「彼は気に入った方にしかメイクを施さないのだとか。ロイエンタール伯爵夫人は気に入られたのですね、羨ましいことですわ。」
「当家のメイドにも、せめて少しでもその技術を学ばせたいですわ。お願いいたします、ロイエンタール伯爵夫人。」
令嬢も御婦人方も口々にそう言ってくる。
ここでやらないとはとても言えなかった。
「……わかりました。お願い致します。」
「それは良かった!──では、一度メイクを落として来ていただいても?」
「ご案内して差し上げなさい。」
バルテル侯爵夫人に声をかけられたメイドが、私をバルテル侯爵家の屋敷の中に案内してくれる。私はメイクを落として戻った。
「やはり予想通り、……いいえ、予想以上に素肌がお美しいですね!
これは久しぶりに興奮してきましたよ。」
フィッツェンハーゲン侯爵令息は、そう言って私を椅子に座らせると、かたわらの鞄からケープを取り出して私の体を覆った。
「魔法絵師がキャンバスに魔法をかけるのが仕事なら、私の仕事は女性の素肌に魔法をかけることです。必ずやあなたを、より美しく変身させてみせましょう。
どうぞ安心して心を委ねて下さい。」
そう言って、36色の絵の具よりも多い、たくさんのメイク道具を使って、私にメイクをほどこしだした。
時折薬指の指先で、両方のこめかみをクッと持ち上げ、優しく顔の傾きを直される。
なぜ薬指なのかというと、中指と人差し指は、メイク用品を叩いたり、のばしたりするのに使うからのようだった。親指も時折使っているから、薬指なのだろう。
それにしても顔が近いわ。確かに微調整を加えているようだから、間近で顔を見る必要があるのだろうけど、メイドたちが私にメイクをする時よりも近い気がする。フィッツェンハーゲン侯爵令息が素敵な人だから、私は落ち着かない気持ちでいたのだった。
「──どうぞ、鏡を。いかがでしょうか?」
そう言ってフィッツェンハーゲン侯爵令息が手渡してくれた手鏡を私が覗き込むのと、周囲がため息のような悲鳴を漏らすのとが、ほぼ同時だった。私は鏡の中の自分を吸い込まれるように見つめていた。
……これが……、私……?
どうしてもメイクで隠しきれない、血色の悪い目の下の薄いクマも、よく言えば白い、悪く言えば単調で温かみのない肌の色は姿を消して、はつらつとした女性がそこにいた。
切れ長の大人っぽい艷やかな眼差しは、王国の女性なら誰もが憧れるものだ。
そしてふっくらと縁取られた印象的な唇。私は自分の唇が厚みがあるのが少し苦手だったのだけれど、むしろそのほうが全体を引き締めて、口元に目が行く感じに仕上がっていた。自分の顔をこんなにも眺めていたいと思ったのは初めてのことだった。
「とても……素敵で驚きました。」
「それは良かった。これからも、メイクを必要とする機会があれば、私に担当させてはいただけないでしょうか?」
フィッツェンハーゲン侯爵令息は、そう言うと恭しくひざまずいて、私に手を差し出して来た。周りの令嬢や御婦人方が羨ましげにそれを見つめながらため息を漏らす。私が手を差し出すと、そこに軽く口付けた。
「よろしくお願いいたします……。」
それからは私が話題の中心になった。どの令嬢も御婦人方も、口々に私のメイクをほどこされた姿を褒めてくれた。あまり社交をしない私には、この環境は少し落ち着かなかったが、褒めてくれているのだから、むげにするわけにもいかない。
それからしばらくして、ひと通り話題が出尽くした頃、そろそろバルテル侯爵夫人の購入したという、パトロンをしている画家の絵を見に行きましょうということになった。
バルテル侯爵家に入り、広い廊下に飾られた絵の前に連れて来られた。日の当たる場所は絵によくないので、この場所に飾ってあるとのことだった。
ロイエンタール伯爵家に飾られている、アデリナ・アーベレ嬢の絵は、カーテンが閉められてはいるものの、窓のある階段の上に飾られている。カーテンを開けることもあるから、その時は直接的ではないものの、日差しがあたることになる。つくづく我が家に絵を見にくるよう招待しなくて良かったわと思った。絵を大切にしない、絵の扱いも分からない人だと思われるのがオチだったわね。
それは巨大な美しい泉の絵だった。アデリナブルーとはまた違う、空の青の美しさと、それを水面に映した泉の青の美しさのコントラストが素晴らしかった。新進気鋭というのもうなずける。そしてこの絵の魔法絵らしいところは、湖から魚が飛び出して跳ねる姿を楽しめるところだった。
水中に、まるで生きているかのように泳ぐ魚たちが、本当に時折動き出したり、水面に飛び出してきたりする。
「……素晴らしいですわ!」
「この画家を見出して支援することを決めたバルテル侯爵夫人はさすがですわ!」
皆が口々に、絵の作者であるヴィリバルトと、バルテル侯爵夫人の両方を褒める中、アデリナ嬢とフィッツェンハーゲン侯爵令息も絵に見入っているようだった。
私もじっと夢中になって眺めていると、
「──その絵、いかがですか?」
「とても素晴らしいですわ。魔法絵は魔法がかかっているのは付加価値のようなもので、絵そのものが素晴らしいから人々を引き付けるのだというのが、よく分かる気がいたします。魚に目がいきがちですが、とくにこの、石についた苔の濃淡や細やかさ、苔も生きていることが伝わってくるかのようですわ。」
誰かに声をかけられて、私は絵を眺めたまま感想を漏らした。
「……ありがとうございます。
その絵、僕が描いたんです。」
そう言われてハッと振り返ると、明るい茶色の髪の可愛らしい顔立ちの細身の男性が、私を嬉しそうに見つめていた。
「ヴィリバルト・トラウトマンと申します。どうぞヴィリと呼んで下さい、美しい方。」
一瞬聞き慣れない単語が聞かれて私は呆然としてしまったあと、ハッとして、
「──トラウトマン?
