壁掛け時計は時計だから時間を操作出来るようになったのだろう。ヨハンが昨日尋ねて来たのも確か朝の10時頃。今は朝の7時だから約21時間分巻き戻ったことになる。新しく上に描いた絵は16時少し前をさしている。下に描かれた絵はよく覚えていないが、夕食前に1番最後に描き始めたものだから、大体の時間はあっていることになる。
描いた時計の針の時間分が巻き戻るのであれば、他のものを上に重ねた場合はどうなるのか?また、同じものであっても時計以外だったとしたら?
考えるときりがないが、これが私がこの家から自立する為に必要なことなのだ。
絵を描く事自体もちろん楽しいが、どんな絵の効果が出るか考えるだけで、それはもうとてもワクワクした気分になるのだった。
「……どうした?」
「え?」
私はイザークの話に耳を傾けていなかったので、何を話しかけられたのかが分からず、一瞬ポカンとしてしまった。
「──今日はやけに楽しそうだな、と言ったんだ。聞いていなかったのか?」
私はやっぱり顔に出やすいのだろうか?
私は慌てて返事をした。
「はい。絵を描くことが思ったよりも楽しくなってしまい、絵のことばかりを考えておりました。大変申し訳ありません。」
私は素直にイザークにわびた。
「いや、構わない。絵に造詣が深いのであれば、婦人たちとの会話も弾むことだろう。
そういえばバルテル侯爵夫人が新しく魔法絵を購入したので披露したいと招待状が届いていたな。行ってみるといい。」
イザークはさっそく社交にからめてくる。
だが今の私は魔法絵師が描いた絵に興味があった。私は招待状に応じることにした。
「はい。ぜひ伺わせていただきたいと思いますわ。とても楽しみです。」
私が笑顔で素直にそう答えたので、イザークは絵を描くことを許可して正解だったなとでも言わんばかりのドヤ顔をした。
イザークもなかなかに顔に出るわね。
「新しいドレスを作らせよう。──ヴァイゲル婦人を呼んでおいてくれ。」
「かしこまりました。」
最後の言葉は家令に向けて言ったものだ。私としては新しいドレスを作るくらいなら、正直その分のお金で、少しでも新しい絵の具が欲しいのだけど、黙ってお礼を言った。
お茶会のたびに新しいドレスを着なくてはならないのだから、貴族婦人というものは大変だ。ヴァイゲル婦人は私のドレスをいつも作ってくれている服飾店のデザイナーだ。
彼女の作るドレスは嫌いじゃないけれど、ドレスは長時間身に付けるのがしんどいものだから、あまり好きではないのよね。
私の社交嫌いの理由の一端が、この長時間着るのがしんどいドレスにもあるのだ。
ろくにものが食べられない服を着て、ニコニコと嘘の笑顔で興味のない会話を繰り広げる人たちの中に長時間いなくてはならないなんて、本当にただの拷問だもの。
貴族婦人のお茶会や、貴族の邸宅でのパーティは、親しい人たちを呼んで楽しむ為のものなんかじゃなく、関係性を強固にする為の足場がためと、その確認のようなもの。
上品な言い回しに含まれた嫌味なんかも上手に言い返せるくらいでないといけない。
私にそんなこと出来るわけがないのだ。
誠実に嘘なく生きてきたのだもの。
そういう人たちとの関わりを極端に避けてきたことで、私はそういう場面に相対したとき、ニッコリ微笑んでかわす力なんてない。
それが貴族婦人に唯一求められることだなんて、本当に嫌になってしまうわ。
──でも、それが貴族。それが嫌なら爵位を捨てて自立するしかない。アデリナ・アーデレはそれをやってのけたのだ。
公爵令嬢である立場を捨て、1人の魔法絵師として生きることを選んだ。彼女には兄がいたので公爵家の後継者問題にはそもそも関わりがないし、公爵令嬢なんて立場だって、結婚してしまえば意味のなさないもの。
夫となった人の爵位が新たな自身の爵位となる。それが貴族令嬢の唯一といっていい未来なのだ。公爵家は数が少ないから、王家に嫁がない公爵令嬢は、他の公爵家に独身の子息がいなければ、下の爵位の貴族、または外国の王族に嫁ぐことになる。
──だが彼女はそのどれも選ばなかった。
口さがない貴族たちは、上位貴族も下位貴族も、公爵令嬢の立場を捨てたアデリナ・アーベレを揶揄したけれど、新しい女性の生き方をその身をもって示したアデリナ・アーベレを支持する人たちも多い。
何より魔法絵師として、人気実力ともに5本の指に入る彼女を、この魔法絵流行りの昨今、無視することは出来ないのだから。
私はイザークの話を無視して一心不乱に食事を続けながら考え事をしていたからか、めずらしくイザークが食べ終わる前に、自分の分の朝食を食べきることが出来た。
いつも物足りなくなって、お昼ご飯を多めにして貰って、しっかり食べていたのだけれど、今日はそんなことにはならなそうね。
本来貴族は朝食と夕食しか取らないのだ。
代わりにティータイムがあり、軽い食事やお菓子などをいただく。これが貴族婦人のお茶会の基本スタイルだ。
