◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
イザークは大人しい子どもだった。大人になって目覚めた商才以外は、取り立てて目覚ましいところのある子どもではなかったが、両親はとにかく王女が同年代に生まれたことを運命だと思っており、イザークに将来王女に降嫁してもらえるよう尽くせと、日がな一日言い聞かせて育ててきた。
この頃のイザークは、小動物や自然に興味のある子どもだった。王女に降嫁してもらう為の教育よりも、自然と触れ合っているほうが好きだった。
「ほら、お父さまが食べ終わったわ。あなたも食べ終わらなくてはね。
王族と過ごす際は、国王が食べ始めるまで食べてはいけないもの、食べ終わったら食べ終わらなくてはいけないものなのよ。」
「お前は将来王女さまを妻にもらうのだ。
そのようなことにも慣れていかなくては、いざ王女が降嫁し、縁戚として呼ばれた席で、私たちが恥をかくのだ。」
「はい、お父さま、お母さま……。」
まだナイフとフォークもうまく使えない年齢だったイザークは、いつも食べ終わるのが遅く、お腹をすかせていた。
「もうすぐまた子爵家の子どもがやってくるけれど、その子とは遊ばないようになさい。
友だちは伯爵家以上にするように。」
父親がそういい含めてくる。
王族と縁戚関係になることを願っていたロイエンタール伯爵家にとって、伯爵家未満と関わるのは無駄なことだった。
貴族にとっての友人関係は、より格の高い貴族と自分をつなげるための伝手となるものであり、それ以下ではなかった。
王族と縁戚関係になる為には、広げられる交友関係は広げておきたい。その為に、関わる人間は今の時点で選ぶべきだと。
「これはしつけですよ、イザーク。」
逆らえば鞭が飛んだ。
寒空の下、家の外に放り出されもした。
「はい……、お母さま……。」
熱く焼けただれた皮膚は熱を帯びて、塞がりかけた傷は痒くて、辛くて眠れなかった。
自分は悪い子なのだ、自分が悪いのだと責めながら、イザークはベッドで毎晩泣いた。
幼い子どもの皮膚が破れても、両親は気にしなかった。段々と何をすれば叩かれないのかばかり気にして生きるようになった。
イザークは、家庭教師の授業の休憩時間ともなると、庭に出て、池の魚を眺めていた。
魚を見つめていると、お腹が鳴った。
空腹をごまかす為に腹をグッと押す。
「──おなかがすいているの?」
誰かの声がして顔を上げる。時々両親を尋ねて来ていた、隣の領地の子爵家の令嬢が、不思議そうに自分を見下ろしていた。
「これ、オヤツのクッキーよ。食べてもいいよ。おなかすいてるんでしょ?」
そういって少女はクッキーの入ったハンカチの包を差し出してきた。
素直に受け取ってありがたく食べる。
「ありがと。美味しい。」
そう言うと、少女がニッコリと微笑む。
「ここで何してたの?」
「魚を見てたんだ。」
「食べたいの?」
「まさか!好きなんだ、生き物が。」
「ふうん、私も好きよ。楽しいよね。見てるだけでも。ほんとは飼いたいんだけど、お父さまがクシャミが出るから駄目だって。」
「君のお父さまは生き物が苦手なの?」
「毛のある生き物がね。苦手みたい。」
「そっか……。残念だね……。」
「うん……。」
しゃがみ込んで、2人でしばらく池の魚を眺めていた。その時、少女を呼ぶ声がして、少女は、はあいと答えて立ち上がった。
「もう行かなくちゃ。」
「また会える?」
「うん、時々来てるから、たぶん。
あなた、ここの家の子でしょ?」
「うん。」
「じゃあ、会えると思うわ。またね。」
そう言って帰っていった少女。言葉の通り時々やって来ては、2人で池を眺めたり、木に止まる小鳥を眺めたりしていた。
ある時、少女が黒と茶色のぶちの子猫を抱いて家にやって来た。首には真っ赤なリボンがつけられている。困った様子の少女は、
「ねえ……、この子、この家で飼えない?
