この男を思い出すのに多くの時間を割こうとは思わなかった。えーと確か、摂理に近付いてきた悪い虫の一匹だ。うーん、前回お仕置きが足りなかったのかゾンビのように復活してきたようだ。いや、ゾンビと言う比喩は非科学的だな。そう、ここは科学的に比喩して、ゴキブリ以上の生命力と訂正しておこう。
「……えーと、誰だったかな」
俺は独り言のようにつぶやいた。名前は全く思い出せないから、便宜上、少年Aとでもしておくことにするか。いかにもひ弱そうなその少年Aは、噛みつきそうな表情で俺に問いかけてきたんだ。
「森羅博士! 条件は前回と変わっていないな?」
「条件?」
「せ……摂理さんと付き合うためには、お前を倒さなくてはいけないって条件だ!」
「ああ、それか」
摂理は本当に男子にモテる。兄である俺の目から見てもこれだけ可愛いのだから、科学的に考えても納得がいく現象だ。ただしそれが科学的合理性があるからと言って、言い寄ってくる悪い虫をそのまま放置するつもりは俺には毛頭ないのだ。うん当然だな。科学的に考えて種の進化には配偶者を慎重に選ばなくてはならない。だから俺は、妹を護る高くて頑丈な壁となることにしたのだ。訳の分からない手品を使って挑戦してくるようなアホな連中になど、指一本として大切な妹に触れさせてたまるものか。
「……無理だと思うけどね。全く懲りない手品師だな」
俺が奴を手品師と言ったのには訳がある。なぜだか理由は判らないが、この
「……で、その棒切れはヒノキの棒かい?」
「これは柊の杖だ!」
そう叫んだ少年Aは、訳の分からない言葉をブツブツと唱え始めた。気のせいか、彼が持つ棒の先端が赤く光っている様にも見える。アイツ、先端に赤色LEDでも付けたのかな。
「我の前に顕現せよ、炎の精霊イフリート……」
少年Aの言葉に俺はピクッと反応した。精霊がどうしたって? たとえ頭がイカレたバカが言った台詞であろうとも、非科学的なことを放置することが俺にはできなかった。
「イフリート? 俺はそんな非科学的なモノは認めない」
俺が世界の真理を口に出すと、少年Aの棒の先から赤き光が消えた。突然の出来事に驚いた少年Aは何度も棒を振り続ける。しかし当然の如く、それで何も変わる訳がない。散々、呪文のような非科学的な言葉を繰り返した挙句、少年Aはガックリと深く肩を落とした。愕然とするその哀れな姿には、もう闘う気力が全く見られない。どうやら少年Aのマジックショーは、今日はこれでお終いらしいな。
「君、中二病は中二までにしておくべきだな。……じゃ、いこうか、摂理」
俺は失意の下に項垂れる少年Aにお仕置きをすることもなく、彼の肩をポンポンと軽く叩いた。そしていかにも困惑した表情をしている摂理を促して校舎へと急ぐことにした。……それにしても本当にどうしてなのかな、俺に絡んでくる奴が変人ばかりだというのは。
しかし、別な男子がまたしても俺たちの前に立ち塞がった。今度の奴は大きな黒縁のメガネを掛けた、いかにも神経質そうなインテリ風学生だ。俺も遅刻寸前で時間がないっていうのに、まったくいい加減にして欲しいものだ。
「森羅博士! 今度こそ、借りを返すぞ!」
どうやら今度は俺への私怨らしい。それならまず俺がやらなくてはならないことは決まっている。それは無関係な摂理を先に行かせることだ。摂理の幸せこそが俺の一番だから。
「摂理。悪いが一人で先に行ってくれ」
「でも、お兄ちゃん……」
「摂理が遅刻したら困るからな。俺はいつものように、一人でも大丈夫だから」
後ろ髪を引かれるように何度も振り返りながらも、可愛い妹は自分の通う中等部の校舎へと向かった。良かった、これで摂理に迷惑が掛からない。何よりもそれが大切だ。
「それで……何だっけ?」
ようやく俺は少年Bに振り向いた。少年Bでいいよな? いや、何となく顔に覚えはある気がするものの、相手の名前が全く思い出せなかったのだ。だって仕方がないじゃないか、摂理に付き合いたい奴だけじゃなくて、俺個人にも絡んでくる奴がやたら多いのだから。顔に微かな記憶があるだけでも俺に感謝してしかるべきだ。
「今度こそ、我が雷撃の呪文で……」
少年Bのその言葉で、俺もようやく少しだけ思い出した。
「ああ、電気を使った手品が得意な奴だったな」
