「……私、絵を描くわ。」
私はイザークの体をそっと押して離れながらそう言った。こういう気持ちが不安定な時は、絵を描くに限るもの。
「絵を?何故……?突然……?」
困惑したようにイザークが言う。
「……気持ちを落ち着かせる為よ。私、今冷静じゃないもの。絵を描くと落ち着くの。」
私がそう言うと、
「……なら、そばで見ていてもいいだろうか。君が絵を描くのを、そう言えば見たことがない。君があれほど怒るくらい大切にしている絵というものを、私も見てみたい。」
と言ってきた。
「別に……いいけど……。」
私がなぜあれ程怒ったのかを理解したいと言うのなら、見せたほうがいいかもね。
私はイザークとともに、1階のアトリエに降りると、絵の続きを描き始めた。夢中になって絵を描いていると、だんだんとさっきの出来事も、イザークのことも、思考の彼方に飛んでいき、絵に夢中になりだした。
それをじっと見つめているイザーク。
「君は……、とても美しかったんだな。」
私をじっと見つめていたかと思うと、突然呆けたような顔でそんなことを言ってくる。
「私、今日化粧していないわよ?」
思わず困惑してそう答えた。
フィッツェンハーゲン侯爵令息のメイクを施しているのならいざしらず、何故今の私を見てそう思うのかしら?
「絵を描いている時の君の表情は、これまでに見たことのないものだ。」
とイザークが言った。
「……私は本当に間違っていたんだな。
私はわざと今まで君に伯爵夫人としての扱いをしてこなかった。社交を始めた君が、ようやく母や私に従う気になったのだと思い、君に宝石を買うことを決めた。」
そう言って目線を落とす。
「だが……。君は私に逆らって絵の具を追加で手に入れていた。だから見せしめのつもりで、絵の具を売ったと言ったんだ。」
「あれは本当に腹が立ったわ。」
「実際売ってはいない。メイドに手に入れさせただけだ。まだ私の手のうちにある。
そう言えば反省すると思ったんだ。」
「どうせお母さまの入れ知恵なのでしょう?
あなたのことですもの。」
「……ああ。そうだ。あれは母の考えだ。
母の言いなりに君を操ろうとした。」
イザークは頭を振った。
「それが正しいと思って行動したのは私だ。……だがそれは間違っていた。君は絵を描くことで人とも関わる気になったのだろう?」
「そうね。苦手だったけれど、関わる気になれたのも、絵を通じてたくさん人間関係を築けたからよ。……絵を描いていなかったら、たぶん今も家の中に閉じこもっていたわ。」
「君は絵を描いている時が1番魅力的だ。私はもっと早くにそれを知るべきだった。──君が絵を描くところを見るべきだった。」
「な、なによ、急に……。変な人ね。」
イザークに褒められたことが意外で、恥ずかしくて、なんだか落ち着かないわ。
「フィリーネ……。」
イザークが再び私の名を呼ぶ。思わずキュッと心臓が掴まれたようになる。
「な、なに?」
「手を……握ってもいいだろうか?」
「え……?困るわ……。絵が描きづらくなるもの。どうして急にそんなこと……。」
「私は貴族としての義務以外で、君に触れようとはしてこなかった。……女性が恐ろしかった……から、だが。なぜか今の君なら触れられる気がする。それを試してみたいんだ。」
イザークのトラウマを、私が少しでも改善出来るということだろうか?
