ひと通りアデリナ嬢からやり方を教わった後で、アデリナ嬢の教えてくれた技法を真似して、アデリナブルーを再現しようと、みなが銘々に思い思いの場所にイーゼルを置いて空を描き始めていた。私も真似してみようとしたけれど、かなりの色彩感覚と技術が求められるものなのだと分かった。
アデリナブルーとひとくちに言っても、ただアデリナブルーと呼ばれる絵の具を塗るだけじゃあもちろんない。アデリナブルーと呼称される絵の具の上に、幾重にも絵の具を塗り重ねて、重ねた絵の具を刷いて、複雑な空の色を再現してゆくのだ。
教わったからといって一朝一夕に出来るものではない。色を正確に読み取って再現する色調と呼ばれる感覚と、それを実現させるだけの技術あってのたまものだ。さすが5本の指に入ると言われる人気絵師ね。
ますます憧れてしまうわ。
そんな風に考えながら絵を描いていると、少しばかり輪郭線が歪んでいるような気がしたので、もう少し丁寧に描こうと思って再び筆を取ったとき、背後から声をかけられた。
アデリナ嬢がいつの間にか私の後ろに立っていて、私の描く姿を笑顔で見つめていた。
どうやらアデリナ嬢が近づいてきたことに気付かずに、ずっと絵を描いていたらしい。
「私は写実派だけれど、フィリーネ様の表現方法もとても素敵ね。モチーフよりも絵に描かれた大樹のほうが、とても優しくて包み込むようなあたたかさを感じさせられるわ。」
すると、アデリナ嬢の背後にヴィリがやって来て、うんうんとうなずきながら、
「わかります。世界観がとても優しいですよね。この木の木陰で休んだら、とても気持ちよく昼寝が出来そうです。暖かすぎず、それでいて涼やかな風が吹いてくるところまでを想像させてくれますね。」
と言った。
「私はピクニックがしたいわね。サンドイッチと紅茶をいただきたいわ。眼の前にある木は影がさして、どこか寒々しいけれど、この絵の中の木の根元は、あたたかな日差しと木陰の両方があるもの。」
「ピクニックですか!それもいいですね!
今度よろしければ、みんなでピクニックにでも行きませんか?」
パチンと手を叩いて嬉しそうに言うヴィリを見て、アデリナ嬢がクスリと微笑む。
「あら、みんなで、なの?
ヴィリは本当はお一人だけをお誘いしたいのではないのかしら?
私たちがいてもお邪魔じゃなくて?
楽しそうだとは思うけれど。」
と言った。
その言葉を聞いたヴィリが慌てだす。
「そ、そんなことはありませんよ!」
なんて言いながらも、明らかに動揺している。どうやら図星のようだ。
「みんなで、ですか……。」
まだあまり親しくはない方たちと、お茶会よりも親しい間柄の人同士が行く、ピクニックをするのは、正直気疲れするわね……。
私が思案しながら答えずにいると、ヴィリがガッカリしたような表情を浮かべる。
するとアデリナ嬢は、ふふっと笑って、 「──では、こうしましょう。みんなで行くのではなく、私たち3人でピクニックに行きましょう。それならどうかしら?」
と言ってくれた。
アデリナ嬢の言葉を聞いて、一瞬きょとんとした表情を見せたヴィリだったけれど、すぐにパアッと顔を輝かせて、
「 はい!!それもいいですね!
それならいかがですか?」
と私に尋ねてきた。
「まあ、それなら……。」
アデリナ嬢とはもう少しゆっくりと話してみたかったし、公爵令嬢との社交ではあるから、イザークも文句を言わないわ。
それに上級貴族夫人との社交ではないけれど、人気の絵師と交流を持つのは、仕事の助けになると考えるはずよ。
「やった!楽しみにしてますね!」
ヴィリは今にも踊りだしそうだった。
そんなにピクニックが好きなのかしら?
