「ここは……どこだ?」
私のベッドの上でイザークがようやく目を覚ました。額の汗を拭いながら、起き上がってあたりを見回している。
「ここは今の私の家よ。あなた、突然倒れたのよ。この家を借りている工房のお孫さんと工房長がやって来て、あなたをここまで運んで来てくれたのよ。あとでお礼を言って。」
「そうか……。従者をつけずにここに来たんだったな。後で伺わせていただく。」
「それにしてもあなた、猫、苦手だったの?
突然猫に寄られて倒れたけど……。」
「いや……。動物はみんな好きだ。」
「そう?」
ならどうして倒れたのかしら。
ベッドの上に乗っていたザジーが、イザークにその身を擦り寄せている。
「この子は……。」
「この子もずっと心配して、付き添っていてくれたのよ?あなた、猫に好かれるのね。」
猫は優しい人間を見抜くと言うし、イザークも優しいということなのかしら?
「そうか……。昔、こんな感じの茶色と黒のぶちの子猫を飼っていたことがあるんだ。」
穏やかな優しい表情で、ザジーを撫でているイザーク。こんな表情は初めて見る。
「私も昔、拾ったことがあるわ。うちじゃ飼えなくて、お友だちに預けてしまったけど。
お父さまがクシャミが出るから、苦手だと言って飼ってもらえなくて……。」
それを聞いたイザークが、驚いた表情で私をじっと凝視している。
「なに?」
「あれは……、君だったのか?」
「どういうこと?」
「私は小さい頃、女の子に子猫をたくされたんだ。両親に捨てられてしまったが……。」
私は首をひねると、
「……ひょっとして、父に連れられていったおうちの子ども?あれがあなただったの?」
と大きな声をあげた。
「一緒に鳥を見たり、魚を見たりして過ごしたんだ。クッキーをもらったこともある。」
「覚えてるわ……。
あれがあなただったなんて。」
父の仕事の取引先として連れて行かれた家には、きれいな男の子がいた。私はその子と仲良くなって、クッキーをあげたのだ。
「そう、あの子、捨てられたの……。」
「ああ、すまない……。私の目の前で、泥溜めの中に放り込まれた……。」
「泥溜めの中ですって!?
じゃあ、その子は死んでしまったの!?」
「恐らくはな……。誰も助けていなければ。
すまない。君にも頼まれていたのに。」
すまない、ですって?あのイザークが?
本当に悲しげにうなだれるイザークは、まるで別人のようだった。
子猫を泥溜めの中に捨てるだなんて。それも子どもの目の前で。小さいイザークはどれほどショックだったことだろうか。
今もザジーを撫でている様子を見る限り、動物が大好きな筈だ。そんな子どもから子猫を取り上げて、わざと殺すなんて……。
あの義母のやりそうなことだ、と思った。
高貴な血以外を疎む家系。雑種なんてその最たるものなのだろう。
「……イザーク、食事はとったの?」
「いや、まだ食べていない。君を連れ戻してからと思っていたから。」
「それ。」
「それ?」
「そっちのほうがいいわ。お前、って呼ばれるの、私は嫌だったもの。」
「ああ、そうか……。」
うなだれるイザークを放置して、私はキッチンまでオートミールを取りに行った。
「はい、病人食よ。パン粥でも良かったけれど、とってもおいしいパンだったから、そのまま食べたほうがいいと思って。
足りなければそのパンがあるわ。」
「君は……、料理が出来るのか?」
「うちは貧乏子爵家だったもの。
専属料理人なんて高尚なもの、雇えなかったから、自分で作る他なかったのよ。」
「それは以外だ……というか知らなかった。
そうか、料理が出来るのか……。」
私のことをどれだけ無能だと思っているのかしら?料理くらいしていれば出来るわ。
ベーコン、玉ねぎ、しめじをオリーブオイルで炒めたものに、潰したトマトと、野菜の煮汁、オートミールを加えて、塩、コショウで味付けし、柔らかくなるまで煮たものに、さらにチーズを加えて蓋をし、溶かしたものをさっくりと混ぜ合わせたものだ。
本当の病人なら、チーズは重たいから入れないけれど、イザークは顔色もいいし元気そうだったので、その方が美味しくなるので、後から付け加えることにした。
「ん……。うまいな……。」
ベッドの上でオートミールを食べながら、イザークが素直に美味しいと言った。
「イザーク、あなた……どうしちゃったの?
