イザークは、日頃言い返すことのない、気の弱い態度の私が、毅然として言い返すのを見て、少し眉をひそめた。ロイエンタール伯爵家に従順な実家と妻を求めたイザークだから、それが面白くないのでしょうね。
ロイエンタール伯爵家の女主人が、従者たちに見下されていたとしても、そこに文句のひとつもつけない妻を望んでいるのだから。
「……魔石の粉末入りの絵の具は高いものだと聞いている。特にアデリナブルーはひとつで中金貨3枚もするのだと。そのようなものを簡単に人に貸すとは思えんな。
正直に言いたまえ。魔法絵流行りで魔石の粉末入りの絵の具で絵を描いてみたがる御婦人方も多い。君もそうだったのだろう?」
イザークは私の言葉をはなから疑ってかかってきた。だけどこれは無理もない。私がイザークの立場だとしても同じことを思うだろう。私自身、なぜ工房長からそのような申し出をされたのかが不思議だったのだから。
「……実は私には魔法絵師としての能力があるようなのです。魔石の粉末入りの絵の具を貸して下さった方が教えて下さいました。」
「──君が?
もう少しマシな言い訳が出来ないのか。
君は王立学園でも普通科の卒業だろう。
……なぜそんな君に魔法絵が描けるというのだ。もしも君に魔法が使えるのなら、入学前の鑑定で分かる筈だろう。」
イザークはあきれたようにそう言った。
「アデリナ・アーベレ嬢も、卒業後に芸術学校に入学しなおす以前は、普通科の卒業生ですわ。入学前の鑑定は攻撃魔法の属性判定をするもので、無属性は魔力もはかりません。
魔法絵は無属性魔法です。入学前の鑑定では判断出来ません。お忘れですか?スキル持ち以外の魔法絵師は、全員無属性魔法使いですわ。契約魔法を使った契約書に使用する、インクに付与される魔法と同じものです。」
私もあきれてキッパリと言った。
「無属性魔法使いにおいては、学園では鑑定の道具がないので、鑑定を希望する場合、自身で教会におもむくようにとの説明を、入学前の属性判定の際に、学園の案内人が説明していたではないですか。」
無属性魔法は学園での授業がないので、そもそも鑑定を行わないのだ。契約書に使用するインクを作る仕事は、魔石に属性や魔法を付与する職業と同じで、安全で安定した稼ぎを得られるので、戦いたくない平民や、跡取りになれない貴族の次男以下に人気である。
だから鑑定で属性がないと言われても、一応は教会で鑑定して貰う人たちが一定数存在する。無属性魔法付与のやり方は、就職後に就職先で教わるのだ。だけどスキル持ちでない魔法絵師が、インクに無属性魔法を付与できるかというと、それはまた別の話だ。
魔法絵はあくまでも、ごく微細とはいえ、魔石の粉末をかいして魔法を発動している。
だけど契約書に使用されるインクには、もともと魔石の粉末が入っていない。
魔石の粉末なしで無属性魔法を発動出来るだけの魔力があるのなら、ちょっと絵から描いたものが飛び出して、動いて見える程度の魔法にはならない筈なのだ。
だから私がインクに無属性魔法を付与できるかどうかは分からない。だけど描いたものを召喚出来るほどの魔力があるのだから、ひょっとしたら教わって試せば、それも出来るのかも知れなかった。
「……私は自宅で鑑定して貰い、鑑定報告書を学園に提出する形で入学したから、その説明は受けていないんだ。」
王族の親戚を含む子息子女をはじめ、上級貴族の子息子女や、お金持ちの商人の子息子女なんかは、自宅に鑑定師を呼び付けて、幼い頃に鑑定を受けることも多いのだという。
イザークもそうだったということか。入学前の説明会に参加していないのであれば、知らなくても不思議ではないわね。
貴族の令嬢は婚約者がいれば、卒業と同時に結婚するものだから、当然働くことはないので、教会で無属性魔法の鑑定を受けるなんてことはしない。私ももちろんそうだったしアデリナ・アーベレだってそうなのだ。だから実は本人が知らないだけで、無属性魔法が使える貴族令嬢は他にもいるかも知れない。
「──私はとある工房で開催されていた、お試し絵画教室で絵を描きました。それを見ていた工房長が、私に絵の具を貸して下さいました。魔力を感じる力がおありのようでしたから、恐らくは魔法絵であると、その時点でおわかりになられたのだと思います。」
魔塔への報告が義務だと言っていたしね。
「私の描いた絵は現在、私に絵の具を貸して下さった工房の手によって、魔塔に送られ魔法絵であるかどうかの鑑定を待っている状態です。結果が出てそうと認められれば、私ははれて魔法絵師と判定されるのです。」
「──魔塔に?」
魔塔という権威のある存在に、イザークがピクリと反応する。
「……魔石の粉末入りの絵の具を貸して貰えた経緯は分かった。だが、ひとくちに魔法絵師とは言っても、本来のスキル持ちである魔法絵師と違い、魔石の粉末入りの絵の具を使用した魔法絵師は、あくまでも絵そのものが素晴らしいから売れているのだ。あまり分不相応な考えは持たないように。」
「……承知しております。」
確かにそれはイザークの言うとおりだ。売られている魔法絵は、もともと絵として鑑賞に耐えうるものが、魔法絵になることで付加価値がついたもの。絵として価値がないものは、せいぜい銀貨3枚程度で売られているという。魔石の粉末入りの高い絵の具を使用しているから、少しでも回収しようということなのかも知れないけれど。
普通に売ったら私の絵なんて、値段がついてもせいぜいそんなものだと思うし、イザークの言いたいことも分かる。魔法絵が描けるからといって、生計がたてられるほどの稼ぎは得られないだろうと。だけど私の魔法絵は、本来の魔法絵師のスキル持ちと同じ効果が発動する。──付加価値の方が高いのだ。
まだ試してみてはいないけれど、恐らくは魔物を描けば魔物が召喚出来ると思う。
そこにどんな金額が付けられるものであるのかは、魔塔に鑑定して貰って効果の保証を貰い、絵を売ってみるまでは分からない。
それに、時間を戻せる時計の絵。
そんな魔法聞いたこともない。この絵に価値がつくとしたら、一体いくらになるのか?