離婚しようとしているとはいえ、長年暮らした相手だ。それなりに情はある。
ましてやイザークは、気付かなかったとはいえ、あの日のあの男の子なんだもの。彼は私にとっても初恋の相手だったのだから。
「いい……けど、少しだけね?片手を掴まれたままじゃ、絵が描きにくいと思うから。」
「ああ。」
私の左手を、イザークの右手がそっと包み込む。そのまま絵を描いてみたけれど、やはり左に引っ張られる感覚に慣れない。
「イザーク、やっぱり描き辛いわ……。」
「ああ、すまない。もう少しだけ……。」
「もう少しだけよ?」
でもイザークは、なかなかその手を離そうとはしてくれなかった。私もなんだか解きづらくて、そのまま握られるままにしていた。
「もう少しこうやって、絵を描く君を近くで見させてくれ。絵を描いている君は、怖くない。ずっと見ていられるんだ。」
イザークが愛おしげに目を細めている。
こんなイザークの表情は初めて見る。
イザークの手は、こんなにも大きくて温かで、優しかっただろうか。私は私に触れる彼の手が、ずっと怖かった筈なのに。
イザークはどうしてしまったのだろうか。
……私はどうしちゃったんだろうか。
ただ、困惑するばかりだった。
「──お客さんの体調はだいじょうぶ?」
心配そうな表情のアルベルトが、開いていたアトリエの入口から顔を出して、手を繋いでいる私たちを見て、サッと顔色を変える。
思わず無理やりイザークが掴んでいた手を振り払った。イザークが困惑したような、傷ついたような表情を一瞬浮かべた。
「イザーク、こちらの方が、お祖父さまと一緒に、あなたを部屋に運んでくれた方よ。
……お礼を言ってちょうだい。」
「ああ、そうでしたか。フィリーネの夫の、イザーク・フォン・ロイエンタールと申します。倒れた私を妻の部屋まで運んでくだすったそうで、ありがとうございました。」
「夫……。──はじめまして。俺はアルベルト・ノートン。彼女にこの家を貸している、絵の具工房の絵の具職人。彼女の友人。
体調はもうだいじょうぶ?」
「ええ、おかげさまで。すっかりよくなりましたよ。──妻も看病してくれたのでね。
見ず知らずのお友だちにまで心配いただくようなことは、なにもありませんよ。」
「そう……。それは良かった。」
なんだか2人の様子が不穏なものに見えるのは、私だけなのかしら?2人の間に稲妻が飛び交っているようにも見えるのだけど。
「夕飯はどうする?うちで食べる?」
「材料をたくさんいただいたし、ここで作って食べるわ。食材が傷んでしまうもの。」
「それなら私も夕食をここで食べていこう。
せっかくの夫婦水入らずだ。」
「ええ?イザークも食べるの?……別に構わないけど……。あっちはいいの?」
ロイエンタール伯爵家で、食事の準備をしていると思うのだけれど……。
イザークは泊まりになる時以外は、どれだけ遅くなっても自宅で軽く夕食をとるから。
パーティーに参加しているから、料理はたくさん会場にある筈だけれど、たいていはお酒を飲みながら商談をするのに忙しいのか、あまり食べてこないみたいなのよね。
喋りながらお酒を飲むことは出来ても、料理を食べるのは難しいからだと思うけど。
私がそれを気にしてそう言うと、
「君の手料理のほうが食べたい。」
とイザークが言った。
「さっきも言っただろう?……あの家の食事は息が詰まるんだ。君の料理はとても美味しい。味を楽しんで食事が出来るんだ。」
「今日は大量の食材も使ってしまいたいことだしいいけれど……。
明日以降は勘弁してちょうだい。
私はあなたと離婚するつもりでいるのに、夫が出入りしているなんておかしいわ。」
「私は離婚するつもりがないとも言った。」
「それはあなたの都合でしょう?
