──バシッ!!!
カラカラカラカラ……。コロン、ポトリ。
私がイザークに叩きつけた宝石箱が、執務室の床の上を転がって、壁に当たって蓋が完全に開き、中のペンダントが転げ出た。
思わず左手で顔面をかばうかのように、手のひらで宝石箱を受け止めるかのような体勢をとったイザークは、呆然としたまま、瞬きもせずに私を見つめていた。
「君は……。気でも狂ったのか……?」
「──それはあなたよ、イザーク。
……いいえ、ずっと前から、あなたはおかしな人だったわ。」
「どういう意味だ。」
釈然としなさそうにイザークが答える。
予想外の私の行動に、完全に虚をつかれたようね。いつもなら今頃怒りだしている筈。
「あなたとお義母さまは、これをしつけだと言ったわね、この家に来た時から。いつも私のすることを、やることなすこと、否定して来たわ。それこそ些細なことまで。」
「ああそうだ。君は我が家の決まりに従って行動出来ていない。それをしつけるのは、母であり、私の役目だからな。」
「それがおかしいと言っているのよ。」
「──なんだと?」
「私の家が子爵家なのは、覚えているでしょう?そしてこの家は伯爵家だわ。」
「それがどうした?」
「侯爵家以上の上級貴族や王族と、それ以外の貴族ではマナーが違うわ。だから嫁いだ場合、それを覚える必要があるでしょう。」
「当然だな。王族は挨拶ひとつとっても違う。
それがわからないから、全貴族が集合する新年の挨拶以外で、下位貴族は呼ばれることが少ないんだ。それで?なにが言いたい。」
「私の実家のメッゲンドルファー子爵家と、ロイエンタール伯爵家で、大きな違いがあること自体、おかしいのよ。あなたの家は、いいえあなたたちは、まるで自分たちが王族であるかのように勘違いをしているわ。」
「……なんだと?」
「当主が食べ始めるまで料理を口にしてはいけない。当主が食べ終えたら食べ終えなくてはいけない。当主より先に大浴場を使ってはいけない。どこに行くにも何をするにも当主の許可を得なくてはならない。不道徳だからボードゲームをしてはいけない。パーティーでは右側にいる人から話しかける。甲殻類を食べてはいけない。毛皮を身に着けてはいけない。座る時は足首をクロスさせる。──どれもこれも、王室のルールじゃないの!!」
「……父が決めた、我が家のルールだ。」
「あなたのお父さまが、異常に王室に執着があったのは知っているわ。いざロイエンタール伯爵家に王女さまが降嫁された際の為に、あなたを王室のルールに則って育てたのだということもね。そうでなければ縁戚として王宮に呼ばれた際に恥をかくから。」
だけど、と私はため息混じりに言った。
「我が国ひろしと言えども、実際に縁戚でもないのに、ましてや伯爵家以下でそんなことをしているのは、ロイエンタール伯爵家だけだと言うことよ。それを今更覚えてなんになるというの?お義父さまの言う通り、次世代こそ王室と縁付かせる為?馬鹿馬鹿しい!」
「なんだと!?父を馬鹿にするな!」
「ロイエンタール伯爵家が、あなたが皆に笑われているのはね、あなたに王女さまが降嫁しなかったからだけじゃない。分不相応に王家の猿真似をしている家だからよ。」
「お前……よくも……!」
イザークがグッと拳を強く握りしめた。
「家の中でも外でも、私にまでそのルールを強要するから、私まで笑われているのよ!」
「こんなことをして、私を嘲笑って、ただですむと思っているのか?」
イザークは宝石箱を拾って言った。
「こんな馬鹿みたいなルールに、大人しく従う妻が欲しいのなら、他をあたってちょうだい。見つかるとは思えないけどね。私はもうたくさんよ。──離婚して下さい。」
「はっ。この家を出てどうすると言うんだ。メッゲンドルファー子爵家ではお前1人養うことも難しいだろう。次は後妻を探している年寄に嫁がされるのがいいところだろう。」
「私、魔法絵師として魔塔に認められたの。
あなたにも実家にも、頼らなくても生きていかれるのよ。残念でしょうけれど。」
「馬鹿馬鹿しい。お前の絵ごときで──」
「私の魔法絵は、特別なんですって。」
「なんだと?」
「魔法絵師のスキル持ちと、同じ効果を持つ魔法絵を、描くことが出来るのよ。」
「魔法絵師のスキルと同じ効果……?