というと、トラウトマン商会の……。」
「はい、ヴィンフリート・トラウトマンは、僕の父です。」
トラウトマン商会は代々続く商人家系で、平民の中ではかなり大手の裕福な商人だ。正直ロイエンタール伯爵家の、というか、イザークのライバルに当たる。ご子息は確かお一人しかいないのではなかったかしら?
後を継がずに魔法絵師になられたのね。
「そうだったのですね。私はロイエンタール伯爵の妻です。どうぞよろしく。」
私が名乗ると、ヴィリはビクッとした。
恐らくは、貴族に名乗られる前に話しかけてしまったことと、私がロイエンタールを名乗ったからだろう。
後を継がなかったとはいえ、父親のライバルであるロイエンタール伯爵家のことを、父親から聞いていたとしてもおかしくはない。
だけどヴィリが驚いたのは、そこではなかったようだ。
「ご結婚……なされているんですね。」
「?……ええ。」
貴族の令嬢は私の年齢で結婚していないほうが珍しいけれど、平民は自分で結婚相手を決めるというから、彼らからしたら早いのかも知れないわね。ヴィリは私とそう年齢が変わらないようにも見えるから。
「そうでしたか、はは……。
それはそうですよね、こんなにお美しい方が、独り身なわけはありませんから。」
「……ありがとうございます。」
ああ、たまに聞く、既婚者を褒める時の常套手段ね。あなたが独身でないのが残念ですって、とりあえず言っておけば、お世辞になると思っている男性は多いから。
貴族なら髪の結い方や長さで独身か既婚者か分かるものだけれど、平民だからヴィリにはあまり馴染みがないのかも知れないわね。
未婚の貴族の娘は首筋をあまり見せてはいけないことになっているから、結婚するまでは髪を全部結い上げたり、ショートカットにしてはいけないものなのだ。
バルテル侯爵夫人のように髪全体を短くしたり、私のように髪を全部結い上げている時点で、貴族婦人の場合独身はありえないと分かる。アデリナ嬢や他の若い令嬢たちが髪を全部おろしているのがそういう理由からだ。
まだ誰のものでもない存在であるというアピール。この決まりがあるのは女性だけ。
もちろんアデリナ嬢は公爵令嬢の立場を捨てているわけだから、気にしなくてもよい気もするけれど、習慣というのはなかなか捨てられないものなのだろう。
私も初めて髪を結い上げた時は、長い間落ち着かなくて仕方がなかったものだ。
それとも、アデリナ嬢は、単純に好きだからしているだけかも知れないわね。あの髪型は、彼女にとてもよく似合っていたもの。
「私も最近絵を始めたので気になってしまったのですが、ここの鱗が分かる部分はどのように描かれたのですか?1つ1つがとても丁寧に描かれていますね。」
「あなたも絵を……!?ああ、はい、これは鱗の部分にあえて白い絵の具を塗り重ねてから、上から刷くことで下の色をうっすらと見えるようにしてみました。」
「なるほど、そんな技法があるのですね。勉強になります。」
ヴィリは勉強熱心で、とても絵が好きだと分かる人だった。ヴィリと話すのはとても楽しかった。初対面でこんなに打ち解けられたのは初めてじゃないだろうか。
やっぱり同じことを好きだというのは会話が広がるわね。来て良かったわ。
私が絵を描き始めたことを知ったバルテル侯爵夫人が、私もなのよ、と教えてくれた。
聞けば、まだゆっくり話せていない御婦人方の何人かも、絵を描き始めたのだという。
こんなにたくさん絵を描く方がいらっしゃるのであれば、今度は写生大会なんていかがかしら?とバルテル侯爵夫人が提案してくれる。素敵ですわね、アデリナ嬢もいかが?などと皆が口々に言い、アデリナ嬢も交えて写生大会が開催される運びとなった。
私も参加を決め、楽しい気持ちでロイエンタール伯爵家に戻ったのだった。
家に到着すると、門の前の少し離れたところに別の馬車が止まっていた。お客様だろうか?私とメイドの乗った馬車が、その横を通って門の中へと入って行き、私は気になって止まっている馬車を少しだけ振り返った。
「──奥様!……奥様?」
ロイエンタール伯爵邸に入るなり、家令が慌てた様子で私を迎えてそう言った。まるで知らない人でも見たかのようだった。だがすぐに態度を改めて、
「お迎えの馬車がお見えです。」
と言った。