魔王城の最上階からは、魔界が一望できるようになっている。
透過度は自由に変えられるようで、睦月が足を踏み入れると同時に、部屋の壁が黒く閉じていく。
まるで牢獄のように強固だが、中の造りは荘厳だ。
玉座に腰掛けた魔王を、睦月は立ったまま見返した。
「神性力と魔力は相性が悪い。大罪を継げるのは悪魔だけだが、位のみなら与えることはできる。とは言え、そもそも君は受け取る気がないようだからな」
「大罪も位も必要ありません。私がここに来たのは、死界に戻るためです」
「勿論知っているさ。君は魔界を出るため、俺の許可を必要としている」
魔王の片目に、妖しい光が宿った。
「それで、君は俺に何を差し出すつもりだ?」
「あなたが見たがっていた光景を」
間髪を入れず返ってきた答えに、魔王がくつくつと笑みを溢す。
顔に当てた手の隙間から、堪えきれない愉悦が滲んでいる。
今代の魔王には、焦がれて止まない存在がいた。
かつて、七代前の魔王が死界の王の不興を買った際、魔界は壊滅的な打撃を受けることとなった。
宝月の前に手も足も出ず、魔王は側近共々塵一つ残らず消されてしまったのだ。
魔界の損失は計り知れないものだと囁かれる中、まだ幼い悪魔は偶然、死界の王を目にする機会を得た。
化け物じみた存在である宝月。
そんな宝月を纏める神は、いったいどんな姿をしているのか。
あの日のことは、忘れもしない。
死と終わりを司る神の姿に、幼い悪魔は一瞬で虜になった。
底知れない無と、神秘的な容貌。
長い髪は美しく飾られ、ちらりと覗く白い肌は、恐ろしいほど夜に映えていた。
三界での規則を決めるため、数十年に一度、王たちが集う時期がある。
魔王になれば、再び彼女とも会えるはず。
そう考えた幼い悪魔は、やがて魔界で最も強い悪魔となった。
「宝月から聞いたのか。殊勝なことだな」
この短時間で、魔王は睦月の持つ情報が、月によってもたらされた物だと確信している。
「私を欲しがったのは、死界の王が復活するために必要な
「そうだ。そこまで知っているなら話が早い」
魔王にとっても、死界の王は唯一だった。
今の王を好まない魔王にとって、睦月の提案は利害が一致している。
ただし、魔王が望んでいるのはあくまで以前の王だ。
新しい王を望んでいる訳ではない。
「俺の見たい光景を対価にすると言ったな。もしその選択が──君の
何も答えない睦月に、魔王が笑みを深める。
「君は俺の答えを半々だと思っているようだが、それは違う。俺は選択を間違えない。そして、自分の選択が間違っていると思ったこともない」
迷いは露ほどもなく、自らの決断において絶対的な自信を持っている。
魔王にとって選択とは、常に利になる道を選び続けることだ。
「いいだろう。君を魔界から出してやる。その代わり、なるべく早く見せてくれ。最近の魔界は、退屈で仕方がないからな」
「契約は要求しないんですか?」
「必要ないさ。君は約束を破らない」
話は終わったとばかりに、魔王が肘をつく。
真意が読み取れない悪魔だが、睦月は迷うことなく踵を返した。
阻害されていた感覚が解ける。
◆ ◆ ◆ ◇
魔王に謁見するため、レインは扉の前で足を止めた。
今にも吐きそうな様子のレインは、一人でに開いていく扉を見て覚悟を決めたらしい。
「ご苦労だったな」
「とんでもございません。魔王様のお呼びとあらば、いつでも伺わせていただきます」
紳士の皮を貼り付けたレインは、先ほどまでの緊張を綺麗に隠している。
そんなレインを見下ろしながら、魔王は優雅に足を組み替えた。
「グォーラのところへ行ったと聞いた。自ら取引に向かうとは、上手くやったものだな」
「使い魔を壊してしまいましたので」
正確に言えば、破壊したのは睦月の方だ。
しかし、レインが睦月と協力関係にあったのは事実である。
暗黒将の不興を買った以上、このまま領地に戻るわけにもいかない。
それ故レインは、プーパたちと共にグォーラの元へ向かった。
「おまえの使い魔はいいのか? 魔界でも珍しい存在だ。差し出す対価としては、過分な気もするがな」
「あくまで魔力だけです。どちらの姿でも、大した違いはありません」
「大した違いはない、か」
くつくつと笑い始める魔王に対し、レインの表情は変わらない。
グォーラの怒りを収めるため、レインは破壊した使い魔以上の価値を提示した。
常に空腹なグォーラにとって、魔力は貴重な食糧である。
だからこそレインは、使い魔よりも純度が高く。
プーパの上質で莫大な魔力を差し出すことで、グォーラを納得させたのである。
広い室内には、静寂と緊張が漂っている。
僅かに視線を彷徨わせたレインに気づき、魔王は口の端を持ち上げた。
「あの死神ならもういない。既に死界へ帰ったからな」
「……そうですか」
「安心したか?」
質問ではなく、確かめるような声だった。
沈黙するレインを、魔王が指先で呼び寄せる。
緊張を押し込め、レインは玉座との距離を詰めた。
「おまえ宛の伝言を預かっている」
「……はい?」
意外な言葉に、レインが戸惑った様子を見せる。
「なりたいなら、なればいい。おまえの大切な存在のためにも。だそうだ」
──暗黒将になりたいとは思わないの?
魔王城に来た時、睦月はレインにそう聞いた。
部下を大切に思うレインだからこそ、位は防御にも繋がる。
魔王が次に話すであろう言葉を察し、レインは思わず顔を上げた。
「レイン。嫉妬の大罪を受け継ぎ、暗黒将になれ」
──やられた。
レインの脳裏に、憎らしい無表情が浮かぶ。
魔王の命令は絶対だ。
断るという選択肢は、端から用意されていない。
「どうした。俺を待たせる気か?」
「……いいえ」
思いの外はっきりした声で答えたレインを、魔王は興味深げに見下ろした。
「拝命します」
「そうか。新しい名が決まったら、またここに来い」
深く礼を取り、レインが立ち上がる。
──退屈な魔界にも、少しは彩りが増えたらしい。
果たして新たな将は、大罪を使いこなせるのか否か。
例の死神の置き土産に、魔王はひっそりと笑みを浮かべた。