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第32話 堕ちた神様

 部屋から漂ってくる霊気は、『聖なる気』と『邪悪な気』が混じり合っていた。普通の霊を感じる人ならば、がいると思うだろう。しかし、それ以上の能力があるものならば分かる――一体の霊に、その二つが絡んみ合っていることが。


「澄玲ちゃん。お祖母ちゃんと環琉くんの手は、絶対に離さないようにね?」

 そう言った昴は澄玲が頷くのを確認してから、前に歩み出て音楽室のドアを開いた――途端、高い霊力の波動が波のように四人に襲い掛かって来た。


「強い霊気だ。人間では出せないものだね」

 四人を守るようなキラキラと光る壁が、環琉から溢れてきた。環琉はのんびりと感心したようにそう呟いて、澄玲はそのキラキラとした光が環琉の瞳のように見えて自然と笑みを浮かべていた。


『澄玲を、連れてきたのか? 私に、澄玲を渡すのか?』

 音楽室の中には、狐の面をかぶったマリアらしき少女がいた。その隣に居たのは――確かに、かつては神の眷属けんぞくと呼ばれるはずの狐の霊だ。不思議な事に、口にくわえた玉は微弱ながら輝いている。しかしその姿はどんよりとした邪気をまとっており、眷属には見えなかった。


「どうして、澄玲ちゃんを欲しがるんだ? それに――君は、自分の使命を忘れたのか? そんな姿を、宇迦之御魂大神うかのみたまのかみに見せる事が出来るのか?」

『だまれ!!』

 昴の言葉を聞いた途端、狐の霊が吠えた。音楽室の窓ガラスが、ビリビリと割れるような程揺れる。


『祠を壊され……人間から忘れられた私が、あのお方様の命を頂けるわけがない……ああ、悲しい……悲しい……』

 この狐はただの動物霊ではなく、やはり壊された祠の神使かみのつかいだったらしい。まだ神の使いだった頃の想いと堕ちてしまった想いで、『聖』と『悪』のが狐の体を支配しているようだ。


「澄玲ちゃんを自分の傍に置きたいから、トウジョウマコさんを解放したのか? 霊力がある子を自分の傍に置くのは、何の為だ?」

 昴がそう尋ねると、ずっと人形のように立っていたマリアがその昴に飛びついた。

『狐の神様をいじめないで! いじめないで!』

 マリアは昴に抱き着くようにぶら下がりながら、爪で彼をひっかきながらそう叫んでいる。昴がそのマリアを抑えようと、一瞬目を離した隙だ。


『渡せ! 澄玲を渡せ!!』

 黒狐が、環琉の作り出した壁に突進してきた。普通の霊なら即座に弾き飛ばされる強い壁だが、かつては神の使いでもあった力はそれに耐えた。壁を壊そうと、何度も体当たりしてくる。

「澄玲!」

 先代が、孫の体を抱き締めて守ろうとする。昴や環琉に及ばない彼女だが、『祓い屋の助手の一族』として幼少期から鍛えられた霊力は高い。


「本当は、まだ宇迦之御魂大神の使いでありたいんじゃないの? 闇に堕ちるのを、恐れているんじゃないの?」

 必死に壁に体当たりをしてくる黒狐に、環琉は動揺する様子を見せずに尋ねた。壁が壊されることがない、そう自信があるのだ。


『お前に、何が分かるという……』

 壁にぶつかることをやめて、黒狐が環琉に視線を向けた――だが、彼を真正面から見て少し驚いた顔を見せた。

『……お前は、何者だ……?』


、ただの祓い屋の助手ですよ」

 環琉は、無邪気に笑ってそう言った。

『澄玲ちゃん、澄玲ちゃんも手伝って!』

 まだ昴にしがみついているマリアが、叫ぶように澄玲の名前を呼んだ。その言葉に、祖母に抱かれたままの澄玲は一度大きく体を震わせた。昴は、無茶苦茶に自分を攻撃してくるマリアを抑えるだけで精一杯のようだ。人間が相手では、昴は無闇に強気に出られない。彼女を傷つけないように、抑えるだけで昴はそこから動けないようだ。


「ねえ、まだ宇迦之御魂大神を敬う気持ちがあるなら、教えてよ。どうして、この地に残って、霊力のある女の子をさらうの?」

 環琉は、澄玲の頭を優しく撫でてから自分の作った壁の外に出た。先代がその様子に息を飲んだが、声は出なかった。自分一人では、かつて神の使いだった狐を退治できるかは不安だった。だが、環琉なら昴と同じように――時には、の力を発揮することがある。環琉がそばに居るなら、大丈夫。と。


「君には、まだ救いの道があるかもしれない。君だって、『闇』に堕ちたくないだろう?」

 無防備な状態で自分のすぐ前に来た環琉を、黒狐は驚いた様子でじっと見ていた。


『私は――』

 黒狐の『邪気』が、少し弱くなった。音楽室を覆っていた『闇』が、少し薄くなったようだ。

『私は、眷属であり続けたかった……人間と神との使いであり続けたかった……だが……もう、仕方なかった……』

 先ほどまでの強い声音ではなく、黒狐は静かな声で小さく呟いて床に倒れた。

『狐の神様!』

 それを見たマリアが、昴から離れて慌てて黒狐に駆け寄った。

「澄玲!」

 するとそれを見ていた澄玲が、先代の腕の中から飛び出してマリアと同じように黒狐の元に駆け寄った。澄玲は、その姿を見た時から迷いの感情を抱いていたのだ。


 怖くない。怖くなくて――さみしそう。


 マリアが抱えるようにして抱く黒狐の背中を、澄玲がそっと優しく撫でると彼はため息のような安堵したような吐息を零した。


『あぁ……温かい……温かい。昔を思い出す……』


 黒狐の濁った瞳から、一粒の涙が浮かんで床に落ちた。


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