嬉しいわ。
そう思っていると、
「おや、私の言葉を信じていらっしゃらないようですね?本心なのですがね。」
と困ったように笑った。
「いえ⋯⋯そういうわけではないのですけれど、フィッツェンハーゲン侯爵令息ほどの方が、私のことを何より最優先にしてくださるなんて、実感がわかないと申しますか。」
私がそう言った時に、ここです、と、フィッツェンハーゲン侯爵令息がとあるお店の前で立ち止まった。外にもテーブルが置かれていて、花がたくさん飾られたお店だった。
こじんまりしていて落ち着く雰囲気のお店ね。それにたくさんの花々から、とてもいい香りがして、華やいだ気持ちになるわ。
フィッツェンハーゲン侯爵令息が先に店の中に入り、オープンカフェのテラス席の見える店内のテーブルに席を取った。
だいぶ暖かくなったとはいえ、今日は少し冷たい風が吹くものね。もう少し暖かくなったら、外のテラス席でお茶をしてみたいわ。
私はフィッツェンハーゲン侯爵令息おすすめのコーヒーを注文した。コーヒーが運ばれて来て、一口飲んだところで、フィッツェンハーゲン侯爵令息が口を開いた。
「⋯⋯あなたのことは気にしていましたよ。ヴィリバルト・トラウトマンと、先日図書館にいらしていましたよね。あなたは彼をとても頼っているようだった。声をかけるのが憚られて、遠目に見ておりましたが。」
「あの時図書館にいらしたのですか?」
「はい、私はあそこのカフェで休憩を取りつつ本を読んでいることが多いので。」
確かに、先日図書館で助けていただいた際も、図書館のカフェで本を読んでいらしたわね。その時にご覧になられたということね。
「⋯⋯私もあなたに頼っていただきたいと思いました。なぜ、ヴィリバルト・トラウトマンなのかと⋯⋯。私では助けになれないのかと⋯⋯。でもこうして私を訪ねて来て下さった。私はそのことがとても嬉しいのです。」
フィッツェンハーゲン侯爵令息の手が、カップをソーサーの上に置いた私の手に重ねられ、そのまま軽く握ってくる。
思わずドキドキしてしまう。
急に触れられたけれど、不思議と不快感はなかった。むしろ優しく包み込むその手が、私を本当に心配してくれていたのだ、ということを物語っているかのようだった。
「私はあなたの助けになりたい。あなたに1番に頼られる男でいたいのです。それだけは覚えておいていただければ嬉しく思います。」
「フィッツェンハーゲン侯爵令息⋯⋯。」
じっと目の奥を覗き込んでくる、フィッツェンハーゲン侯爵令息の目から、目線を逸らすことが出来ない。まるでクモの巣にとらえられた蝶のような気持ちだった。
フィッツェンハーゲン侯爵令息の甘い毒にとらわれて、そこから逃げ出せずにもがいているかのような。今すぐここから逃げ出したくなるような落ち着かなさを感じた。
駄目だわ、しっかりしなくては。お願いしたいことがあってここまで来たのだもの。
「あの⋯⋯それでお願いなのですが⋯⋯。」
「はい。」
「離婚に強い弁護士をご紹介いただきたいのです。出来れば貴族の離婚に強い方を。」
「弁護士⋯⋯ですか?」
「はい。以前ちらっとお話したかと思いますが、私は今の夫と離婚を考えています。だいぶ準備は整いましたが、相手は貴族です。私1人で立ち向かうには心もとなくて⋯⋯。」
「それで貴族の離婚に強い弁護士を、と。」
「はい。お心あたりがありますでしょうか?貴族の女性とたくさん親しくしていらっしゃるフィッツェンハーゲン侯爵令息であれば、そういったご相談を受けることもあるのではないかと思ったのですが⋯⋯。」
「確かに、そういったご相談をいただくことはままありますね。それに、弁護士にも2、3心当たりがあります。希望する方に紹介することもありますよ。」
「本当ですか!?」
「ええ。私の頼みということであれば、必ず対応してくれる弁護士も1人知っています。その方をご紹介いたしましょうか?」
「ええ、ぜひお願いいたします!あとは弁護士だけだったんです。とてもありがたいですわ。やはりフィッツェンハーゲン侯爵令息に相談してみて良かったです。」
「あなたにそう言っていただけるのが、私にとっても1番嬉しいことですよ。⋯⋯私があなたのお役に立てることがあってよかった。私にしか出来ないことがあると言われて、本当に嬉しかったのですよ。」
嬉しそうに目を細めて微笑んでくる。
それがあまりにも愛おしそうな眼差しで、私は何を言われたわけでもないのに、思わず目を合わせていられなくなって視線を落とした。な、なぜだかとても恥ずかしいわ⋯⋯。
「でも、本当に助かりましたわ。一度ヴィリにお願いしたのですが、紹介いただいたお相手がお忙しかったとかで、断られてしまって困っていたのです。」
「──それです。」
「それ?」
いったいなんのことかしら?