「手品じゃない、雷撃の魔法だ!」
少年Bは俺の目前で細い枝のような棒を振り回しながら、訳の判らない言葉をつぶやいている。これだから中二病は……。しかし、上空の雲行きが怪しくなってきたのも事実のようだ。これは早く高等部の校舎に行かないとな。
「悪いが、雷撃の魔法なんて非科学的なものは認められないな」
俺は溜息と共に少年Bへ語りかけた。これで目が覚めてくれるといいのだが。見上げると、なぜか雨雲が雲散霧消しているようだ。
「バカな……そんなバカなぁー!」
少年Bは尚も杖を持って踊りながら、訳の判らないことを叫んでいた。もしかすると彼は雨ごいでもしていたのかな、うーん、雨ごいなんて非科学的だぞ。少年Bよ、もっと自然科学を勉強したまえ。
二年A組の教室にこっそりと忍び込んだつもりの俺に、一際厳ついガタイをした大男が無遠慮に話しかけてきた。角ばった顔に鷹のように鋭い目、短く刈った白い髪、そして2メートルを超える筋肉質の身体……まるで長年山籠もりをしてきた修験者のような風貌をしている。コイツの名前は
「よぉ、
仙道には語尾に『と』を付ける変な口癖があった。
「まあね。今日も非科学的な邪魔が入ったんだ」
俺は担任教師不在でまだガヤガヤしている教室を見渡しながら仙道に応えた。学生たちは自分の席を立って、そこかしこで噂話をしている。俺たちの担任教師――黒間が遅れてくるのは極めて珍しいことだったからだ。
「今日は黒間の奴、出席取るのが遅れているな」
「ああ、何でもこの時期に転校生が来るらしいな、と」
「転校生? 珍しいことがあるんだな」
転校生が来るという話題に、俺が首を捻ったのには理由がある。国立
「不真面目よ、森羅くん」
突然、俺と修羅の会話は中断させられた。まあ、これもいつものことと言えばいつものことなのだが。
「また遅刻ギリギリじゃない」
俺たちの話に割り込んできた美少女の名前は、マリカ・
「仕方ないだろ、通学路が通行止めになっていたんだから」
俺は今朝起きた事実を淡々と述べただけなのだが、マリカは俺の説明に全く納得しなかった。大きな目を吊り上げて、早口で説教をし始めた。
「
「魔法? そんな非科学的なモノ、俺は全く知らないな。俺は自分の目で見て確認しない限り、魔法なんて非科学的なモノは信じないし、認めないことにしている」
俺はいつもの信条を繰り返した。マリカがムキになって反論する。彼女は懐から小さなハシバミの杖を取り出した。
「この頑固者! いい、見てなさい!」
マリカが杖をさっと振ると、その先端に小さな炎が灯っていた。それを見た俺はパチパチと手を叩く。
「相変わらず手品が上手いな、マリカは」
「だから、これは手品じゃないって言っているのに!」
「ふーん」
「何、その疑わし気な態度。手品なら種があるはずでしょ。好きなだけ調べて見なさいよ」
マリカから手渡された杖を俺はささっと調べたが手品の種は全く判らなかった。しかしこれも毎日の日課の一つである。火が付く手品の種が判らないのは残念だったが、だからと言って俺はまだ科学的な説明を諦めていない。
「どう? 手品の種なんかないでしょう?」
「まあな。だけど俺だってこの杖を使えば、科学的に火くらい付けられるけどな」
俺の言葉にマリカが怪訝そうな顔をする。しかしすぐに挑戦的な口調で彼女は俺に語りかけてきた。
「できっこないわ。できるものならやってみなさいよ!」
「それでは遠慮なく、科学の実験を」
俺はマリカの杖の先端を木の机に押し付けると、もう一方の端の方を両掌の間にしっかり挟んだ。刹那に両掌を交互に前後に動かして、錐もみの要領で杖の先端を机の面に擦り付けた。すぐに摩擦熱で杖の先端から煙が出始める。
「きゃあああああっ! 何するの、ワタシの大切な杖に!」
それを見たマリカが、悲鳴を上げながら俺から杖を取り上げた。科学的証明の途中だと言うのに何をするんだ。まだ煙が出ただけで、火が付いていないじゃないか。
「まだ途中なんだけどな」
「判ったから! もういいからやめて!」
俺は不満だったが、マリカはその場から逃げるようにして離れていく。その後ろ姿を見つめながら、俺は独り言をつぶやいた。
「……変な奴だな」
「いや、ここは
「……まぁ、確かにここは変な学校だよな、本当に」
俺は溜息をつきながら考え込んだ。