うちはお父さまが、クシャミが出るから駄目だって言うの。」
「そう言えば、前にそんなこと言ってたね。
この子、どうしたの?」
「捨てられてたのか迷子なのか……
さっきそこで見つけたの。」
「そうなんだ。うん、聞いてみるよ。」
イザークがそう言うと、少女がパアッと顔を明るくした。
「ほんと、良かった!」
そして子猫の頭や首を撫でて、
「良かったね。飼ってもらえるかもよ?」
と嬉しそうに言った。
イザークは、少女のお願いをなんとしても叶えてあげたいと思った。そして子猫を抱いて両親に会いに行った。
「──駄目にきまっているでしょう?雑種だなんて汚らしい……。そんなに猫が欲しいなら、ちゃんと血統書付きを飼ってあげます。だからその猫は諦めなさい。」
「でも、お母さま、僕はこの猫が……。」
イザークの頭に、少女との約束が浮かぶ。
あの子にも、約束したんだ。
「──いいか、イザーク。」
父親は冷たく声を低めた。
イザークはビクリと身をすくめた。
これは機嫌が悪くなった時の合図だった。
「貴族にとって最も大切なものは、何よりも血統だ。我々のこの青い血こそが、何よりも尊ばれるもの。貴族にとって、汚れた血と交わることが何より疎まれる。雑種というのはその最たるものだ。わかるな?」
「……。」
こうなると何を言っても無駄だった。
両親にとって大切なのは、より格上の相手と血縁関係を結ぶことであり、そこにイザークの意思など入り込む余地はなかった。
子猫は両親の指示で、従者が外に捨てに行った。だがイザークはこっそり子猫を見つけてかくまうと、毎日ミルクや餌をやった。
またあの子が来た時に、飼ってもらえなかったと謝ろう。そして一緒にここで飼おうと言おうと心に決めていた。
──だがある日、少女が来る前に、子猫が隠していた場所から消えた。冷たい笑顔の母親が、あなたに大切なことを教えるからお出かけしましょう、とイザークの肩を掴んだ。
肩に食い込む爪が痛い。だが、イザークはそれに黙って耐えつつ、はい、と答えた。
ロイエンタール伯爵家の馬車が、人気のない山へと登っていく。
どこに連れて行かれるのだろう、と不安になった。馬車は山の上の開けた場所に到着すると止まった。外に降りなくてもわかる、異臭がする。ここはどこなのだろうか?
「さあ、降りなさい、イザーク。
あなたに見せたいものがあります。」
母親にそう言われては降りるしかない。
嫌な匂いに顔を歪ませながら、ハンカチで鼻を覆いつつも、母親はイザークとともに異臭の発生源へと近付いていった。
そこにミャーミャーと鳴き声をあげて、カリカリと爪音を立てる籠を手にした従者が、泥がたまったような池の前に立っていた。
イザークの背筋がスッと冷たくなる。
「ここは捨てるのに困るものを捨てる場所なのですよ。普段はこんなところ、近寄らないのだけれど、あなたには一度きちんとわからせなくてはいけませんからね。」
「お、お母さま……。」
「雑種はおやめなさいと、言いましたね?
こっそり飼っていたのね。
本当に聞き分けのない子だこと。」
「ご、ごめんなさい……。だから……。」
「いいですか?雑種というのは“くだらないもの”。“くだらないもの”はいけないものなのですよ?今後関わらないようになさいね。」
そう言ってスッと手を上げた。
従者が子猫の入った籠を、──泥溜まりの中に放り投げた。
「やめてえええええええええええ!」
走り寄ろうとしたイザークを、従者が力付くで引き止める。その間にも、子猫の入った籠は泥溜まりの中へとゆっくり沈んでいく。
「やめてええええ!やめてえええええ!」
──パアン……!!
乾いた音が響く。やめてと泣き叫ぶイザークの頬を、母親が張り倒した。
「おやめなさい、みっともない!
貴族ならば、雑種がこの世からひとつ消える事実を喜びなさい!
