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第50話  様子のおかしい夫

「……私、絵を描くわ。」

 私はイザークの体をそっと押して離れながらそう言った。こういう気持ちが不安定な時は、絵を描くに限るもの。


「絵を?何故……?突然……?」

 困惑したようにイザークが言う。

「……気持ちを落ち着かせる為よ。私、今冷静じゃないもの。絵を描くと落ち着くの。」


 私がそう言うと、

「……なら、そばで見ていてもいいだろうか。君が絵を描くのを、そう言えば見たことがない。君があれほど怒るくらい大切にしている絵というものを、私も見てみたい。」


 と言ってきた。

「別に……いいけど……。」

 私がなぜあれ程怒ったのかを理解したいと言うのなら、見せたほうがいいかもね。


 私はイザークとともに、1階のアトリエに降りると、絵の続きを描き始めた。夢中になって絵を描いていると、だんだんとさっきの出来事も、イザークのことも、思考の彼方に飛んでいき、絵に夢中になりだした。


 それをじっと見つめているイザーク。

「君は……、とても美しかったんだな。」

 私をじっと見つめていたかと思うと、突然呆けたような顔でそんなことを言ってくる。


「私、今日化粧していないわよ?」

 思わず困惑してそう答えた。

 フィッツェンハーゲン侯爵令息のメイクを施しているのならいざしらず、何故今の私を見てそう思うのかしら?


「絵を描いている時の君の表情は、これまでに見たことのないものだ。」

 とイザークが言った。


「……私は本当に間違っていたんだな。

 私はわざと今まで君に伯爵夫人としての扱いをしてこなかった。社交を始めた君が、ようやく母や私に従う気になったのだと思い、君に宝石を買うことを決めた。」


 そう言って目線を落とす。

「だが……。君は私に逆らって絵の具を追加で手に入れていた。だから見せしめのつもりで、絵の具を売ったと言ったんだ。」


「あれは本当に腹が立ったわ。」

「実際売ってはいない。メイドに手に入れさせただけだ。まだ私の手のうちにある。

 そう言えば反省すると思ったんだ。」


「どうせお母さまの入れ知恵なのでしょう?

 あなたのことですもの。」

「……ああ。そうだ。あれは母の考えだ。

 母の言いなりに君を操ろうとした。」


 イザークは頭を振った。

「それが正しいと思って行動したのは私だ。……だがそれは間違っていた。君は絵を描くことで人とも関わる気になったのだろう?」


「そうね。苦手だったけれど、関わる気になれたのも、絵を通じてたくさん人間関係を築けたからよ。……絵を描いていなかったら、たぶん今も家の中に閉じこもっていたわ。」


「君は絵を描いている時が1番魅力的だ。私はもっと早くにそれを知るべきだった。──君が絵を描くところを見るべきだった。」


「な、なによ、急に……。変な人ね。」

 イザークに褒められたことが意外で、恥ずかしくて、なんだか落ち着かないわ。


「フィリーネ……。」

 イザークが再び私の名を呼ぶ。思わずキュッと心臓が掴まれたようになる。

「な、なに?」


「手を……握ってもいいだろうか?」

「え……?困るわ……。絵が描きづらくなるもの。どうして急にそんなこと……。」


「私は貴族としての義務以外で、君に触れようとはしてこなかった。……女性が恐ろしかった……から、だが。なぜか今の君なら触れられる気がする。それを試してみたいんだ。」


 イザークのトラウマを、私が少しでも改善出来るということだろうか?

