夢中になって描いていると、工房長がひょっこりとアトリエに顔を覗かせた。
「全員帰ってこないと思ったら、まだやっていたのかね。そろそろ夕飯にせんか。」
「もうそんな時間ですか。」
「確かに休憩したくなってきましたね。」
アルベルトのお父さまが、肩をグリグリとひねるように回しながら言う。
同じ姿勢を強いてしまったから、体がこわばってしまったのかしら。申し訳なかったわね。人間を描くのが初めてで、どの程度で休憩してもらったものかわからなかったわ。
「どんな感じ?」
アルベルトが立ち上がって私の後ろに立つと、後ろから絵を覗き込んでくる。
「……ほう、もうここまで描けたのですか。
筆が早いですな。」
アルベルトのお父さまも覗き込んでくる。
「早いほうかも知れませんね。ただ、やはりここまで大きいものは初めてなので、全体的な形を取るにとどまりました。まだまだ調整が必要ですね。ここまで長い筆を使って描くのも初めてですし、練習がてらというか。」
書き慣れたサイズなら、もう今の時間に終わっていたかも知れないわね。
やっぱりこの大きさで、バランスよく人の形を取るのはかなり難しいわ。
長めの筆を作っていただいて正解ね。短い筆だったら、この大きさにバランス良く、人の輪郭をとるのもままならなかったわ。
「じいちゃん、もうご飯作った?」
「おお。お前たちが遅いから、作ってしまったよ。冷めないうちに食べよう。」
「ごめん、当番だったのに忘れてた。」
「こちらがお願いした絵のモデルをしてたんだ、仕方ないさ。全員が交代で作るという約束だが、当番の人間の手が空かなければ空いている人間が作る。それだけのことだ。」
工房長はそう言うと、ほれ、急げ急げ、とアルベルトの背中を押して速歩きをした。それにつられてアルベルトの歩みも早まる。
仲の良いご家族ね。微笑ましいわ。
夕飯は工房長の作られたシチューと、サラダと、ほうれん草をニンニクと炒めたもの、パン、イチゴだった。イチゴはやはり村で採れたものらしい。
「このシチュー、パンに合いますね。」
「うちじゃいつも、皿についたのを、パンですくって食べているよ。パンに合うというのもあるし、一滴も残さず食べる為にな。」
「ソースみたいになさるんですね。
……でもそうするのも納得だわ、限られた量しかこのシチューがなかったとしたら、残さず食べたいですもの。」
「気に入って貰えてよかったよ。」
工房長がニコニコしている。
「これ、じいちゃんの得意料理。」
とアルベルトが言った。
得意料理を振る舞ってくださって、それを褒められて素直にニコニコしてるのね。工房長は随分と可愛らしい一面をお持ちなのね。
「アルベルト、明日は買い出しに行くんだろう?ついでにこれを買ってきてくれ。」
そう言って、工房長がメモを渡す。
アルベルトはそれを一瞥すると、
「わかった。」
と折りたたんでポケットにしまった。
「明日は私と孫だけがモデルになれます。息子は1日仕事があるので。構いませんか?」
「はい、何度か3人揃って並んでいただきたいですが、一緒でなくとも構いません。」
最初に全体のバランスを取ろうと思うと、どうしても3人で並んでいただかないと難しいのよね。3人揃うまでは、描き進められるところだけ、進めるしかないわね。
「明後日なら3人で時間を取れますので。」
「わかりました、明後日ですね。」
そこでいったん、3人並んだ時の位置に問題がないか確認しないとね。
取り敢えず、並んで立っているアルベルトと、お父さまを先に描いたから、座っていただく予定の工房長のいるあたりを、明日は描き進めていきましょう。
お風呂をいただいて、アルベルトのお母さまのものだったというパジャマを貸していただいて、その日は眠りについた。
次の日の朝の朝食も、アルベルトが休みの為、もともと担当だったとのこと。私のリクエスト通り、昨日と同じ朝食が出て来た。
んん〜。やっぱり癖になるわ、ニンニクを炒めたオリーブオイルと、とろっとした目玉焼きに、チーズとハムの組み合わせ。
美味しく朝食をいただいたあとは、アルベルトと日用品の買い出しに町まで出かけた。
この村で馬車を持っているのは、アンの夫のヨハンだけらしく、ヨハンにお願いして、町まで送ってもらうことになった。