ひとつでもかなりの金額で売れる可能性はじゅうぶんにあると思うのだ。
私はつつましく暮らしていかれればそれで満足だから、1つでも高く絵が売れるのであれば、あとは毎日好きな絵を描いて暮らしていきたい。早く楽しい暮らしを始めたい。
そんな風に思っていると、イザークが家令を近くに呼び寄せ、大金貨一枚を取り出して家令に手渡し、家令が私にそれを手渡した。
「……そんな高額なものをずっと借りているなど、ロイエンタール伯爵家としては体面が悪い。今借りているものをすべて購入し、それ以上絵の具を買わないようにしなさい。キャンバスや筆は構わないから。」
と言った。
なんですって!?まだ絵の具は7色しかないというのに。絵の具は使う用途によって色を使い分けるものだ。確かに今のままでも混ぜ合わせることで色を作ることは出来る。だけどそのせいで汚くなってしまって、色の輝きが死ぬことだってある。
魔石の粉末入りの絵の具は特にそうだ。魔石独自の発色が、光を打ち消し合ってしまうのか、特にアデリナブルーは扱いが難しい。
空一つ描くのだって、雲があって、影になっているところがあって、単純にアデリナブルー1色を塗ればいいというものではない。
アデリナブルーを基調として、キャンバスの上で別の絵の具を重ねていったほうが、自然な空の青さが出せるのだ。
私は愕然としてしまった。
だけど、それをイザークに説明しようとしたところで、彼は一度決めたことを翻さないし、そもそも私の話には耳を貸さない。
私は釈然としない感情を押し殺して、わかりましたと言うしかないのだった。
絵の具の受け渡しは、今までだってヨハンを通じてコッソリしていたのだもの。
これからだってそうするだけだわ。
それにこれは今だけのこと。魔法絵が売れれば。この家を出てしまえば。イザークがどう思おうと私にはもう関係がないのだもの。
私は内心そう思って、理不尽なイザークに対する憤りを、なんとか心の内におさめた。
話は以上だ、とイザークが言ったので、私は絵の具を貸していただいたお礼を、直接工房長に申し上げたいので、絵の具の代金の支払いは、ヨハンに頼まず直接工房にうかがいたいとイザークに頼んだ。
失礼があってはいけないので、そのほうがいいだろうな、とイザークが了承してくれたので、私は無事に工房に直接行かれることになった。工房長にお会いしたい。目を見てお礼が言いたい。私はあなたのおかげで心が慰められて、幸せにもなれるかも知れません。
イザークの執務室を出てから自室に戻る最中、メイドたちがラリサの噂話をしていた。
私が呆然としていた間に、ラリサはわめきながら役人に引きずられて行ったという。
私に騙されただの、はめられただの、あんな高価なものだなんて知らなかっただの。
そもそも高価なものでなければ、大して咎めない貴族の風習がおかしいのだ。真面目に働く者たちが損をするだけではないか。
イザーク様に言えば、私にこんなことをするなんて許さない筈よ!とも言っていたらしいが、残念ながらイザークはアッサリとあなたを切り捨てたようよ。
もともとイザークの言う通り、あの2人に何かあったというわけではないのだから。
イザークが欲しいのは従者な妻で、ロイエンタール伯爵家の女主人に、嫌がらせ目的で私物を盗むような女ではないもの。
むしろイザークの求める妻像からすると、ラリサは真逆の存在なのだ。
愛人にするというのならともかく、たとえ私がいなくなって、妻の立場があいたとしても、ラリサを妻に選ぶとは思いにくい。
ラリサは夕食の給仕回数が最も多かったから、そこで酒の入ったイザークに気さくに話しかけられたことで、すっかり勘違いをしてしまったのだろう。
どれだけ親しげにしてくれているように見えても、イザークにとっては女性なんてそんなものなのだから。もしもメイドたちの中から新しい妻が選ばれたとしても、義母がよそから連れて来たのだとしても、私と同じ扱いを、今度はその人が受けるというだけだ。