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ep.32 至近距離


 しばらく魔界にいたからだろうか。

 死界の空気が、とても軽く感じる。

 纏わりつく重さも、縛り付けるような不快感もない。


 死神は呼吸をしなくても問題ないため、魔界では極力抑えるようにしていた。

 しかし、自然と吸い込んだ息が、自分の居場所はここだと再確認させてくれるようで──。


「わざと止めなかったんですね」


 本をテーブルに置き、隣に視線を向ける。

 覗けば覗くほど落ちていきそうな漆黒に、得体の知れない感情が湧き上がった。


「止める必要がありませんからね」


「死界の王に、喧嘩を売ったと思われますよ」


 元から目を付けられていたとは言え、上司は現在の王ともそれなりに関係のある死神だ。

 いくら側近が仮の立場だとしても、咎められる原因にはなるだろう。


「おや。その方が、睦月には都合が良いのではありませんか?」


 思わぬ返しに目を瞬く。

 おうを玉座から引きずり降ろす。

 そんな目的を持つ私にとって、上司とあちら側の溝が深まるのは、むしろ利になることの方が多い。


「……いいの?」


 そんなこと言って。


 口から滑り落ちた問いかけは、今まで濁してきた関係を明らかにするものだ。

 始まりこそ最悪だったが、上司は私にとって、既にな存在になっている。


 いや、正確にはもっと前から。

 私が現世に生まれた瞬間から、とっくに特別だったのだろう。


 片方だけのピアスには、紅い宝石が揺れている。

 初めて目にした色も、宝石のような紅だった。

 そして、で目にした紅も──。


「答えを知っていながら聞くのは、相変わらずですね」


「……」


 なぜ、生まれたばかりの私の傍にいたのか。

 両親はどうして、死を悟っていたのか。

 幼い私から記憶を奪った理由は──何だったのか。


 聞きたいことは沢山あるのに、深い黒で塗り潰されていく。

 伸ばした手が髪に触れ、頬に当たる。

 閉じられた瞼を指先でなぞり、小さく息を吐き出した。


「……色は、戻らないんですか」


「アレが戻らない限りはこのままでしょうね」


 さらりと返された答えに、指を止める。


「でも、未来視自体は使えてましたよね。制限されているのが部分的なら、目も元に戻せないんですか?」


「能力とは、存在そのものに付随する力です。神性力の高い死神が、治癒力も高いように。重要なのは内側なんですよ。外側からだ自体は、いくらでも修復が可能ですからね」


 つまり、能力の一部を渡すことは、存在の一部を渡すことと同義であり。

 存在が欠けたことによって、元の状態いろに戻せなくなっている──という意味だろう。


「なら、今はどうなってるんですか?」


 ふと気になり、指を離す。

 同時に、手を掴まれた。


「他の能力を代用しているんですよ」


「他の……能力」


 覗いた漆黒と目が合う。

 引かれた手にバランスを崩し、上司の身体に倒れ込んだ。

 鼻と鼻が触れそうな距離に、思わず硬直する。


「当ててみます?」


 楽しげに問いかけられるも、正直それどころではない。

 顔面攻撃には以前よりも耐性が付いてきていたが、流石にこれは無理だ。

 近すぎる。


 徐々に視線を逸らすと、やれやれと言わんばかりの様子で、上司が身体を起こした。


「若いですねぇ」


「実際、若いですからね」


 ジト目で睨むも、上司は全く気に留めていない。

 誠に遺憾である。

 私を軽々と立たせ、椅子に座らせた上司は、何故かそのまま対面に移動してきた。


「魔界はどうでしたか?」


「あまり長居したいと思える場所ではなかったです。ただ、そこそこ楽しめました」


 レインの周りには、面白い悪魔が多かった。

 色々と波乱もあったが、全てが悪かった訳ではない。


「そうですか」


 私の返事を聞いて、上司がゆるりと目を細める。


「心配しました?」


 多分、意趣返しにもならないだろう。

 流されるか、呆れられるか。

 それとも、揶揄われるかだ。

 まあ、どれが来ても予想の範囲内ではある。


「いいえ、全く」


 どれも違った。


 これでも部下なのだから、少しくらい心配してくれてもいいのでは?

 なんて気持ちが湧いてきて、唇を軽く引き結ぶ。


 私の感情を知ってか知らずか、上司はゆったりと手を組み替えた。


「必ず戻ってくると思ってましたから」


「……それも、未来視で分かってたんですか?」


「いいえ。勝手な確信ですよ」


 ──本当にずるい。

 沈黙する私をよそに、上司はテーブルに積んでいた本を手に取ると、ページを捲り始めた。


「私が読もうと持ってきた本です」


「おや、他にもまだ残っていますよ」


 テーブルの上には、未読の本がいくつか残っている。

 抜け目がなさすぎて、諦めの方が勝った。

 螺旋階段のような本棚を見上げ、そっと息をつく。


 果てしなく並んだ知識の塊には、興味が尽きないけれど。

 目の前で流れる癖一つない髪を見ていると、うずうずした関心が増していく。


 椅子から立ち上がり、上司の背後に回った。

 気づいていながら何も言わないということは、許しを得たも同然である。


 月のない夜のように、真っ暗で美しい髪を結えながら。

 思う存分満喫した私は、出来上がった傑作を見て、満足感に微笑んだ。



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