――大好きだよ、お兄ちゃん――
――セツリ……目を開けてよ、セツリ――
全く視界が効かない光の靄の中で、私の意識は当てもなく漂っていた。どうしてここにいるのか……それがなかなか思い出せない。そもそもここは何処なのだろうか。
「
名前を呼ばれてふと顔を向けると、そこには今までに見たこともないほど美しい女性が、眩しいほどの笑みを湛えて私の目の前に立っていた。ただし美しいという表現はあまりにも感覚的であり、あまり科学的な表現とは言えない。しかしなぜ今まで彼女の存在に気付かなかったのだろう。意識障害からくる視覚異常だろうか? いや、それはないな。彼女に自分の名前を呼ばれる前から、私の意識は極めてはっきりしていたと自信を持って言える。
「ここは……どこですか? 合理的かつ科学的に説明してください」
あたかも『あの世』にいるみたいだが、そんな非科学的なことはありえない。是非とも目の前の女性から合理的な説明を求めたい。しかし彼女は説明に困ったような顔をしている。
私は彼女を良く観察することにした。端正な顔、輝く金髪、透けるように白い肌、ギリシャの彫刻のような抜群のプロポーション……神話にある女神を顕現するとこのような姿になるかもしれない。むろん神話なんてものは全て非科学的な妄想なのだが。とりあえず私の目の前にいる眩しい笑顔をした女性に、過度の賢さを期待するのは止めておこう。
「質問を変えましょう。あなたは何方です?」
私は彼女の知的レベルに配慮して簡単な質問に切り替えることにした。それでも彼女は回答に迷っているようだった。しばらく待っていると、彼女はようやく言葉を口にした。
「……実は私、転生の女神なのです」
あまりに残念な言葉を聞いた私はその場で深く溜息をついた。転生の女神だって? 中二病じゃあるまいし。そんな非科学的なことを、この私が信じられるはずがない。そもそもこの世に神などいないし、神などはいらないのだから。
全く話を信じていない様子の私を見ても、女神を自称するその残念な美女は、眩しい笑顔で私に問いかけてきた。
「岩古奈さんとお呼びしてもよろしいですか?」
「できれば、岩古奈
若くても私は物理学、応用化学と電気工学の博士号を持つ科学者なのだ。そう、科学こそ私の誇り、私の目的――今の私の信念そのものだったのだ。
「それでは岩古奈博士。貴方に何が起きたのか、全く思い出せませんか?」
生真面目な表情に戻った自称女神の美女に優しく問われて、私は両腕を組んで考察の時間を作った。
確か私は……新しいエネルギー源となる新規物質の合成中だったはずだ。それは石油や石炭とは異なり、二酸化炭素を出さない画期的な液体燃料である。合成に成功すれば世界を悩ます環境問題も全て解決できる、そう言っても過言ではない大発明だったのだ。この先も、人類は科学によってさらに発展することができるに違いなかった。
「サイエンス、これこそ人類が得た最高の宝だ!」
私は自分の信念を口に出した。そう、私にとって科学こそがこの世の全てだ。世界の真理は科学にこそある。非科学的なモノなど、この世界に存在してはならないのだ。もしも私に科学より大切な物があるとすれば、それは愛する我が妹の摂理だけだろう。
「うん、これに成功すればノーベル賞も確実だな」
人類の抱えていた難題課題を解決した若き天才科学者――私はノーベル賞を受賞する自分の晴れ姿を脳裏に浮かべて、思わず妄想に走ってしまった。その時、真っ先に脳裏に浮かんでいたのは歳が離れた妹……誰よりも何よりも大切な摂理の愛らしい顔だった。きっとノーベル賞を受賞すれば、摂理は私を誇りに思い、前にも増して私を愛してくれるだろう。妹の眩しい笑顔を思い浮かべた私は、自分の頬が自然と緩むのを感じていた。そう、この私にとって科学より大切なものは妹だけ……命より大切な摂理だけだったのだから。
――しかし僅かな油断が命取りだった。私はデリケートな作業で微量成分の配合量を大きく間違えてしまったのだ。
「……こ、これはマズイ……」
私の記憶にある最後の記憶……それは眩い程に光輝くフラスコの姿だった。私にはその後の記憶はない。
回想を終えた私の表情を見ると、春風のように温かい笑顔をした自称女神は、優しい口調で話しかけてきた。
「起きたことに納得できましたか?」
自称女神の質問に私は首を横に振った、あのフラスコが爆発したなら、まず間違いなく私は死んでいる。しかし、今こうして私の意識ははっきりしているのは科学的に考えて矛盾があるではないか。合理的に説明できる仮説を組み立てたいところだが、今は情報が不足している。暫定的な仮説として、爆発の影響で脳が混乱状態に陥り、非科学的な悪夢を見ているというところが妥当だろう。
「岩古奈博士、真に残念なことですが貴方はお亡くなりになりました」
「何とも非科学的な話ですね。私にはそんな戯言は信じられません」
「やはり信じていただけませんか。……それは困りました。次の生に向かっていただくために、そこだけはご理解いただきたかったのですが」
「いや、百歩譲ってこれが現実だとしても、次の生に行くのは困る。摂理が私の帰りを待っているのだから」
「えっ、妹さんが博士を待っていると」