まさか、召喚絵を描けるというのか?
お前ごときが?馬鹿も休み休み言え。」
「信じようが信じまいがご勝手にどうぞ。
私はこの家を出ていかせてもらうわ。
私にとって何より大切な、魔石の粉末入りの絵の具を売って、代わりに宝石ですって?
私にとって絵は何より大切なものなのよ。
それがわからない人とは暮らせません。」
「待て、離婚なぞ認めん。」
「あとは離婚協議場で会いましょう。さようなら、イザーク。短い結婚生活だったわね。
明日の朝出て行かせてもらうわ。」
私はそう言うと、イザークの執務室を出て自室に戻り、カバンに荷物を詰めて、ベッドに横になった。この家に私の持ち物なんてたかが知れているから、荷造りはすぐ済んだ。
すると突然、ドンドン!とドアを叩く音。
何事かと思ってドアを開けると、怒り狂った表情のイザークが、扉の前に立っていて、私は一瞬ヒュッと息を飲んだ。
「何をしている。早く出ていけ。」
「は?」
「この家の人間ではなくなるのだろう。
ならこの部屋に泊めることは出来ない。」
「ちょっと──」
「ああ、ちょうどいい、荷造りも済ませてあるじゃないか。早く出ていくんだ。」
イザークは私の荷物を持って、反対側の手で私の手首を掴んで、引きずるようにどんどんと歩いて行ってしまう。私は今パジャマ姿だ。この格好のまま出ていけと言うの!?
「ちょっとイザーク、今から馬車を探せというの?しかもこんな格好で?」
「出て行くと言ったのは君だ。当主の言うことに逆らう人間にはしつけが必要だ。」
しつけ。しつけ。しつけ。ロイエンタール伯爵家では、当主に逆らう人間にはしつけが必要。あなたの中ではこれもしつけなのね。
「パジャマ姿で外に放り出されている女性を見て、通りすがりの人や、話を聞いた他の貴族たちがどう思うかしらね!?
所詮それがロイエンタール伯爵家の恥だとわからないのね、あなたには。」
私は精一杯の抵抗で、普段着に着替える時間を稼ごうとした。いくらなんでも上着も羽織っていないパジャマ姿で、馬車を捕まえる女性なんて、噂になるに決まっているもの。
「……。いいだろう。着替えてくるがいい。
だが5分しか待たない。」
「あなたは貴族女性の服が、1人じゃ着られるものじゃないことも知らないのね。」
私はアンがいなくなってから、1人で着られる服ばかりを着ていたから、もちろん1人で着られる服もあるけれど、それは自室で着る用のもので、当然外出着じゃない。
「……メイドを叩き起こそう。だが、我が家が買い与えたものを持っていくのは許さない。君が実家から持ってきた服を着るんだ。」
「当然そのつもりよ。」
明日の朝着ていく用に、実家から持って来た服をクローゼットにかけてあったのだ。
私は自室に戻ると、メイドが来るのを待って、服を着替えるのを手伝って貰った。
脱ぐことを考えると、コルセットをしめずに着る服でも、背中で結ばれた紐をほどくのが大変なのだ。今日は服を着たまま寝て、明日の朝アンに手伝ってもらう他ないわね。
私は外泊なんて滅多にしない。ましてやイザークに旅行に連れて行ってもらったこともない。町に何があるのかも知らない。こんな時間に泊めてくれる宿屋を私は知らない。
行くあてがあるとすればアンの住む村だけだ。絵の具工房の工房長から借りる予定だった家のガゼボなら、村から見えないからひと目につかないし、屋根があるから万が一雨が降っても、少しはさけられるでしょうしね。
私はそこに行くつもりだった。この時間に馬車が捕まえられるものなのかもわからないけれど、歩いて行くにはさすがに遠過ぎる。
玄関から外に出ようとすると、ドシンッと突然誰かに突き飛ばされて、玄関で転んで地面に手のひらと膝をしたたかに打ち付けた。
その脇に私のカバンが投げ捨てられる。
──あの若いメイドだった。ニヤニヤしながら出ていく私を見下した目で笑っている。
「さっさと出てけよ。ざーまーあ!」
なんて言ってくる。私は膝の砂を払い、
「これで私の代わりにイザークを手に入れたつもり?少なくともあなたは選ばれないわ。
ロイエンタール伯爵家は下品な女も、大人しく従えない女も嫌いなのよ。」
「なんだって!?