 離婚しようとしているとはいえ、長年暮らした相手だ。それなりに情はある。


 ましてやイザークは、気付かなかったとはいえ、あの日のあの男の子なんだもの。彼は私にとっても初恋の相手だったのだから。


「いい……けど、少しだけね?片手を掴まれたままじゃ、絵が描きにくいと思うから。」

「ああ。」


 私の左手を、イザークの右手がそっと包み込む。そのまま絵を描いてみたけれど、やはり左に引っ張られる感覚に慣れない。


「イザーク、やっぱり描き辛いわ……。」

「ああ、すまない。もう少しだけ……。」

「もう少しだけよ?」


 でもイザークは、なかなかその手を離そうとはしてくれなかった。私もなんだか解きづらくて、そのまま握られるままにしていた。


「もう少しこうやって、絵を描く君を近くで見させてくれ。絵を描いている君は、怖くない。ずっと見ていられるんだ。」

 イザークが愛おしげに目を細めている。


 こんなイザークの表情は初めて見る。

 イザークの手は、こんなにも大きくて温かで、優しかっただろうか。私は私に触れる彼の手が、ずっと怖かった筈なのに。


 イザークはどうしてしまったのだろうか。

 ……私はどうしちゃったんだろうか。

 ただ、困惑するばかりだった。


「──お客さんの体調はだいじょうぶ?」

 心配そうな表情のアルベルトが、開いていたアトリエの入口から顔を出して、手を繋いでいる私たちを見て、サッと顔色を変える。


 思わず無理やりイザークが掴んでいた手を振り払った。イザークが困惑したような、傷ついたような表情を一瞬浮かべた。


「イザーク、こちらの方が、お祖父さまと一緒に、あなたを部屋に運んでくれた方よ。

 ……お礼を言ってちょうだい。」


「ああ、そうでしたか。フィリーネの夫の、イザーク・フォン・ロイエンタールと申します。倒れた私を妻の部屋まで運んでくだすったそうで、ありがとうございました。」


「夫……。──はじめまして。俺はアルベルト・ノートン。彼女にこの家を貸している、絵の具工房の絵の具職人。彼女の友人。

 体調はもうだいじょうぶ?」


「ええ、おかげさまで。すっかりよくなりましたよ。──妻も看病してくれたのでね。

 見ず知らずのお友だちにまで心配いただくようなことは、なにもありませんよ。」


「そう……。それは良かった。」

 なんだか2人の様子が不穏なものに見えるのは、私だけなのかしら?2人の間に稲妻が飛び交っているようにも見えるのだけど。


「夕飯はどうする?うちで食べる?」

「材料をたくさんいただいたし、ここで作って食べるわ。食材が傷んでしまうもの。」


「それなら私も夕食をここで食べていこう。

 せっかくの夫婦水入らずだ。」

「ええ?イザークも食べるの?……別に構わないけど……。あっちはいいの?」


 ロイエンタール伯爵家で、食事の準備をしていると思うのだけれど……。

 イザークは泊まりになる時以外は、どれだけ遅くなっても自宅で軽く夕食をとるから。


 パーティーに参加しているから、料理はたくさん会場にある筈だけれど、たいていはお酒を飲みながら商談をするのに忙しいのか、あまり食べてこないみたいなのよね。


 喋りながらお酒を飲むことは出来ても、料理を食べるのは難しいからだと思うけど。

 私がそれを気にしてそう言うと、

「君の手料理のほうが食べたい。」


 とイザークが言った。

「さっきも言っただろう?……あの家の食事は息が詰まるんだ。君の料理はとても美味しい。味を楽しんで食事が出来るんだ。」


「今日は大量の食材も使ってしまいたいことだしいいけれど……。

 明日以降は勘弁してちょうだい。

 私はあなたと離婚するつもりでいるのに、夫が出入りしているなんておかしいわ。」


「私は離婚するつもりがないとも言った。」

「それはあなたの都合でしょう?