素直過ぎて気持ちが悪いわ。」
正直違和感が拭えない。
イザークが目を丸くして、
「私だって、うまいものはうまいと言う。」
と心外そうに言った。
「朝食の時は、いつもつまらなそうに食べていたじゃないの。」
「あれは……、吐き気がするからだ。」
「吐き気?」
「うちの料理が気持ち悪いんだ。無理やり時間の制限をつけられて食べてきたものだからな。いつも食べるのが辛いんだが、なんとか無理やりでも飲み込んでいるんだ。」
「それって、主人が食べ始めるまで食べてはいけなくて、主人が食べ終わったら食べ終わるという、独自のルールのこと?」
「そうだ。あれをやると苦しいんだ。」
知らなかった。自分も子どもの頃に、先代に合わせて食べ終わる為に、早く食べられるようになったのだろうから、私が食べるのが間に合わないのも、理解してくれたらいいのに、と思っていたのだけれど。
まさかイザークがそのやり方が嫌いで、無理やりそうして食べていただなんて。
「……だったら、やめてしまえばいいじゃないの。誰もそんなことしていないわ。」
「王族の前でしかやらないというのだろう?
だがあれは子どものころからの決まりで、あの家にいる限りそうするしかないんだ。」
イザークが頭を振る。
「そのルールを決めた先代は、お亡くなりになられたじゃないの。今はあなたが当主なのよ?ルールを好きに作れる立場なのよ?」
「だが……。」
「先々代から今のルールだったわけではないのでしょう?だったら、これがロイエンタール伯爵家の伝統ではない筈だわ。」
「うちの伝統、じゃ、ない……。」
反芻するようにそう呟くイザーク。
「そうだ、お父さまが決めたルールだ……。
王族と婚姻するために……。」
「もう王族と結婚するつもりはないのでしょう?私を連れ戻したいのでしょう?だったら今更必要ないでしょう?あなたはもう大人なのだもの、自分で選んでいいのよ?」
「考えたことも……なかった……。」
「……あなたもあの家に縛られていたのね。
王女さまと結婚させる為だけに育てられた人生は、もう終わりでいいんじゃない?」
私はイザークの背中を撫でた。
「そうだ、私は君を選んだんだ。唯一目の前にいても吐き気がしない令嬢だったから。」
「えっ、どういうこと?」
途端に押し黙ってしまうイザーク。
「そんなに言えないことなの?」
「いや……そうじゃ……、いや、そうだな。
とても、言いにくいことだ……。」
イザークは逡巡してから、
「……私は、貴族の女性を前にすると、吐き気がするようになったんだ。
王女殿下にふられてからというものな。」
「そうだった……の?」
「陰日向で暴言を吐かれ続けて……。
女性が怖い……んだと思う。目の前にいると動悸がして、吐き気をもよおすんだ。」
それは伯爵家を引き継いだ成人貴族としては、かなり公言するのは恥ずかしいことだろう。若い女性が怖い、傷つけられるかもしれないことが怖い、だなんて。イザークがなかなか言えなかったのも無理はない。
「……どうして話してくれる気になったの?今までそんなこと、言わなかったじゃない。」
「言っただろう?君は、気持ち悪くない。
唯一なんだ、この世で君だけが……。」
小さい頃に一緒に過ごした記憶を、覚えていたのかしら?でも、嫁いでからというものイザークは私を無視していた。メイドとばかり親しげに話して。それはどうしてなの?
「なら、……どうして私と話をしてくれなかったの?あなたはどれだけ私が話しかけてもずっと無視して、メイドとばかり話をしていたわ。私はずっと、……寂しかった。」
私も正直に自分の気持ちを伝えた。イザークとこんな話をするのは初めてのことだわ。
「怖かったんだ……それでも。」
「怖かった?」
「君の姿が他の女性たちと重なって……。君だから、気持ち悪くこそならなかったが、それでもやはり怖かった。君と話すことが。突然君の姿が他の女性の姿に見えたりする。」
トラウマ、というやつだろうか。貴族の女性と関わることが恐ろしくなって、私の姿がそれに突然見えるようになる。私も、貴族の若い女性だから。だから避けていたの?
