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第64話 不良少年勝平とライスカレー・下

 勝平の体は、俺が銭湯で綺麗に磨いた。浅黒い肌は、陽に焼けた名残りのようだった。それに、体に残る大小の傷。苦労してきたと分かる体に何とも言えなくなって、俺は丁寧に彼の背中を流していた。


「おかえりー!」

 綺麗になった俺たちが蕗谷亭に戻ると、しのが笑顔で迎えてくれた。俺は「ただいま」と笑って返したが、勝平は少し戸惑ったような緊張したような顔で「……ただいま」と、小さな声でそう返事をした。

 しのは、俺が指示をした通りの作業をしてくれていた。玉葱と胡蘿蔔にんじん馬鈴薯じゃがいもを細かめのさいの目切りにしてくれていた。

「ありがとうな、しの。じゃあ、後は俺がやっておくから勝平さんと行ってきてくれ」

「うん!」

「は? どこに行くんだ?」

 俺たちの会話を聞いて、勝平さんは少し不安そうな顔になった。警察に行くのかと思ったのかもしれない。

「勝平さんの着物や下着、布団を買いに行くんだよ。しのだけじゃ持てないからね。それが終わったら、昼に使った食器を二人で洗ってくれないか?」

「はぁ?」

 俺の言葉が意外だったのか、勝平さんは目を丸くしている。俺は銭湯に行く前に長屋の皆に頼んで、古着の着物や同じく安く買える布団が手に入るように手を回してもらっていた。それらを買えるだけのお金を、しのに渡している。

「さ、行こう! 遅くなると、お店に迷惑かけちゃうから!」

 まだ戸惑っている勝平さんの背中を押して、彼と共にしのは蕗谷亭を出て行った。


 静かになった蕗谷亭で、俺は竈で小さくなっていた火を再び大きくして鍋を置いた。そして鍋が温まるまでに、牛肉を細く切った。俺が意外だったのは、この時代カレーに牛肉を使っていたこと。東京では豚肉が主流で、関西では牛肉。そう思っていた。もしかしたら、戦後に変わったのかな? まあ、現代では鶏肉や魚なんか使ったたくさんのカレーがある。俺が知らない食の時代の流れがあるんだ。


 鍋が温まると、バタを入れて牛肉と玉葱を入れて炒めた。本当に、玉葱は火が通るといい香りが出る。蕗谷亭が、途端にいい香りに包まれた。

 本来ならここでカレー粉と水を入れて、後で胡蘿蔔と馬鈴薯を入れて煮る。でも俺は現代風に、それらも鍋に入れて炒めた。煮崩れを気にする調理法らしいから、俺はあえてそうしなかった。だって、煮崩れするほど火が通った野菜って美味しいと思わない?

 野菜にもある程度火が通ったら、水を入れてじっくり煮込む。俺はこの時間に、夜飯の準備をあらかた終えることにしていた。勝平さんにこれからの事を説明する必要があったからね。副菜や飯を炊くのを、しのとりんさんに頼むつもりだ。


「ただいまー!」

 今度は、しのが帰宅の挨拶をしてきた。大荷物を抱えた勝平さんは、やっぱりさっきと同じように戸惑ったような緊張したような顔で「……ただいま」と俺に言った。

「おかえり、しのと勝平さん。しのは、少し休んできてくれ。俺は、勝平さんと話するから」

「はーい」

 しのは素直に俺の言葉に頷いて、手を振って蕗谷亭を出て行った。

「勝平さん、これからの話をしましょう」

 俺がそう言うと、勝平さんは緊張した顔で頷いた。買ってきた布団やらを脇に置いて、座敷に座る。俺は、二人分のお茶を淹れた。

「実はこれからここの店を改装して、本格的な洋食屋を開くことになったんだ」

「え!? すごいな。この家を、洋風に立て直すのか?」

 勝平さんは、きょろきょろと店の中を見渡した。確かに純和風の店を洋風に改装するとなると、大工事だよな。でも、俺たちにはそれが出来るだけの財宝の残りがあった。

「今は昼間しか店を開いてなかったんだけど、これからは昼から夜まで店を開けようと思っているんだ。でも今は、この店の従業員は俺としのとりんさんしかいない。人が足りないので――そこで、勝平さんには住み込みで働いて貰えないかなって思ってます」


「俺を雇ってくれるのか!?」


 本当に意外な言葉だったのだろう。勝平さんが、驚いた声を上げた。これは、俺一人で考えたことじゃない。俺が銭湯に行っている間に、しのが長屋のみんなに聞いてくれていたんだ。みんなは「いい案じゃないか」と、応援してくれていた。勿論りんさんも「頼もしいねぇ」と、了承してくれていた。


「部屋と三食込みで、ひと月十五銭……で、どうでしょうか? 洋食屋が繁盛すれば、もう少し上げられるとは思います」

「おいおい、お前正気か? 見ず知らずの俺に、なんでそこまでしてくれるんだよ? それに……俺は、大根を盗もうとした奴だぞ?」

 勝平さんは、腕を伸ばして俺の腕を掴んだ。乱暴な仕草ではなく、どこか縋り付くような感じがした。


「俺、信じてるんです。勝平さんが悪い人じゃないって。もし少しでも悪いところがあるなら……俺たちと働いて、それが消えるようになって欲しい。少なくてもお給金が入るなら、悪いことしなくてもいいだろ?」