 私はそのつもり……もうないもの。」


「食材が余って困ってるの?」

「ええ。ヨハンが大量に持ち込んでくれたものだから……。1人じゃ食べきれないの。」


「なら、俺が毎日食べに来るよ。

 そうすれば使い切れるでしょう?」

「ええ、そうね、それなら……。」

「──私の妻の家に入り浸る気か?」


 イザークがアルベルトを睨む。

「彼女はうちに来ていつも食事をしていた。今度は俺がお客さんで行くだけ。家族もずっと一緒だった。何がおかしい。」


「そうよイザーク、私はずっとこちらのお宅にお世話になっていたのよ。お礼で料理を提供するくらい、おかしなことじゃないわ。」


「だが!こいつは!」

「……大きな声を出さないでちょうだい。

 アルベルトがなんだっていうのよ。」

「お前を狙って……。」


「なに、聞こえないわ?なんて言ったの?」

「だから……。わかった。好きにしろ。

 だが私が離婚しないという気持ちに変わりはない。それだけは覚えておいて欲しい。」


「……私もあなたと離婚したいという気持ちは変わらないわ、イザーク。私の友人関係にまで、口出しをしないで欲しいの。私が大切にする人は、私が自分で決めるわ。」


「フィリーネ……。」

「夕飯は食べていくんでしょう?それまで絵を描かせてちょうだい。きりがいいところまで描いたら、食事を作るから。」


「わかった。今日は一緒にいられるんだな。

 それ以降のことは、またゆっくりと考えよう。気持ちが変わるかも知れないからな。」


「ええ、そうしてちょうだい。……変わるとは思えないけれど。アルベルトもわざわざ様子を見に来てくれてありがとうね。もうだいじょうぶだから、家に戻ってちょうだい。」


「わかった。今日は帰る。またね。」

「ええ。また明日。」

 去って行くアルベルトを、イザークは最後まで睨みながら見送った。


 イザークとようやく手が離れたので、私は集中して絵を描いた。それをイザークはずっと黙って見つめていた。

「……ふう、こんなものかしら。」


「君は本当に絵がうまかったんだな。」

「まだまだよ。きちんと習ったわけじゃないから、バランスをとるのが難しいの。」


「習わずにそれなら大したものだ。君という人を、俺はずっと見誤っていたんだな。」

 イザークが感心したように絵を見ている。

 私はちょっぴり恥ずかしかった。


 2階に上がると、料理の支度を開始する。イザークにはその間お茶を出した。私の部屋にイザークがいるのが不思議な感じだ。


 こんな風にお茶をすることなんて、ロイエンタール伯爵家にいた時にもなかったのに。

「支度が出来たわ。食べましょうか。」


 夕飯はみじん切りにした玉ねぎとミンチしたお肉を焼いて、キャベツを少しずつ足した物に、野菜のスープと、茹でたジャガイモをバターとローズマリーで炒めて水気を飛ばしたものを加え、塩、コショウとナツメグで味付けし、小麦粉でとろみをつけたキャベツ煮と、パンと、サラダ、デザートのイチゴだ。


 こんなシンプルなもの、ロイエンタール伯爵家じゃ絶対出てこないわね。だけどイザークは美味しそうに食べてくれた。食事時に無表情じゃないだけでも不思議な感じだ。


「……優しい味がするな。」

 幸せそうに目を細めるイザーク。もっと早くに料理してあげればよかったのかしら。

 そうすれば会話が出来たかしら。


 ……いいえ、無理ね。あの家にいるから、何を食べるにしても、早くに食べ終わるルールが適用されるのだもの。私が料理したところで、あの家にいる限りはきっと同じだわ。


「それじゃ、私は帰るが、護衛もいない家に1人なんだ、くれぐれも気を付けてくれ。」

 私の手を握りながら、心配そうにイザークが私を見つめつつ言う。


「危険な目に合うようなら、すぐにでもロイエンタール伯爵家に帰ってくるんだぞ。」

「それくらいなら護衛を送ってくれたほうがマシよ。私はここで暮らすつもりだから。」


「……君も頑固だな。わかった。」

 イザークはため息をついた。

 イザークが帰って、私は後片付けを終えると、また絵に取り掛かり始めた。


 ようやく本当に1人なのね。ずっと工房長の家にいたから、シンとした家が少しさみしくて怖い気もするわ。でも早く慣れないと。


 そう思っていた時、ミシ……、と天井から変な音がした気がした。風が強いから、天井がたわんでいるのかしら?


 古い家だし手を入れてると言っても、そこまで気が回らなかったのかも知れないわね。

 万が一ということがあるわ。穴でもあいていやしないかと、私はランプを片手に2階に上がり、天井にランプを向けた。


 すると、天井にやはり穴のようなものがあいていて──そこから覗く誰かと、目があったような気がして足首から血の気が引く。

「──ひっ!?」


 思わず目を閉じると、ドサッという音がして、私の口元が手で塞がれる。

「静かにしろ。金はどこだ?」

 ご、強盗……?


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