次の日の朝の食卓で、私はイザークとの会話の義務の際に、魔塔からいずれ再び呼び出しがあり、魔法絵師として保証書を書いてもらい契約をしにいくこと、アデリナ嬢と、バルテル侯爵夫人がパトロンをしている絵師とともに、絵を描くピクニックにさそわれたこと、その前に自身でも外で絵を描くことに慣れておきたいので外出したいことを告げた。
案の定、イザークは私が社交に積極的になったといたく喜んだ。何よりアデリナ・アーベレ嬢の名前は効果的だった。彼女と親しくしたいと思っている人間は、貴族に限らずかなり多い。国内で知らない人のいない有名人だものね。当然イザークもそうだった。
なにせ我が家のホールにある中央階段を上がったど真ん中には、玄関を入ってすぐに見える位置に、イザークが購入したアデリナ・アーベレ嬢の巨大な絵が飾られているのだ。
ロイエンタール伯爵家が成金であることの象徴かのような存在であるのが、アデリナ嬢に対して非常に申し訳がないけれど。
おまけに彼女自身は公爵令嬢としての立場を捨てたと言っても、結局社交界からすれば公爵令嬢の扱いのまま。そこに加えて5本の指に入る人気の魔法絵師だ。
アデリナ・アーベレ嬢は、魔法絵師としても、上級貴族令嬢としても、イザークにとって特別な存在だった。王女と結婚出来ないのであればアデリナ嬢を、と、先代のロイエンタール伯爵家当主が口にした相手でもある。
ぜひともアデリナ・アーベレ嬢とは、今後とも親しくするように、バルテル侯爵夫人とも、パトロンをしている魔法絵師を通じて、より親しくなるように、とご機嫌で言った。
当然外出についても、社交の為だとなんの文句もなかった。本番で恥をかかないようにする為に、なにについても事前練習をしておくのは、貴族であれば当然のたしなみだ。
元第一騎士団長と魔物の絵を描きに行くのだとは伝えなかったけれど。
レオンハルト様はあくまでも護衛という立場で私についてきてくれる。つまり従者の扱いだ。レオンハルト様と出かけるのが目的ではないから、魔物の絵を描きに行くと伝えない限り、護衛について話す必要はないし、わざわざ護衛が誰であるかも言う必要がない。
イザークに外出の許可を得るなら、私の社交復帰が成功したことを告げる時に、お願いしたほうがうまく行くだろうと思ってはいたけれど、まさかのアデリナ嬢とのピクニックがついてきた。むしろ出来過ぎなくらいね。
魔物を召喚出来る絵を描いて、その絵を売って。魔塔が契約してくれる、新しい魔法の使用料金も、いずれ入ってくることだろう。
そうすればすぐにでも、工房長の息子さんとお孫さんが昔住んでいた家を借りることが出来る。はやくあのガゼボにイーゼルを立てて、絵を描いてみたいものだわ。
私は生活の目処がたったことにウキウキしていた。これでイザークが私と離婚して、父に新しい夫をあてがわれる前に、この家からも実家からも逃げ出すことが出来る。
「……楽しそうだな。」
珍しく、イザークが、報告以外の言葉を口にした。私は最初、それが自分に言われているのだとは分からなかった。それくらい、耳馴染みのない言葉だったから。
「え?」
思わず素っ頓狂な声が出る。
私が前日あった楽しかったことを報告しようとしても、いつもわずらわしそうに眉をひそめたイザークが、自分から私の顔色を読んで質問してくる日がくるだなんて。私はなんと言ってよいか分からず、思わず固まった。
「何をそんなに驚いている。」
不機嫌そうにイザークが言う。
はじめの頃はイザークが不機嫌になるたびにいちいち胸を痛めていたけれど、イザークはむしろこれが通常運転で、機嫌のいいことのほうがまれなのだと分かってからというもの、私にはイザークの機嫌をよくする行動を一切取れないのだから、この頃は波風が立たなければそれでいいわ、と思っていた。
だから私から話しかけるという努力もやめていたのだ。疲れるだけだから。
「いえ……。別に大したことでは……。」
「ふん。そうとは思えんがな。」
「その……、つかぬことをお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
イザークは睨むように私を見つめる。
「どうして急にそのような事を、私に聞かれるのでしょうか……?」
私の機嫌が良かろうが悪かろうが、イザークにはどうでもいいことなのだと思っていたのに。疑問を持つなというのは無理だ。
イザークは、そんなことか、とでもいいたげな表情をした。
「別に深い意味はない。ただお前があまりにも嬉しそうな顔をしているからだ。
この家に来てからというもの、いつも暗い表情をしていたお前が、急に明るくなったのだ。気にしないというのは無理というものだろう。それだけじゃない、態度まで変わったと、メイドたちが噂をしている。」
「……。」
ああ。夕飯の時のメイドたちとの楽しいおしゃべりのついでに聞いたのね。私のすべてを監視して、管理していたいイザークからしたら、自分の預かり知らぬところでおきた、妻の変化は面白くないことなのだわ。
「どうせろくでもないことを考えているのだろう。別に楽しむ必要はない。お前は社交をうまくやることだけを考えていればよい。」
「いえ、そんなことは……。
あの……、というか……、今日は随分とよく話されるんですね。」
「──なんだと?」
「いえ、なんでもありません……。」
「……まあいい。それより、明日からしばらく家をあけるからな。」
「えっ!?」
私は途端に青ざめた。
「何だ? その反応は?」
「いえ、なんでもありません……。」
「何か問題でもあるか?