私の言葉を聞いて、自称女神は大急ぎで黄金色のノートを読み返した。そして何とも複雑な表情になる。理由は判らないが彼女は傍目にも心底困っている表情に見えた。憂いと悲しみを背負い、それでいて何か大切なことを伝えなければいけないというような顔だ。もちろん私としても、目の前にいるいかにも人の好さそうな女性を困らせるのは本意ではない。それでも私は摂理のことが一番に気になるし、そもそも非科学的なことに対してはどうしても我慢ができない性分なのだ。しかし、この場に立ちこめていた気まずい雰囲気を察知した私は、仕方なく自称女神に少し水を向けてみることにした。
「ところで、貴方のお名前を聞いていませんでしたね」
「私ですか? 私の名前……そうですね、ルナ・グレイス――ルナとお呼びください」
彼女は私に自分の名前を教えてくれた。ルナか。取りあえず、これで自称女神を何と呼べばいいのかだけは判った。自称女神さんとは流石に私でも言いにくいからな。
「……それではルナさん。とりあえず貴方の用件だけは伺いましょう」
私の言葉にルナは黄金色のノートを閉じた。笑顔に憂いと悲しみが垣間見られるが、それでも何とか気を取り直したみたいだ。優しい微笑を浮かべると、私への説明を再開した。
「岩古奈博士は、たくさんの転生ポイントを貯めておられます」
「はて、転生ポイントとは?」
「生き物が生存中に貯めて、生まれ変わる時に消費するものです。この転生ポイントが多いほど良い条件で生まれ変われるのですよ」
転生ポイントとは初めて聞いた話だが、輪廻を伝える宗教でこれに似た概念を聞いた事がある。概して宗教は非科学的だが、ある種の合理性だけはあるかもしれない。
「博士は合成に失敗しましたが、あの発明は引き継がれて人類の窮状を救うことになります。大きな社会貢献をした貴方には、何にでも生まれ変われる大量ポイントが与えられました」
妙なことを言う人だなとは思いつつも、自分が高く評価されていることを知って、私も悪い気はしなかった。いや、正直に言えばかなり嬉しかったのだ。しかし、この私には決して譲れないことがある。そう、私にとって重要なのは科学的合理性……その絶対的真理に勝るものがこの世にあるとすれば、それは我が愛する妹の摂理だけなのだ。
「ポイント積算方式は合理的です。しかし、そもそも転生という概念が非科学的ですね」
「非科学的……ですか。でも岩古奈博士。世界の理は現在までに解明されている自然科学だけではないのですよ」
ルナはこの世の理を私に諭すかのように静かに語った。しかし私はそうは考えない。
「いえ、私にとっては自然科学こそが全て。科学の他には何も認めたくありません」
非科学的なもの全てを否定する私の言葉に、彼女は酷く落胆した様子だった。そして哀しく憂いに満ちた表情で、黄金色のノートをもう一度読み返している。いったいその中に何が書かれているのだろうか。まあいい、どうせ非科学的な枝葉末節に違いない。
「私、岩古奈博士ならば、あらゆる学問を習得した傑出した方になれると期待しておりました。それに……貴方はあの世界でしか……」
何かを私に伝えかけていたルナは、ハッとして口をつぐんだ。そしてもう一度優しく微笑むと、祈るような表情で私に語りかけてきた。
「最後にもう一度だけお勧めさせてください、岩古奈博士。魔法も科学も存在する世界で両者を極めてみませんか? その世界でなら、きっとあなたの探しものが見つかるはずです」
しかし、私は魔法に限らず全ての非科学的なモノを絶対に認めたくなかった。そんなものを認めれば、自分自身の存在を否定するようなものだ。そう、ただ一人……妹の摂理のためだけに生きてきた私にとって、自然科学こそが人生の支えだったのだから。私はにべもなくルナに宣言した。
「魔法がある世界? もしそんな所があるのなら、私は是非ともそこに行って非科学的なモノを一切否定し、人々に科学技術のすばらしさ、優越性を伝えたいものですね」
私の返事を聞いて、ルナは再び金色のノートを取り出すとそこに数行の文字を書き込んだ。はて、彼女は何を書き込んだのだろう?
「……判りました。そこまでおっしゃるならば仕方ありません」
微笑むことを忘れ、悲し気な表情で私を見つめる彼女を目の当たりして私の胸も少し痛む。しかし化学薬品の爆発で混乱した意識がもたらした全く意味のない夢と考えていた私は、それ以上は深く考えようとしなかった。
「もしお望みなら、神クラスに近い特殊スキルも私の加護として付加いたしますが……」
なぜか破格の提案を口にしたルナに、私は自分の望みを迷わずに伝えた。そう、私の望みは自分の目に映るあらゆる非科学的なものを否定することなのだと。
「そうですか……。それでは本当に残念ですが、『否定』を貴方の絶対スキルといたします」
自称転生の女神のルナは、本当に悲し気に首を左右に振ると、金色のノートに私の希望をそのまま書き込んだようだった。やがて、私は自分の意識が次第に薄れていくことに気付いた。合理的に考えれば……私は今、あのフラスコの爆発で絶命するところなのだろう。残念なことではあるが、科学的に考えればこれは合理的な結果だ。科学的かつ合理的な結果なのだから、仕方がないと受け入れるしかない。ただ一つの心残り、それは愛する妹……摂理の幸せをこの目で見届けることができなかったことだけだった。
……摂理……摂理……誰よりも何よりも大切な私の妹。私は……私はもう二度と摂理と別れたくなかったのに。
――大好きだよ、お兄ちゃん――
――セツリ……目を開けてよ、セツリ――