何処か判らない光の靄の中で俺の意識は当てもなく漂っていた。次第に意識がはっきりしてくる。ふと気付くと、この世の者とは思えないほど美しい女性が俺の目前に立っていた。輝く金髪、海のような碧眼、まるでギリシャ神話の女神のようである。
「
彼女に自分の名前を呼ばれて、俺の意識は瞬時にクリアになった。どうやら今の俺の状況は『あの世』にいるらしい。そうだとすると目の前にいる金髪碧眼の美女は転生の女神で間違いないだろう。
「どうですか? 貴方に何が起きたのか、思い出せますか?」
美しき女神に優しく問われて、俺は両腕を組んで考え込んだ。
確か……確か俺は密かに想い続けてきた彼女に告白したんだっけ。彼女の名前は琴浦あかり――高校の同級生だ。アーモンド形をした大きな目、小さな口、鼻筋の通った端正な顔、ツインテールに束ねた長い栗色の髪。明るく活発なあかりに、俺は入学式で一目惚れをしたんだ。間違いなく、これが俺の初恋だった。
人伝に聞いた噂では、あかりには意中の人がいるらしい。だけど俺はどうしても彼女を諦めきれなかった。だからあの日、公園に彼女を呼び出して、思い切って自分の気持ちを伝えたんだ。しかし結果は玉砕……あかりは、自分には想い人がいることを俺に伝えた。
あかりは俺の意に沿えないことをひたすら謝ると、俺の前から走り去っていった。だが俺は、何かあかりに伝えきれなかった言葉がまだあるような気がして、彼女の後を追うことにした。だけどあかりを追いかけるのに気を取られていた俺は、公園の出口にある信号が変わったことに全く気付かなかったんだ。
俺にある最後の記憶……それは俺の目前に迫る大型トラックのボンネットだった。
回想を終えた俺の表情を見て、美しき女神は優しく話しかけてきた。
「今度は、起きたことに納得できましたか?」
女神の質問に俺はブンブンと首を横に振った。誰だってこんな最期になって納得できるはずがない。こんな終わり方は嫌だった。
「それは困りましたね。未練を残しては次の生に向かえませんのに」
そう言いながら首を傾げる人の好さそうな女神に、俺は強気に出ることにした。
「俺はやり直したいんだ! 俺を過去に戻してくれ!」
女神はフゥと深い溜息をつくと、丁寧な言葉で俺を説得し始めた。
「古里内こりないさん、人は過去へは帰れないのですよ」
美しき女神は俺に優しく微笑むと、理を説くように静かに語った。たぶん彼女の言葉が正論なんだろう。だが、俺はここで簡単に引き下がるつもりは毛頭もなかった。
「あんた、女神様だろ? 何でもできるはずだろ?」
「私にできるのは『真理』に反しない範囲でなのですよ」
「『真理』に反しないって、どういう意味?」
「明らかに矛盾した願いは、それ自体、意味をなさないということです」
しかし、女神のその言葉を聞いた俺は、心の中でこれはチャンスだと思った。
「過去に戻るっていう願いに何か矛盾でもあるって言うんですか?」
「過去に戻ることに矛盾はありません。……でも過去に戻っても、貴方が望むようなことにはならないのですよ」
「そんなことはやってみないと判らないじゃないか!」
俺の言葉に美しい女神は再び溜息をついた。顔には憂いが満ちている。それでも女神はもう一度、確認するように、優しく俺に尋ねた。
「悪いことは申しません。古里内こりないさん。過去に戻るより、貴方が貯めた転生ポイントを使って次の生に進みませんか?」
しかし俺の決意は固かった。過去に戻ってあかりに告白をやり直すためなら俺は何でもするつもりだった。そこで俺は人の好さそうな女神をあえて挑発することにしたんだ。
「そんなことを言って、本当はできないんだろ?」