私はそのつもり……もうないもの。」
「食材が余って困ってるの?」
「ええ。ヨハンが大量に持ち込んでくれたものだから……。1人じゃ食べきれないの。」
「なら、俺が毎日食べに来るよ。
そうすれば使い切れるでしょう?」
「ええ、そうね、それなら……。」
「──私の妻の家に入り浸る気か?」
イザークがアルベルトを睨む。
「彼女はうちに来ていつも食事をしていた。今度は俺がお客さんで行くだけ。家族もずっと一緒だった。何がおかしい。」
「そうよイザーク、私はずっとこちらのお宅にお世話になっていたのよ。お礼で料理を提供するくらい、おかしなことじゃないわ。」
「だが!こいつは!」
「……大きな声を出さないでちょうだい。
アルベルトがなんだっていうのよ。」
「お前を狙って……。」
「なに、聞こえないわ?なんて言ったの?」
「だから……。わかった。好きにしろ。
だが私が離婚しないという気持ちに変わりはない。それだけは覚えておいて欲しい。」
「……私もあなたと離婚したいという気持ちは変わらないわ、イザーク。私の友人関係にまで、口出しをしないで欲しいの。私が大切にする人は、私が自分で決めるわ。」
「フィリーネ……。」
「夕飯は食べていくんでしょう?それまで絵を描かせてちょうだい。きりがいいところまで描いたら、食事を作るから。」
「わかった。今日は一緒にいられるんだな。
それ以降のことは、またゆっくりと考えよう。気持ちが変わるかも知れないからな。」
「ええ、そうしてちょうだい。……変わるとは思えないけれど。アルベルトもわざわざ様子を見に来てくれてありがとうね。もうだいじょうぶだから、家に戻ってちょうだい。」
「わかった。今日は帰る。またね。」
「ええ。また明日。」
去って行くアルベルトを、イザークは最後まで睨みながら見送った。
イザークとようやく手が離れたので、私は集中して絵を描いた。それをイザークはずっと黙って見つめていた。
「……ふう、こんなものかしら。」
「君は本当に絵がうまかったんだな。」
「まだまだよ。きちんと習ったわけじゃないから、バランスをとるのが難しいの。」
「習わずにそれなら大したものだ。君という人を、俺はずっと見誤っていたんだな。」
イザークが感心したように絵を見ている。
私はちょっぴり恥ずかしかった。
2階に上がると、料理の支度を開始する。イザークにはその間お茶を出した。私の部屋にイザークがいるのが不思議な感じだ。
こんな風にお茶をすることなんて、ロイエンタール伯爵家にいた時にもなかったのに。
「支度が出来たわ。食べましょうか。」
夕飯はみじん切りにした玉ねぎとミンチしたお肉を焼いて、キャベツを少しずつ足した物に、野菜のスープと、茹でたジャガイモをバターとローズマリーで炒めて水気を飛ばしたものを加え、塩、コショウとナツメグで味付けし、小麦粉でとろみをつけたキャベツ煮と、パンと、サラダ、デザートのイチゴだ。
こんなシンプルなもの、ロイエンタール伯爵家じゃ絶対出てこないわね。だけどイザークは美味しそうに食べてくれた。食事時に無表情じゃないだけでも不思議な感じだ。
「……優しい味がするな。」
幸せそうに目を細めるイザーク。もっと早くに料理してあげればよかったのかしら。
そうすれば会話が出来たかしら。
……いいえ、無理ね。あの家にいるから、何を食べるにしても、早くに食べ終わるルールが適用されるのだもの。私が料理したところで、あの家にいる限りはきっと同じだわ。
「それじゃ、私は帰るが、護衛もいない家に1人なんだ、くれぐれも気を付けてくれ。」
私の手を握りながら、心配そうにイザークが私を見つめつつ言う。
「危険な目に合うようなら、すぐにでもロイエンタール伯爵家に帰ってくるんだぞ。」
「それくらいなら護衛を送ってくれたほうがマシよ。私はここで暮らすつもりだから。」
「……君も頑固だな。わかった。」
イザークはため息をついた。
イザークが帰って、私は後片付けを終えると、また絵に取り掛かり始めた。
ようやく本当に1人なのね。ずっと工房長の家にいたから、シンとした家が少しさみしくて怖い気もするわ。でも早く慣れないと。
そう思っていた時、ミシ……、と天井から変な音がした気がした。風が強いから、天井がたわんでいるのかしら?
古い家だし手を入れてると言っても、そこまで気が回らなかったのかも知れないわね。
万が一ということがあるわ。穴でもあいていやしないかと、私はランプを片手に2階に上がり、天井にランプを向けた。
すると、天井にやはり穴のようなものがあいていて──そこから覗く誰かと、目があったような気がして足首から血の気が引く。
「──ひっ!?」
思わず目を閉じると、ドサッという音がして、私の口元が手で塞がれる。
「静かにしろ。金はどこだ?」
ご、強盗……?
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