大学時代の友人であった紺藤梨英は、比較的裕福で伝統を重んじる、躾の厳しい家庭に生まれた。
そんな家の、大事な大事な末娘。それなりの出自でそれなりの経歴を持つ男性でなければいけないと、彼女の両親は厳しい基準を設けてお見合い相手を見つけては、彼女に合わせた。
しかし彼女は、相手がいくら素晴らしい経歴を持っていても、芸能人のようにルックスが良くても、一向に結婚するとは言わない。
何故なら彼女には、長年お付き合いしている女性のパートナーがいたからだ。
いっそのこと両親に打ち明けられたら良かったのだが、当時は男と女で結婚するのが当たり前、という風潮が強く、同性愛者は病気とまで言われていた時代。
このままでは、無理矢理に結婚させられてしまう。
そしてある日、彼女はある計画を清詞に持ちかけた。
「僕と梨英さんで、周りを欺くための『偽装結婚』をしないかってね」
清詞と梨英、そしてお互いのパートナー同士で結婚し、隣同士で家を建て、周りからは二組の仲のいい夫婦と思ってもらえるよう、暮らすつもりだったのだ。
「じゃあ、隣の空き地って」
「うん、本当は僕のパートナーと梨英さんのパートナーが住む家を建てる予定だった場所なんだ」
秋良は梨英の部屋から見た、この家のと同じくらいの広さの空き地を思い出す。
「予定ってことは、うまくいかなかったんですか?」
「ああ、残念ながらね」
清詞と梨英が先に結婚して、その後すぐにパートナー達で結婚してもらう予定だった。
しかし土壇場になって、清詞のパートナーと連絡が取れなくなってしまったのだ。
「彼は、偽装結婚をしてまで僕と一緒にいたいって、思ってなかったのかもしれないね」
梨英たちは友人として慰めてくれた。
計画は中途半端なまま、時間だけが過ぎていく。それならいっそ、三人で暮らすのはどうだろう、と話している頃。
梨英に付き纏う男性が現れた。
「ストーカー、ですか?」
「そう、とてもしつこくて、ずる賢い奴でね」
清詞が当時を思い出したように、苦々しい顔で言う。
梨英は商店街にある小さなスーパーにパートとして働いていたが、そこである常連客の男に、やたらと話し掛けられるようになった。
商品の場所を聞くふりをして雑談を持ちかけたり、連絡先を教えろとしつこく言われたり。
「でも、梨英さんはその時、清詞さんと結婚してたんですよね?」
「そうだけど、その話をすると『それがどうした? 夫に不満があるはずだ』と決めつけて、自分と付き合うように言ってきたそうだよ」
帰り道でも待ち伏せされて、付き纏われるようになった。なるべく迎えに行ったり、休日は出歩かないようにしていたが、悲劇は起こる。
清詞が仕事で遅くなったその日、家に向かう途中の道で、男に追いかけまわされた梨英は、逃げている最中、車にはねられて亡くなった。
「……そんな」
「付き纏っていた男は、その場で捕まったよ」
秋良は帰りが遅くなると、清詞が心配するメッセージを必ず送ってくる理由に胸が傷む。
「その、梨英さんの、パートナーの方は……」
「葬式と一周忌に来てくれて、それからは連絡が取れなくなってしまったんだ。一緒に暮らす計画のことは、梨英さんの名誉のためにも隠しておこう、忘れましょう、という約束をしてね」
もしこの秘密を明かしてしまえば、梨英の家族は不幸な亡くなり方をした彼女を酷く罵るかもしれない。もしかしたら、秘密を打ち明けてもらえなかったことを嘆くかもしれない。
だからこの家は、不幸な事故で最愛の人を亡くした男が住んでいるだけ、にした。
「梨英さんの計画は僕の内に秘めたまま、もうこの家も売ってしまおうと考えていたんだ」
清詞は左手の薬指に光る指輪を見つめる。
大切な、よき理解者であった親友との結婚は、悲しい結末だったけれど、後悔はしていない。
「……でも、そんな時に朱嶺さんから連絡がきて、秋良くんがやってきた」
そう言うと、清詞が優しく秋良の頬を撫でる。
「僕は幸せ者だ。可愛い君とこんなに楽しく暮らすことが出来るなんて。一生分は笑ったと思うよ。それだけで十分だと思った。これは君が引っ越し先を決めるまでの、ささやかな夢だって」
悲しい気持ちで時間が止まったままのこの家に、鮮やかな紅葉色の光が灯ったようだった。
「──でも今日、君が居なくなってしまうことを考えたら、ものすごく怖くなったんだ」
清詞はぎゅっと秋良を抱きしめる。
あの日のように、色んなものが一気に崩れて無くなっていきそうで嫌だった。
「でも、君と一緒にいたいと思えば思うほど、梨英さんには申し訳ないと思ってしまって……」
自分のせいで潰えた、彼女の計画。
ここ最近は、自分ばかりが幸せになっていいのかと、自問自答する日々でもあった。
「これが僕の、ずっと言えなかった秘密だよ」
ゆっくり身体を離した清詞が、どこか辛そうな顔で笑う。
──清詞さんは、ずっと……。
ずっと優しく笑いながら、深い悲しみの海を漂っていたのだ。
秋良は清詞の手をぎゅっと握る。悲しい後悔が伝わってくるようで、胸が痛くて俯いた。
でも、大好きな人が自分を思い遣って、幸せから目を背けている姿は、果たして嬉しいのだろうか。
「……もし、オレが梨英さんの立場だったら、オレは清詞さんには幸せになってほしいって思います」
顔を上げると、少し驚いた表情で清詞がこちらを見つめていた。
「だって、せっかく生きてるんだから。生きてる人には、みんな幸せになる権利があるって、清詞さんがオレに教えてくれたんじゃないですか」
「──僕なんかにも、幸せになる権利はあるんだろうか?」
驚いた顔がゆっくりと陰る。
しかし秋良は、その影を吹き飛ばすように、すかさず言った。
「あります!」
秋良の自信満々な表情に、清詞の
それから、ふふ、と唇から小さな笑い声が漏れた。
「……君のことが大事だから、ずぅっと我慢していたんだ」
清詞がどこか観念したような顔で言う。
それから左手薬指につけていた銀色の指輪を外すと、ソファのそばのテーブルの上に置いた。
「秋良くん、まだあの時のプロポーズは有効かい?」
「え?」
「もし有効でないのなら、改めて──。僕のお嫁さんになってくれませんか?」
そう言って清詞は秋良の左手をとると、薬指の付け根にキスを落とした。
秋良はぽかんと口を開けたまま、言われた言葉が飲み込めず、はくはくとしばらく動かして、ようやく言葉が出た。
「──ま! まずは付き合うところから、じゃないですかっ?!」
「それもそうだね」
至極まともな返答に、清詞は笑いながら答える。
──いい時代になったよ、梨英さん。
それからテーブルの上に置いた指輪を、嬉しそうに見つめた。