「ついにこの村に住まわれるんですね、奥さま。……もうご自宅のほうは、かたがついたのですか?」
御者席から振り返らずにヨハンが尋ねてくる。離婚のことを言っているのね。
「それはまだこれからよ。ひとまず家を出ただけなの。……というか、追い出されたといったほうが正しいわね。逃げてきたのよ。」
「追い出された?それを聞いたらアンが怒りますよ。うちに来て下さっても良かったのに、工房長の家でお世話になってるとか?」
「ええ。新婚家庭にお邪魔するのもね。部屋が空いているというからお借りしたの。今日からは、お金を払って借りた家に住むわ。」
「困ったことがあったら、いつでも言ってきて下さいね?うちの野菜は好きなだけ持っていってください。アンからもじゅうぶんお願いされていますから。」
「そう?ありがとう。迷惑かけるわね。」
「とんでもない。アンはもちろん、自分も喜んでますよ。アンと奥さまは乳兄弟だと伺ってますからね。姉のようなものだと。」
「そうね、アンは私の大切な妹よ。」
「その姉が困っているというんです。迷惑なんてことはありませんよ。
ずっと奥さまを心配していましたから。
この村で穏やかに暮らしていただけたら、それ以上のことはないです。」
そう言ってくれるヨハンに、私は心から感謝した。アンがいるから、知り合いの少ないこの村に住むことを決めたけれど、ヨハンがいてくれることも、とても頼りになるわ。
少なくとも、最低でも私の味方が2人もいるということだもの。2人が貴族を敵に回して戦えるわけではないけれど、心の拠り所になる人は、1人でも多いほうがいい。
知らない場所で1人で暮らすのも、これから貴族相手に戦わなくてはならないのも、私1人だと心細いものだから。
「あとはイザーク次第ね……。」
「……旦那さまとのことが、1日も早く解決すればいいですが……。」
「そうね……。」
それ以上、話は続かなかった。ヨハンにもイザークとのことは、どうしようもないものね。私が1人で戦うしかないもの。
町について、調理器具や食器など、細々としたものを購入する。正直私にはあまり良し悪しはわからないけれど、私の買える値段だから、特別いいものではない筈。
だけどアルベルトが連れて行ってくれたお店は、どれも古道具なんかじゃなく、使い勝手のよさそうな、職人が作った一品物、という感じのものばかりが並んでいた。
「この辺は、平民が使う為の、割と質の良い品が並んでる。貴族のものほど良い素材は使ってないけど、職人の腕があるから、それでも使い勝手のいいものばかり。」
と説明してくれた。
「そうなのね、凄く切れ味の良さそうな包丁だわ。手を切りそうで怖いくらい……。」
「手に取ってもいいけど、気を付けて。」
とアルベルトが微笑む。
私は包丁の握り具合なんかも確かめて、ちょうどいい大きさの包丁を選んだ。
包丁なんて使うの、結婚前以来ね。料理をするのが楽しみだわ。一緒に食器店にも行って、可愛いお皿をたくさん選んで、おがくずの入った箱に入れてもらった。
これがあると、馬車に乗せても、中で食器が割れないんだそう。便利なものがあるのものね。私は食器店でカップとソーサーを手に取った。うん、これなんか良さそうね。
「これ、今日のお礼に購入するわ。」
「お礼?別にいいよ。」
「アルベルトが家に来る時は、いつもこのカップでお茶を淹れるわ。嫌かしら?」
「あの人のは買わないの?」
と突然不思議なことを言い出した。
「あの人?誰のこと?」
私は心底わからなくて首をひねった。
「そっか……。買わないんだ……。うん。
嫌……じゃない。嬉しい。ありがとう。」
アルベルトは恥ずかしそうにうつむいた。
アルベルトが買った物を運んでくれる。ヨハンが戻るのを待って、再び馬車に揺られて村に帰ると、アルベルトは私の家に寄ってから、工房長を向かえに一度自宅へと戻った。
アルベルトが家まで荷物を運んでくれたので、私は買ったものを造り付けられた棚の中へとしまった。1枚しかなかったシーツも2枚購入したし、当分これで問題なさそうね。
しばらくすると、工房長が来るよりも先にヨハンが現れて、うちの野菜です、と、野菜を大量に置いて行ってくれた。