敬意も何もない俺の言葉に女神の顔が僅かに硬直する。少し気に障った様である。しかし、俺は女神の表情にそれなりの手応えを感じていた。
「あーあ、本当に役に立たないんだな」
神への敬意のかけらも示さなかった。さらに態度を悪くした俺に微笑む女神の頬もひくひくと痙攣している。俺の直勘では、ここでダメ押ししておけば必ず過去へ戻れるはずだ。
「無能な女神のことを、駄女神だめがみって言うんだよな!」
俺の暴言をここまで聞いた女神は、強張った微笑みを浮かべながら語りかけてきた。もし俺の勘違いでなければ、女神の額には青筋が立っている。
「……そこまでおっしゃるなら、貴方の望む過去に帰して差しあげましょう」
女神の言葉に俺は狂喜乱舞した。女神に対してかなり不遜であったかもしれない。しかし、結果オーライだ。早速、女神に頼み込んで、俺を告白前の時間まで帰してもらった。
はっきりした声であかりは俺に謝ると、深々とその頭を下げた。
「ごめんなさい!」
呆然として立ち尽くす俺に、あかりは言葉を続けた。
「古里内くんの気持ちはとても嬉しいわ。けれど、私には好きな人がいるから」
そうか。噂に聞いていた通り、あかりにはやはり意中の人がいたのか。
「だから古里内くんの気持ち、受け止められないの!」
俺の告白を聞いたあかりはハッキリ断るとその場から走り去っていった。失恋のショックで、俺はしばらく身体を動かせなかった。だけど俺はこの恋をここで諦めきれなかったのだ。
何かあかりに言い残したことがあるような気がして、慌てて彼女の姿を目で追う。あかりはもう公園から外に出ていたようだ。大通りの向こうに彼女の姿が微かに見える。見失なう前に追いつくためには、少し急がなければ。
急いでいた俺は、公園の出口の信号が赤に変わっていたことに気付かなかった。通りに飛び出した俺の耳に大きな警笛音が届いた。クラクションに振り向いた俺の瞳に映った物――それは大型トラックのボンネットだった。
俺は転生の機会を与えられて、女神に過去への返送を望んだらしい。しかし過去への返送の刹那になって、俺はようやく気が付いたんだ、過去に帰るということの真の意味について。
未来の記憶を過去に持ち込んだ世界は、過去とは完全に一致しなくなる。両者に差異がある世界は過去にはならないからだ。だから人は決して過去に先の記憶を持ち込めない。もし仮に人間が過去に戻れたとしても、人はそれを認識することができないのだ。そう、何一つ状況に違いがないからこそ、もちろん未来は何一つ変わることはない。何度でも同じことが繰り返されるだけなのだ。
「しまった!」
真理に気付くのが遅すぎた。どうやらこの過去への返送ループ、今回が一回目や二回目ではないかもしれない。
これが何回目の過去への返送なのか、俺には全く判らなかった。もしかすると百回……いや千回すら超えているかもしれない。この果てしない繰り返しは、女神が止めてくれるまで続くのだろう。
今にして思うと、俺の吐いた暴言で、女神はかなり腹を立てていたのかもしれない。うーん、後悔先に立たず、いくら悔やんでも悔やみきれない。このまま俺は永遠に次の生にもいけないのだろうか? ……いや、いくらなんでもそれはないだろう。いつか日かきっと、女神は俺のことを許してくれるに違いない。その一縷の希望を胸にして、俺はこの無限とも思える繰り返しを続けるだけだった。
天界に佇む女神は、過去に戻った転生者の姿を見つめながら、再び深い溜息をついた。
「……因果応報という言葉を知らなかったのですね、古里内さんは。それにしても最近の転生希望の方々は、どうしてこんな人たちばかりなんでしょう」
今回もまた落胆する結末になってしまった。転生の女神は心から哀し気に何度も首を横に振ると、次に待つ面談者に気持ちを切り替えた。