「あなたは図書館でも、ヴィリバルト・トラウトマンのことを、ヴィリと親しげに呼んでいらした。私のことはフィッツェンハーゲン侯爵令息と呼ばれるのに、です。」
「それは⋯⋯。貴族でいらっしゃいますし。ヴィリは周囲の方皆さまに、自分のことをヴィリと呼ぶようおっしゃっていたのです。」
あら、でもそうね。レオンハルトさまは平民でいらっしゃるけど、なんとなくレオンハルトさまと呼んでしまっているわ。そう呼ばせる雰囲気があるからだけど⋯⋯。
フェルディナンドさまのことは、王弟の令息だけれど、魔塔の賢者というお立場が、学生時代貴族令嬢の間で憧れの存在だったことから、お名前呼びをその時からしていたわ。
だから⋯⋯特に関わりが深いわけじゃないフィッツェンハーゲン侯爵令息のことは、そういう風に呼んでしまっているのよね。
「私のことも、これからはステフとお呼びいただけませんか?」
「あ、愛称呼びはちょっと⋯⋯。」
先日のお茶会でだって、どなたもフィッツェンハーゲン侯爵令息のことを愛称で呼んでいらっしゃる方なんていなかったもの。
恋人でもないし、友人としてもそこまで親しい間柄でもないのに、愛称で呼ぶなんて不自然だわ。周りの注目も集めてしまうし。
「駄目⋯⋯ですか?」
念を押すように、フィッツェンハーゲン侯爵令息が私の目の奥を覗き込んでくる。
「はい、さすがに⋯⋯。それでしたら、シュテファンさまとお呼びしても?」
そのくらいなら、呼んでいる方がいなくもなかったような気もするわ⋯⋯。多分。
貴族女性に人気の高い、フィッツェンハーゲン侯爵令息を、お名前でお呼びするというだけでも、かなり大胆なことをしているような気持ちになるけれど⋯⋯。
それを聞いたフィッツェンハーゲン侯爵令息が、とても嬉しそうに破顔した。
⋯⋯そんなことの、何がそんなに嬉しいのかしら。ただお名前で呼んだだけだわ。
こんな風に、自然と女性を喜ばせるから、この方は女性に人気があるのね。⋯⋯そして勘違いする女性も多数生まれそうだわ。
私だって、自分の既婚者という立場がなければ、名前を呼ぶことを了承しただけで、あんなに嬉しそうな笑顔を見せられたら、勘違いしそうになってくるもの。
⋯⋯もっと若い時だったら、正直あぶなかったわね。本当に罪作りな方だわ、フィッツェンハーゲン侯爵令息という方は。
「ええ、もちろんです。あなたのお名前をお呼びしたいところですが、それはあなたが離婚した後の楽しみにとっておきましょう。」
既婚者の女性の名前を、他の男性が呼んではいけない決まりがあるものね。もちろん離婚してからなら、やぶさかではないけれど。
「わかりました。シュテファンさまから私のことを、名前で呼んでいただけるその日を、楽しみにしておりますわ。」
私はそう言って微笑んだ。
離婚をしたら、私はメッゲンドルファー子爵令嬢に戻るから、男性から名前で呼ばれることにも、なんら問題はないものね。
久しく呼ばれなかった名前を、アデリナ嬢に呼んでいただけた時は、自分自身を取り戻したような気持ちになって嬉しかったもの。
早く私は私を取り戻したい。フィリーネ・メッゲンドルファー子爵令嬢に戻って、堂々と魔法絵師として、そして魔塔の賢者の1人として、生きていきたいわ。
「よろしければこれから、彼女の事務所に一緒に行きましょうか?裁判が入っていなければ、事務所にいる筈ですので。」
「彼女⋯⋯。女性なんですか?」
「ええ、まだまだ女性弁護士は珍しい存在ですが、その中でもかなり優秀なほうの方ですよ。離婚弁護士を主にやられています。それも貴族の離婚弁護を中心にね。」
「そうなんですね、それはとても心強いですわ。ぜひ連れて行っていただけますか?」
「わかりました。ではそろそろここを出ましょうか。彼女のところに案内いたします。」
お会計はフィッツェンハーゲン侯爵令息がもってくださった。私はまだ既婚者の身だ。夫以外の男性から単独で食事などをごちそうになるのは、正直はばかられる身分だ。
だから自分の分は支払うとお伝えしたのだけれど、もうすぐお1人になるのですし、ディナーをご馳走したというわけでもないのですから、と、優雅に微笑まれてしまった。
馬蹄のマークの下げられた辻馬車を捕まえて、フィッツェンハーゲン侯爵令息が心当たりがあるという、貴族を中心とした離婚専門弁護士の事務所へと向かうことになった。
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