こんなにたくさん、一度に食べきれるかしら?私、ヨハンにどれだけ食べると思われているのかしら。まあ、しばらくモデルも来ることだし、料理して振る舞えばいいわね。
野菜を片付けていると、工房長とアルベルトがやって来た。さっそく工房長には椅子に座ってもらい、アルベルトには工房長の肩に手を置いてもらった。
ようやくこの構図が正確に取れるわね。
私は全体の輪郭線から描き進めていった。
ある程度描いたところで、いったん昼休憩にしようということになり、アルベルトと工房長は自宅へと戻って行った。
「──やっぱり、まだ描いてる。」
昼食も取らずに、一心不乱に描き進めてた私に、後ろから笑うような声が聞こえる。
アルベルトだった。
手にふきんを被せたお皿のようなものを持って、ふふふ、と楽しそうに笑っている。
「あら、つい夢中になってしまって。」
「そう思って、片手で食べられる物にした。
母さんもそうやってよく、食べるのを忘れて絵を描いてた。」
そう言って、ふきんを外して、その下のサンドイッチを見せてくれた。
「そう、お母さまも、よほど絵がお好きだったのね。食事を忘れてしまうくらいに。」
「うん、絵が好き過ぎて、画材工房の近くに引っ越してくるくらい。それで父さんと知り合って、結婚したって言ってた。」
「この村の方ではなかったの?」
「絵を描いて旅をしてたって。ここの画材が気に入って、引っ越して来たって。──アデリナブルーは母さんの為に作ったんだ。」
「アデリナ嬢の為じゃなかったの?」
「よく使ってくれるから、そう呼ばれるようになっただけ。うちの絵の具の大半は、母さんの為に父さんが作ったんだ。」
「そうだったのね……。」
「いつか、あなたの為の絵の具を作りたい。
表現したい色があったら教えて。」
「私の為に絵の具を作ってくれるの?そうねえ、欲しい色が出来たら教えるわ。」
「うん。楽しみにしてる。」
アルベルトはそう言って目を細めた。
私はいただいたサンドイッチを左手でつまみながら、ひたすら絵を描き続けた。
アルベルトにお茶を淹れれば良かったかしら、と頭の片隅で思いつつ。
「──こんなところにいたのか。
ここで何をしている。」
そこに低い声が響いた。
振り返るとそこに──イザークがいた。
腕組みをしながら、開放されたアトリエの入口に仁王立ちしている。
「あなたこそ……。何をしているの?」
「お前が行けるところなんて限られているからな。どうせアンのところだろうと思って立ち寄ったらいないと言う。少なくともこの近くにいるだろうと思って捜してみたんだ。」
捜す?私を?イザークが?なんの為に?
追い出しておいて今更、連れ帰ろうとでも言うの?私が固まっていると、
「だいたい、どうして庭にいなかったんだ。
てっきり庭で震えてるものかと思ったら、どこにもお前の姿がなかった。」
「……あなたが私を追い出したんでしょう?
だから辻馬車を拾ってここに来たのよ。」
「辻馬車だと?あんな危ないものに……!」
「夜中に1人で荷物ごと放り出されたのよ?
泊まれる場所を捜すしかないじゃない!」
「私はしつけ、と言った。本気で放り出すつもりがないことくらいわかるだろう!」
「わからないわよ!私は怖かったわ!……だからここに来るしかなかったんじゃない。」
「はあ……。もういいだろう、少しは頭が冷えたことだろう。帰るぞ。」
「……何を……言っているの……?
帰らないわよ私は。
離婚しましょうと言ったでしょう?
ここに家も借りたし、今引き受けている仕事もあるの。私はあなたに用はないわ。」
「なんだと?」
「話し合いなら離婚について以外お断りよ。
わかったらさっさと帰って……。
──どうしたの?」
突然こわばった表情で固まってしまったイザークに、私は困惑して首をかしげた。
イザークの足元に、真っ赤なリボンをつけたザジーがすり寄っている。
……猫、苦手なのかしら?そう思ったのも束の間、ハァハァと苦しげな荒い息を繰り返して、イザークが胸元をおさえたかと思うと、地面にぐらりと倒れ込んでしまった。
「イザーク!?」
「……雑種の……何が悪い……。」
謎の言葉を呟いて、イザークはそのまま意識を失ってしまった。
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