「私たち……。もっと早くに話し合えたら良かったわね。そうしたら、きっと今、こんな風になっていなかったと思うわ。」
「離婚の意思は……変わらないのか?」
「ええ。私はこの家を出て、絵師として自立したいの。父にも、ロイエンタール伯爵家にも、縛られない人生をおくるのよ。」
「私も離婚を拒む意思は変わらない。」
「どうして?唯一吐き気がしないから?」
「違う。」
イザークが私の手を掴んだ。
「──君じゃなきゃ、駄目だからだ。」
私の目をじっと見つめてくるイザーク。
こんなに切羽詰まったような表情を見るのも初めてのことだ。
「初恋……だったんだと思う。君のことが。
記憶に蓋をして、忘れていたけれど、君のことだけはどこかで覚えていたんだと思う。」
私の脳裏にあの日の少年の姿が浮かぶ。
「それなのに突然怖くなって、自分で自分がわからない。どうしたらいいのかも……。
こんな自分を知られるのが怖かったんだ。
もう、話してしまったがな。」
イザークが苦笑しつつそう言った。
その手は私に、つながれたまま。
「子どもの頃欲しかったのは、子猫と過ごせる生活と、君といられる時間。それだけだ。
それだけが、私の欲しいものなんだ。」
「でも……大人になったあなたが私にしてきたことは消えないわ。私が無視されて悲しかった時間も。最初から話してくれていれば、私だって寄り添えたかも知れないけれど、私が苦しかったことも事実なのよ?あなたのお母さまにされてきたことだってそうだわ。
あなたはそれを止めなかったじゃない。」
「そうだな……。私は自分を守ろうとするあまり、君を傷つけてきたんだな。今日、君と話してそれをまざまざと実感したよ。頑なになっている私につき合わせるべきじゃなかったと。私は結婚すべきではなかったんだ。
少なくともこの傷が癒えるまで。」
イザークは真面目な顔つきでそう言った。
私は困惑していた。イザークの言葉にも、態度にも。これはいったい、誰……?
「あなたの行動に理由があったことはわかったわ。だけど、それで同じことを私にしていいわけじゃない。この年になってしつけされるだなんて、……こんな屈辱、ないわ。」
「そうだな。私はお母さまの言う通り、君のことが“くだらないもの”に感じるから、そういう感情が沸き起こるのだと思っていた。だからしつけが必要だと思っていた。私がされてきたように。それは私の間違いだった。」
──どうしてイザークは、こんなに素直なんだろうか。どうして私たちは、もっと早くに話し合えなかったのだろうか。どうしてこうなる前に、もっと早く……。
「私は君と、やり直したい。」
「……でももう、私は前を向いて歩いているのよ。あなたから離れたいの。
ロイエンタール伯爵家からも。
それは尊重してくれないの?」
「フィリーネ……。」
「今更名前を呼ばないでよ……!
今まで一度も、一度だって呼んでくれたことなんてなかったじゃない……!」
思わず涙があふれた。これはなんの涙なんだろうか。困惑、愛憎、今更という気持ち、色んなものが混ざりあって溢れ出て来くる。
「私だって、あなたと愛し合えたら、あなたと幸せになれたら、それが1番良かったわ!
今更よ、今更なのよ……!」
イザークがそっと指の甲で溢れ出る涙を拭ってくる。そんな風に優しくしないで。あなたも辛かったんだって、本当はずっとこうしたかったんだって、そう思ってしまうから。
今更だと思っていてもイザークに対する情は残っている。あなたと愛しあいたくて求めた時間が心をよぎる。このまま彼を遠ざけたい気持ちと、どこか憎みきれない気持ちも。
イザークが、そっと私を抱きしめた。
私はされるがまま、イザークに背中を抱かれていた。あふれる涙が止まらないまま、私は感情を吐き出すように泣き続けた。
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