しばらく魔界にいたからだろうか。
死界の空気が、とても軽く感じる。
纏わりつく重さも、縛り付けるような不快感もない。
死神は呼吸をしなくても問題ないため、魔界では極力抑えるようにしていた。
しかし、自然と吸い込んだ息が、自分の居場所はここだと再確認させてくれるようで──。
「わざと止めなかったんですね」
本をテーブルに置き、隣に視線を向ける。
覗けば覗くほど落ちていきそうな漆黒に、得体の知れない感情が湧き上がった。
「止める必要がありませんからね」
「死界の王に、喧嘩を売ったと思われますよ」
元から目を付けられていたとは言え、上司は現在の王ともそれなりに関係のある死神だ。
いくら側近が仮の立場だとしても、咎められる原因にはなるだろう。
「おや。その方が、睦月には都合が良いのではありませんか?」
思わぬ返しに目を瞬く。
そんな目的を持つ私にとって、上司とあちら側の溝が深まるのは、むしろ利になることの方が多い。
「……いいの?」
そんなこと言って。
口から滑り落ちた問いかけは、今まで濁してきた関係を明らかにするものだ。
始まりこそ最悪だったが、上司は私にとって、既に
いや、正確にはもっと前から。
私が現世に生まれた瞬間から、とっくに特別だったのだろう。
片方だけのピアスには、紅い宝石が揺れている。
初めて目にした色も、宝石のような紅だった。
そして、
「答えを知っていながら聞くのは、相変わらずですね」
「……」
なぜ、生まれたばかりの私の傍にいたのか。
両親はどうして、死を悟っていたのか。
幼い私から記憶を奪った理由は──何だったのか。
聞きたいことは沢山あるのに、深い黒で塗り潰されていく。
伸ばした手が髪に触れ、頬に当たる。
閉じられた瞼を指先でなぞり、小さく息を吐き出した。
「……色は、戻らないんですか」
「アレが戻らない限りはこのままでしょうね」
さらりと返された答えに、指を止める。
「でも、未来視自体は使えてましたよね。制限されているのが部分的なら、目も元に戻せないんですか?」
「能力とは、存在そのものに付随する力です。神性力の高い死神が、治癒力も高いように。重要なのは内側なんですよ。
つまり、能力の一部を渡すことは、存在の一部を渡すことと同義であり。
存在が欠けたことによって、元の
「なら、今はどうなってるんですか?」
ふと気になり、指を離す。
同時に、手を掴まれた。
「他の能力を代用しているんですよ」
「他の……能力」
覗いた漆黒と目が合う。
引かれた手にバランスを崩し、上司の身体に倒れ込んだ。
鼻と鼻が触れそうな距離に、思わず硬直する。
「当ててみます?」
楽しげに問いかけられるも、正直それどころではない。
顔面攻撃には以前よりも耐性が付いてきていたが、流石にこれは無理だ。
近すぎる。
徐々に視線を逸らすと、やれやれと言わんばかりの様子で、上司が身体を起こした。
「若いですねぇ」
「実際、若いですからね」
ジト目で睨むも、上司は全く気に留めていない。
誠に遺憾である。
私を軽々と立たせ、椅子に座らせた上司は、何故かそのまま対面に移動してきた。
「魔界はどうでしたか?」
「あまり長居したいと思える場所ではなかったです。ただ、そこそこ楽しめました」
レインの周りには、面白い悪魔が多かった。
色々と波乱もあったが、全てが悪かった訳ではない。
「そうですか」
私の返事を聞いて、上司がゆるりと目を細める。
「心配しました?」
多分、意趣返しにもならないだろう。
流されるか、呆れられるか。
それとも、揶揄われるかだ。
まあ、どれが来ても予想の範囲内ではある。
「いいえ、全く」
どれも違った。
これでも部下なのだから、少しくらい心配してくれてもいいのでは?
なんて気持ちが湧いてきて、唇を軽く引き結ぶ。
私の感情を知ってか知らずか、上司はゆったりと手を組み替えた。
「必ず戻ってくると思ってましたから」
「……それも、未来視で分かってたんですか?」
「いいえ。勝手な確信ですよ」
──本当にずるい。
沈黙する私をよそに、上司はテーブルに積んでいた本を手に取ると、ページを捲り始めた。
「私が読もうと持ってきた本です」
「おや、他にもまだ残っていますよ」
テーブルの上には、未読の本がいくつか残っている。
抜け目がなさすぎて、諦めの方が勝った。
螺旋階段のような本棚を見上げ、そっと息をつく。
果てしなく並んだ知識の塊には、興味が尽きないけれど。
目の前で流れる癖一つない髪を見ていると、うずうずした関心が増していく。
椅子から立ち上がり、上司の背後に回った。
気づいていながら何も言わないということは、許しを得たも同然である。
月のない夜のように、真っ暗で美しい髪を結えながら。
思う存分満喫した私は、出来上がった傑作を見て、満足感に微笑んだ。