 勝平さんが自分のおっかさんの話をしたとき、本当に悲しそうな顔をしていた。あの顔は嘘じゃない、そう信じたかった。


 それに俺は明治時代に一人来てしまい心細かった。それを救ってくれたのは、おっかさんとしのだ。それに、尊さん。財宝を俺に残してくれた、名前も知らない誰か。勝平さんにとって、俺もそんな人になりたかった。


「……俺、料理なんて出来ないぞ? 読み書きや計算も、十分に出来ない」

 小さな声で、勝平さんは言った。

「最初は、小さなことから始めようよ。今日しのとやってくれた、洗い物。それに、裏手の畑の世話。料理の準備の手伝い。出来る事から、覚えていってくれたらいいんだよ!」

 俺は安心させるように、俺の腕を掴んでいる彼の手を反対の手で優しく掴んだ。そして、にこっと笑ってみせる。


 お人好しかもしれない。俺の選択は間違っているかもしれない。でも、俺には妙な自信があった。勝平さんは、きっと頼れる存在になる――俺たちと一緒に、洋食屋を繁盛させてくれるはずだって!


「……ありがとうな」

 ぽろりと一粒だけ、勝平さんの瞳から涙が零れた。それを腕で拭ってから、勝平さんも精いっぱいの笑顔を見せてくれた。

「世話になる……これから、よろしくお願いします!」

 俺の腕を掴んでいた手を離すと、勝平さんは俺に土下座をした。

「よかったね」

 家に帰っているはずのしのが、勝手口から入ったのだろう。ひょっこり顔を覗かせて、笑っていた。



 昼間茹でていた鍋に、再び火をつける。隣では、勝平さんが飯を炊く竈に火をつけていた。しのとりんさんは、副菜となる酢蕪の下ごしらえをしている。

 俺は鍋が沸騰すると、火を弱めてカレー粉を入れる。とろみをつけるために、うどん粉。そして、隠し味には尊さんがお土産にくれたスパイスの中からクミンを入れた。クミンは江戸時代に日本に入ってきた調味料だが、国内では生産されていない。輸入物でしかなかったので、有難い。そして辛い物が苦手なしのやわかたちの為に、林檎のすりおろしも入れる。この時代風というより、少し現代風のカレーライス。いや、この時代での呼び名であるライスカレーの出来上がりだ!


 話し合いをしてから、蕗谷亭の休憩室になっている空き部屋で勝平さんは寝ていた。新しい店が出来るまでは、ここを彼の部屋にしようと思っている。安心したのか今までの疲れか、勝平さんはりんさんが起こしに行くまでぐっすりと寝ていた。


「よかったな、身の振り方が決まって」

 夕飯の時間になると、長屋のみんなが集まり始めた。そして、俺たちと一緒に炊事場にいる勝平さんの姿を見つけると、みんなが彼に声をかけた。

「今日から、皆さんよろしくお願いします!」

 勝平さんは、深々とみんなに頭を下げた。長屋のみんなは、そんな彼を暖かく受け入れてくれていた。


「ライスカレー、初めて食べるんだよ」

「あたしもだよ」

 カレーの皿を前に、みんな興味深そうに話し合っていた。ほかほかのカレーには、ゆで卵を乱切りしたものを散らしている。これは、この時代の本に書いてあったのを真似た。

「刺激的な香りがするけど、味はどうかな?」

 高藤さんがスプーンですくったカレーを口に入れると、みんなが感想を待つようにじっと見守っている。

「ほう、こりゃ美味い! 尖った香りより、ずいぶん食べやすい味だ。シチューとは違った、ほんのり異国的な刺激的な味がする。これは、辛くも出来るのかい?」

「はい、辛くも出来ますよ。でも、子供達も食べやすいように、今回は甘めに作りました。次は、少し辛いのも作りますね」

 高藤さんの言葉にそう返事をすると、みんなも食べだした。

「美味しいね、すごくお腹がすく香り! 食べたことがない、不思議な味がする」

 清が、少しびっくりした顔になりながらそう言った。確かにカレーに入っているスパイスは、この時代の人にはまだまだ馴染みがない味なのかもしれない。

「洋風丼だね」

 わかの言葉に、みんなが笑った。みんな「美味しい、美味しい」と言ってくれて、男性陣はお代わりもしてくれた。


「――すごいな。みんな、嬉しそうだ」

 勝平さんが、そんな様子を見てなんだか驚いているみたいだった。

「美味しいご飯には、そんな力があるんだよ。勝平さんが炊いてくれたご飯が、美味しいのもあるんだよ」

 俺はそう言って笑うと、俺たちの分の用意をし始めた。しのがそれに気が付いて、手伝ってくれる。

「勝平さんは、ライスカレー食べたことある?」

「いや……洋食なんて、食ったことがない」

 しのの言葉に、勝平さんは首を横に振った。

「なら、初めての洋食は仲間で一緒に食べようか」

「いいね! かっちゃん、お代わりちゃんとあるからね!」

 りんさんがそう言うと、勝平さんは穏やかな顔になった。

「おっかさんが――そう呼んでくれてた。うん、一緒に食べよう」

 長屋のみんなの食器を下げてから、俺たちはカレーを一緒に食べた。勝平さんは「美味い」と、三杯食べてしのとりんさんを驚かせていた。


 新しく俺たちの食堂を手伝ってくれることになった勝平さん。畑の世話も心配していた俺には、強力な助っ人になってくれるに違いない!

 明治時代のライスカレーは、素朴でどこか懐かしい家庭の味がした。


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