夜にパーティを開く事が多いから、お腹をすかせておくためなのだけれど、我が家は私が開催しないのでパーティがない。
だから私は普通に日々お昼ご飯を食べる。これは貧乏子爵家である実家の習慣だ。パーティを主催するお金なんてないから、子どもの頃から毎日普通にお昼ご飯を食べていた。
もしもお昼ご飯なんて食べてしまったら、コルセットをしめてパーティに出た女性は、苦しくて何も口に出来なくなってしまう。
だけど我が家でそんなことをしていたら、私は夜まで殆ど何も口に出来ないことになってしまう。だから毎日お昼ご飯が出るのだ。
イザークはとにかく食事が早い。貴族らしく優雅に上品な所作をしながら、素早く料理を咀嚼するなんていう芸当は、嫁いで何年も経つのに未だに上手に出来る気がしない。
イザークは幼少期より、この決まりを作った先代との食事に慣れているせいか、優雅さを保ちつつ、非常に上品に素早く咀嚼する。
イザークだって子どもの頃から先代が食事を終える前に食べ終わる為にそれを身に着けたのだろうから、少しは私に気遣ってゆっくり食べてくれても良さそうなものだけれど。
それともただの義務で続けている、私との朝食時のつまらない会話を、なるべく早く終わらせたくて、早く料理を食べ終えているのだろうか。そうなのかも知れなかった。
イザークはあちこちのパーティに顔を出すことも多いので、昼ご飯を食べないし、夜は私と顔すら合わせないのが基本だ。
だからイザークが出かけたあとで、私も初めてゆっくりすることが出来る。
夕食は同席の義務がないので、イザークが自宅で食事をする際も、私は部屋で1人で食べる。その時に毎回給仕を担当するメイドたちがイザークに言い寄っているようなのだけど、私にはもう関係のない話だと思えた。
だからラリサは朝よりも夜の給仕につくことを好む。本来はお喋り好きなのか、イザークは夕食の時に給仕についたメイドとは、酒を飲みながらいつも必ず言葉をかわすから。
私には見せたことのない笑顔で、酒をつぐラリサとイザークが談笑していたのを見た時はショックだった。2人の間に何かあろうとなかろうと、そんな事は問題じゃなかった。
ただのメイドが貴族と直接話す機会なんて普通はない。向こうから話しかけない限り。
貴族男性がメイドに手を付けたなんて話は珍しくもないのだ。若いメイドに用事をいいつける以外で話しかける。そこに下心のないことのほうが珍しいくらいだ。
だから私はイザークに言い寄るメイドたちだけが悪いわけじゃないと思っている。
イザークの見た目は女性から見て好もしいうえに、妻とは政略結婚で夫からの扱いが悪いという、つけいる隙のある状況。だから話しかけられたメイドが舞い上がるのも無理はない。そんな中で立場にものをいわせて、一番夜の給仕についているのがラリサだった。
最初の頃は、酒が入れば砕けた話が出来る人なのかも知れないと、私も一緒に夜も食事をしようと頑張ったものだ。だけどイザークが嫌がったのだ。私がテーブルにつこうとすることを不思議がり、あろうことか、なぜ一緒に食事を取ろうとするのかと聞いてきた。
私は答えられなかった。夫婦だから。あなたと話したかったから。それを私の口からイザークに伝えるのは、あんまりにも惨めで。
──自分は求められていない妻なのだと、その時にありありと感じたのだった。
それ以来、メイドとだけは談笑しているイザークとは別々に夕食を取るようになった。
私の部屋は食事を食べる部屋の斜め上。
窓を開けていると、イザークが他の誰かと楽しげに笑いあう声が聞こえて来た。私はそれを聞きながら1人黙々と夕食をとった。
そのことに泣かなくなったのはいつからだっただろうか。子どもが出来ないことを理由に、義母にそれとなくロイエンタール伯爵家を去ることを促された頃だっただろうか。
ああそうだ。あの頃はまだアンがそばにいて、いつも私を慰めてくれた。だけどアンがいなくなってからというもの、私は泣くことにすら疲れてしまった。
それなのに、朝食は一緒に取らなくてはならない。彼の話に答えなくてはならない。後継者の為に子どもを作らなくてはならない。
社交以外で自由に外に出てはいけない。
人前に立つ仕事をしてはいけない。
愛されていないことが分かる夫に、子作りの為だけに抱かれる夜を、政略結婚している貴族夫人たちは、みんな堪えているのだろうか。そのうさを晴らすかの如く、飽きることなく日々お茶会をしているのかと思うと、みんな寂しいのかも知れないと思ったけれど。
私はいつものように、メイドたちと共にイザークを玄関で見送って、部屋に戻る際にラリサとすれ違った。そういえば朝食の給仕担当の中にいなかった。ドアが開け放たれた私の部屋から出て来たところで、一瞬ハッとしたような表情を見せたものの、お辞儀一つするでなくそのまま立ち去った。
ラリサが朝食の時間の間に済ませるベッドメイキングをまともにするとは思えない。
──私はなんだか嫌な予感がした。
部屋に戻るなり、私はさっきしまったばかりの画材を取り出そうとして、ハッとする。
「……あっ!」