あたしのどこが下品なのさ!」
「そういうところよ。あなたのすべて。言ってもわからないなら、教えるのも無駄ね。」
私はそう言うと、カバンを拾って馬車を探す為にロイエンタール伯爵家をあとにした。
敷地の近くに辻馬車は通らない筈だから、大通りまでカバンを引きずって行く。
さすがに、いくら少ないとは言え、ぜんぶを詰めると重たいわね。絵に描いておけばよかったかしら?かと言って、呼び出す元を自室に置いておいたら、捨てられそうだし。
なんとか外灯のある場所まで出ると、しばらくして辻馬車を捕まえることに成功し、私はアンの村まで行くよう御者に指示をした。
ほっとしたら眠たくなってきたわ。お風呂にも入ったし、もう寝る時間だったものね。
ウトウトしながら馬車に揺られていると、突然馬車が乱暴に止まって扉が開けられた。
「もう、ついたんですか?」
「ああ、ここだろう?この先は暗くて進めないから、この場所でいいだろう?」
確かに暗くてよく見えなかったけれど、月明かりと星の光で見る限り、アンの村の入り口に見える。閉まっていたけど、村の入口近くにある料理店らしき建物の影も見えた。
「ありがとうございます。お幾らですか?」
私がそう御者に尋ねると、暗い中でもいやらしくニヤついている御者の表情が見えた。
「──あんた、こんな時間に抜け出してくるなんて、どっかの屋敷で盗みを働いたんだろう。あの近くならロイエンタール伯爵家か。あそこは大金持ちだからな。かなりの金が手に入ったろ?少し多めに手数料をくれよ?」
「なんですって!?ふざけないで!」
「こんな時間にこんなところで騒いだところで、誰も来やしねえよ。素直に金を置いていけよ。……別に体で払ってもらっても、こっちは構わねえんだぜ?それとも両方……、」
「やめて!近寄らないで!──離して!」
手首をガッチリと掴まれてしまい、身動きを取ることが出来ない。
「あんたよく見りゃ美人だからな。俺もそっちのほうがいいぜ。女1人でこんな時間に辻馬車を捕まえるなんて、襲ってくれって言ってるようなもんだって、わからねえか?」
1人で辻馬車なんて、乗ったことのない私は、辻馬車が流しの馬車だということしか知らない。辻馬車というのは、こんなならず者みたいな人間がやっているものだったの!?
「い……、嫌……!!やめてえ!むぐっ!」
片手で口を塞がれてしまい声も出せない。せっかくロイエンタール伯爵家から逃げてこられたと言うのに、こんな目にあうなんて。
イザークを怒らせてその日のうちに追い出されるより、我慢してでも明日の朝逃げ出すべきだった。そう思ってももう遅い。
男の腕が無遠慮に服をたくしあげる。
雲が流れて月を隠し、真っ暗になってしまった道端に倒れ込む私たちは、畑に植えられた作物の影になって、遠くから見えない。
もう駄目……!そう思った時だった。
「ぎゃあっ!!痛ででで、なんだ!」
「この村で何してる。お前、誰だ。」
凛とした声が暗闇に響いた。
再び雲が流れて月が顔を出し、御者の肩を力任せに掴んで私から引き剥がした男性の顔が浮かび上がった。──アルベルト……!!
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