これはしつけですよ、イザーク。」
「うわあああああああああ!!」
イザークはそれでも、大声で泣くのをやめなかった。過呼吸になるほど、泣いて、泣いて、そして倒れてしまった。
「雑種の……何が悪い……。」
そう呟いたイザークに、母親は呆れたように首を振った。
そうしてしばらくして、意識を取り戻したイザークは、感情の死んだ子どもになっていた。両親が“くだらない”、というものに関わろうとするたび吐き気をもよおした。
大人になるにつれて自然と、過去の出来事に心で蓋をしたが、“くだらないもの”に関わるとこみ上げる吐き気だけは消えなかった。
何も才能がないかと思われていたが、イザークには非凡な商才があった。1代で公爵家とも並び称される程の財産を築き上げ、両親の言う通り、王女との婚姻を目指した。
伯爵ながら莫大な財産を築いた、麗しき小伯爵。若い貴族たちの間では、男からも女からも羨望の的だった。
だがあくまでもロイエンタール伯爵家の狙いは、王族との縁戚。伯爵家以下から舞い込む縁談をことごとく無視し、親子一丸となって王族に近付こうと邁進した。
金もばら撒き、自分を支援してくれる貴族も多数見つけた。だが、蓋を開ければ王女は他国へと嫁ぎ、歯牙にもかけられていなかったことをイザークは知ることとなる。
両親の言う通りに生きることだけを求められ、その通りに生きた結果、何も手にしていない自分に気が付き愕然とした。
自分を、ロイエンタール伯爵家を、あざ笑う声がした。若い貴族に人気のあったロイエンタール小伯爵は、そんな扱いなど忘れたかのように距離を置かれるようになった。
「財産を築いた程度で、成金伯爵家が王族と縁戚関係を願うだなんて、ほんとうに、“くだらないこと”に時間を使ったわね。」
そう揶揄する声が聞こえ、イザークは女性の声が怖くなった。“くだらないもの”を排除して生きてきた筈の自分が、世間から”くだらないもの”扱いされていた。
この事実にただただ打ちのめされた。
何より聞きたくない言葉だった。貴族の女性と関わると、吐き気がこみ上げる。
王女が駄目なら侯爵家以上を、と両親はイザークを焚き付けたが、女性に近付くたびにこみ上げる吐き気をどうしようもなかった。
令嬢と食事の席を設けても、こみ上げる吐き気にイザークがその場を離れてしまい、両親は毎回場をごまかすのに必死だった。
両親が“くだらない”といったものは、すべてに吐き気がした。大衆向けの演劇も、料理も、人々の会話も、そのすべてが。
リハビリの為に、メイドと話してみてはどうかと、母親が提案をした。メイドであれば自分よりも下の立場の人間であり、なおかつ雇い主に罵声など浴びせられない。
イザークはそれを了承し、メイドとだけ話すようになった。次代の伯爵であり、財産だけなら公爵家にも劣らない、若く、美しいイザークは、メイドたちに人気だった。
イザークとの結婚を目論む若いメイドたちは、立場を争うように、イザークのそばについて話しかけようと必死になった。
ようやく若い女性と話せるようになったイザークに、再び結婚相手を探し始めたが、その頃には王女に袖にされた男として、お目当ての貴族以外も目もくれなくなっていた。
娘に持参金を持たせられるかも怪しい、伯爵家以下からは、相変わらず結婚の申し込みが絶えなかったが。
その中でメッゲンドルファー子爵家を選んだのは、どうにも侯爵家以上から婚約者を探すのが難しそうだと両親が思うようになった頃で、かつ領地が地続きだったからだった。
それでも大人になったイザークが逃げたらどうしようもなかったが、イザークはメッゲンドルファー子爵令嬢を前にして、
「吐き気がしない……。」
と呟いた。
そうしてメッゲンドルファー子爵家令嬢を娶ることになったのだが、女性に対する本心からの恐怖は消えないままだった。
妻の顔に、あの日侮蔑の言葉を吐いた令嬢の顔が重なり、何度も恐ろしくなる。
きちんと接していれば、別人だとわかり、恐怖も収まるのだが、ふとした瞬間、突然湧き上がるようにその感情がぶり返した。
「きちんと妻となる人間をしつけないからそうなるのでしょう。あの娘はロイエンタール伯爵家のやり方にしたがえていないものね。
“くだらないもの”を見て、あなたが不快になるのも無理はないわ。妻となる人間をしつけるのは、夫と、母である私の役目よ。」
母親はそう、イザークに言った。
妻が“くだらないもの”でなくなれば、この感情もなくなるのか。
イザークは母親の言うがまま、自分の感情がどこからきているのかもわからないまま、妻に同じしつけをしようと考えた。
あの日、幼い自分がされたように。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
────────────────────
イザークのモデルは知り合いです。
NHK以外を見せてもらえず、バラエティー番組なども、いちいちくだらないと言われて育ったせいで、他人がバラエティー番組を見ているだけでも吐き気がして、外でツバを吐いている人を見ればグチグチと嫌味を言う。
そんなトラウマを抱えた人間でした。
両親が否定する人間を見るだけで、とにかく苦痛だと言う彼が、恋をした。
そしてこの話を思いつきました。
同様にトラウマを抱えて生きているイザークが、果たしてどう変わっていくのか。
見守っていただければ幸いです。
少しでも面白いと思ったら、エピソードごとのイイネ、または応援するを押していただけたら幸いです。
ランキングには反映しませんが、作者のモチベーションが上がります。