取引と視察目的だ。まあ1週間は戻らないだろう。その間の報告は家令にしておくように。私がいないからと言って、あまり好き勝手しないようにな。」
「……。」
「何だ? その顔は。」
イザークが長期間、取引の為に出かける。それは夜の営みの義務が、前日の夜に発生することと同義だ。──つまり、今夜。ここしばらくはなかったというのに。今更子どもが出来てしまったらどうしたらいいのか。
別に必ず長期間の取引による外出の前に、夜の営みをする義務があると、結婚前や結婚当初に定められたわけじゃない。
だけどそれは、まるで必ず朝は左足から靴を履こうとするかのごとく。イザークにとってのルーティンかのように、結婚以来必ずおこなわれてきた、必須事項だ。
ロイエンタール伯爵家の跡継ぎを産ませるために、イザークは私を手放さないだろう。
もともと跡継ぎを産ませる目的と、お飾りの妻として私が必要なのだもの。
はらまないから必要ないのであって、はらんでしまった以上、離縁するのはロイエンタール伯爵家側の外聞が悪くなる。
それに離縁出来たとしても、産まれた子どもも取り上げられてしまうだろう。
憂鬱だわ……。どうしたらいいのだろう。
夜の営みはさけられずとも、最悪妊娠はさけなくてはならない。だけど堕胎する薬はあっても、はらまなくさせる薬なんてものはないのだ。あっても身分を隠して手に入れられる薬は、効果の保証の怪しいものだけ。
私は一気に表情が暗くなり、それをイザークが見咎めてつついてきたのだ。
それにイザークとの行為はとても痛い。
しばらくはヒリヒリと痛む体を引きずりながら生活しなくてはならない。かと言って、慎み深さを求められる貴族婦人の側から、男性にもっとこうして欲しいとか、あれが嫌だとか求めることは許されていないのだ。
私には、拒む権利も、求める権利も与えられてはいなかった。
「いえ、何も問題はございません。
行ってらっしゃいませ。」
私は動揺を押し隠しながら言った。
「ああ。」
イザークが部屋を出ていったあと、私は急いでクローゼットに向かった。
早く。早く家を出なければ。
レオンハルト様との約束にはまだ時間があったけれど、私はこの家にいたくなかった。
手早く着替えて、画材をたずさえると、ロイエンタール伯爵家の馬車でアンの村まで移動した。
「──はい。
ああ、なんだ、あんたか。ずいぶんと早いな?約束の時間は昼過ぎじゃなかったか?」
まだヒゲもそっていないレオンハルト様が私を出迎えてくれる。
「ええ。少しでも早く絵を描きたくて……。
ご迷惑でしたか?」
顔色の悪い私を見て、一瞬眉をひそめたあとで、いや、構わない、待っていてくれ、と言って、レオンハルト様は身支度を済ませて家から出てきた。さすがに前回はじめてお邪魔した時と違って、家をあけるため鍵をかけている。庭につないでいた馬に鞍と荷袋を取り付けると、手綱を引いてやって来た。
「じゃあ、行こうか。」
「はい。よろしくお願いします。」
私はレオンハルト様に手助けして貰って、なんとか馬に騎乗すると、馬は緩やかに走り出し、やがて早足になった。
馬が進むのに合わせて、レオンハルト様は腰を上げたり下げたりしているようだったけれど、私にはそれは出来ない。
……ただ座っているだけじゃないのね。これはなかなか腰に来るわ。
家を出たらきちんと乗馬を習おうかしら。
馬に乗れたらとても楽しそうだわ。
それにしても気持ちがいいわね。
頬に当たる心地の良い風も、次々と流れる景色も、私の心を慰めてくれた。
「……ご主人と、何かあったのか?」
しばらく黙っていたレオンハルト様が、突然そう言った。
「え?」
「そんな顔をしている。」
「……。」
どう答えたものか困ってしまった。
さして親しくもない方に、ましてや殿方にだなんて、夫婦の営みが苦痛であることや、今夜夫からの求めに応じて、妊娠することが怖いだなんて、とても言うことは出来ない。
「はい……、まあ……、そんなところです。
それで、家にいたくなくて。」
私は理由をぼかして曖昧にそう言った。
「そうか。」
レオンハルト様は、それ以上なにも聞かないでいてくれた。
「今日行く場所は村からだいぶ離れているんだ。村の近くは滅多に魔物が出ないからな。
途中で馬を休ませる予定だ。」
「そうなんですか?一体どちらへ?」
「んー、まぁ、山の近くの森のそばだな。」
はぐらかすようにレオンハルト様はそう言うと、さらに馬を急がせた。
「うわっ!」
「きゃっ!」
それからしばらく進んだところで、馬が前脚を大きくあげて立ち止まったものだから、私もレオンハルト様も思わず悲鳴をあげた。