そんなヴィリの様子を見て、アデリナ嬢も仕方がない人ね、とでも言いたげに笑った。
そして私たちは笑い合った。
なんだかすごく楽しい気分になってきて、筆を走らせる手まで軽くなったかのようだ。
ヴィリはアデリナ嬢と、何やら小声でヒソヒソと楽しげに、恥ずかしそうにしながら、少し離れたところで話していたかと思うと、おもむろにこちらに近付いて来た。
「フィリーネ様、その……、隣で絵を描かせていただいても?」
と聞いてくるヴィリに笑顔でうなずく。
「あ、はい。どうぞ。」
「ありがとうございます。
では失礼します。」
ヴィリが私の横に椅子とイーゼルを持ってきて座ると、アデリナ嬢までもが、私もそうしようかしら、と言って、椅子とイーゼルを移動させ、私と同じように大樹の絵を描き始めた。もともとヴィリはご婦人方に絵を教えていて、まだ自分の絵を描いてはいなかったし、アデリナ嬢は草原と空の絵を描いていたから、そこに大樹を付け足せばいいだけだ。
アデリナ嬢が私の左隣りに、ヴィリが私の右隣りに並んで座っている。
2人とも絵を描き始めると、とても真剣な顔つきになってイーゼルに向かっていた。
とくにアデリナ嬢の真剣な表情は、女性でも見惚れてしまう美しさだ。
ヴィリはときおりご婦人方に呼ばれて絵の添削や修正の技法を教えつつも、またしばらくすると私たちのもとに戻って来て、椅子に腰掛けて絵を描く。
その繰り返しだったから、ヴィリとはあまり話さずに、アデリナ嬢とだけ楽しくおしゃべりをしながら絵を描いた。
絵を描く趣味のある人同士、こうしておしゃべりをしながら絵を描くのもよいものね。
次の旦那さまになってくれる人が、こんなふうに一緒に絵を描くことを楽しんでくれる人だったらどんなにいいかしら。
一緒にお出かけをして、絵を描いて、お昼ごはんを食べるピクニックをするの。
アデリナ嬢に、家族や夫や友人と、こんなふうに一緒に絵を描くことを楽しめたら素敵だと告げると、
「確かに私もパートナーが絵を描ける人だったらいいなとは思うわよ。でも私の場合は難しいかもね。純粋に絵を描くことを楽しめる人はとても少ないわ。同業者だと特にね。」
と言った。
……確かにアデリナ嬢の実力を考えると、そこに並ぼうとしてしまったり、アデリナ嬢に劣る自分に辟易してしまって、一緒にいることがつらくなる日がくるかも知れないわ。
お相手が男性でアデリナ嬢が女性でなければ、せめて性別が逆だったら、なんの問題もなかったかも知れないけれど。
ヴィリはせわしなく動きながら、それでも私たちのもとに戻って来たがった。
あちらでゆっくり絵を描かれてはどうですか?と聞くと、仲間はずれにしないで下さいよ、ピクニック仲間じゃないですか、なんて言いながら、かたくなに戻って来ては、少し言葉をかわしていくのだった。
ご婦人方が休憩の為にお茶をすることになって、ようやく開放されたヴィリは、ゆっくりと腰を落ち着けて絵を描き始めだした。
早い……!!
別にあまり時間がないから急いでいるというわけでもなく、置く色を決めてそれを刷くまでの決断が素早いのだ。
一切の迷いのない清々しい筆。それがヴィリのタッチであり技法だった。アデリナ嬢はというと、私と同じく、何度も微調整を加えながら、自身の感じる色を再現する為にキャンバスと格闘していた。
きちんと習った人であっても、これだけの違いがあるのね。参考になるわ。
ヴィリは私の手元の絵を覗き込むようにしながら、感心した様子で言った。
「──すごい……。始められたばかりだと伺いましたが、もうこんなに描けるようになったんですね。さすがです。」
ヴィリの言葉に、今度はアデリナ嬢が反対側からヒョイと覗き込んでくる。
「本当ね、アデリナブルーも少し再現出来ているのではなくて?確かにすごいわ。
正式に習ってはいないのでしょう?」
そう言って褒めてくれたのだけれど、自分ではまだ納得いかない出来だったので、
「まだまだですわ。」
とはにかんで答えた。
ヴィリは少し困った顔をしながら、
「でも僕は習っていましたけど、最初からこんなには描けなかったですよ?
フィリーネ様はすぐに上手になりますよ。
だってフィリーネ様には才能がありますからね。フィリーネ様はきっと良い絵師になれますよ。」
と言ってくれた。
彼の言葉を聞いていた私は思わず、 ──えっ!?と驚きの声をあげてしまった。
まさか、ヴィリがそんなふうに思ってくれていたなんて……。
私は驚いて、彼に聞き返した。
「──どうしてそんなことが言えるのです?
私には絵の才能なんかないですよ。」
あったのは魔法絵師としての才能だけだ。
絵そのものが素晴らしい、才能のある人間だとは、自分でも思ってはいないもの。
するとヴィリは不思議そうな顔をして、私のほうを見つめながら答えた。
「いえ、フィリーネ様には確かに絵の才能がありますよ。」
「──私もそう思うわよ、フィリーネ様。」
アデリナ嬢もイーゼルを見たまま、自信満々な笑みを浮かべながらそう言った。
「アデリナ嬢まで……。」
5本の指に入る人気魔法絵師と、新進気鋭の魔法絵師に言われて、嬉しくない筈はなかったけれど、慣れないだけに気恥ずかしい。
「フィリーネ様は絵を描くことがお好きでしょう?フィリーネ様が絵を描いているときのお姿は、とても楽しそうだなと思うわ。そんな人はグイグイと知識を飲み込むの。乾いた砂に水が染み渡るようにね。たから絵なんてすぐにうまくなる。絵師に必要なのはその先の、自分が表現したいものを明確なイメージとして掴む力よ。あなたにはそれがある。」
──私は、そんな風に思われていたのね。
知らなかったわ。自分の絵が人にそんなふうに見られているなんて。
そう思うと急に恥ずかしくなった。
ヴィリが優しい笑顔で私を見つめる。
私は照れ隠しをするかのように、慌てて話題を変えることにした。
「そういえばヴィリ、さっきアデリナ嬢と何を話していたの?
ずいぶんと楽しそうだったけれど。」
すると、ヴィリは笑顔のままうなずいて、 「ああ、あれですか。……ナイショです。」
照れたようにそう言うヴィリ。
……なんだか可愛いわね。
アデリナ嬢も笑顔で、
「──ふふ、そうね。
私もナイショにしておきましょう。」
なんて言う。隠し事をされているのに、イジワルされている感じじゃなくて、私は2人のその様子を見ていて、なぜだかとても幸せな気持ちになった。