黒い髪と、赤紫の瞳。
右目に眼帯をつけた男が、奥から歩み出てくる。
圧倒的な魔力も、威圧的な雰囲気も感じられない。
ただ、異様な空気を纏った悪魔だった。
「そうだな。おまえたちにその権利はない」
魔王と呼ばれた悪魔は、真っ直ぐ睦月の方を見ている。
「君が決めるといい。この試合の勝者は、間違いなく君だ」
近づく度に分かる。
目の前の悪魔は、他と一線を画すと。
そこに居るだけで、暗黒将さえ気圧す存在。
無とは時に、何より怖いものであったと思い知らされるようだ。
「これ以上戦うつもりはありません」
──勝敗はついた。
無益な争いをする必要はない。
「そうか。それなら、位についての話をしよう。本来であれば、
インヴィーの名は、大罪に因んで付けられたものだ。
暗黒将でなくなった悪魔が、将としての名を持つことは許されない。
魔王が、睦月に向けて手を差し出す。
周囲で息を呑む音が鳴った。
悪魔はおろか、大概の存在を下に見ているような王だ。
そんな魔王が自ら手を差し出す光景は、他の悪魔に衝撃を与えるには充分すぎるものだった。
「ここで話すのも野暮だ。場所を移そうか」
黙って見返していた睦月だが、魔王の手を取る様子はない。
心底おかしそうに唇を歪めた魔王は、空いたままの手を引くと、そのまま奥に向かって進んでいく。
魔王の後に続く睦月だったが、不意に途中で足を止めた。
「これで全部ちゃらだね」
睦月の手に現れた誓約書が、真っ黒に染まっていく。
砂のように崩れた誓約書は、風に吹かれ跡形も無く消え去っていった。
交差した視線が解ける。
睦月の姿が見えなくなったことで、レインはおもむろに口を開いた。
「よく言うよ。散々扱き使いやがって」
「良いじゃねぇか。これで誓約書はなくなったんだしよ」
目の上のたんこぶが消えたというのに、レインはまだ不満げな顔をしている。
「何が良いじゃねぇかだ。そもそも、お前もあいつも勝手なことばかり──」
「おい、待てよ」
城を去ろうとするインヴィーを、アヴァリーが呼び止めた。
「悪ぃな。また後で聞くからよ」
「勝手にしろ」
暗黒将ではなくなったため、領地へ帰るのだろう。
敗者の行く末は厳しい。
それを知っているからこそ、レインは何も言わなかった。
佇むレインの近くに、プーパが降りてくる。
不安げな様子のプーパは、どう接したらいいか分からず戸惑っているようだ。
「でかくなったな」
しょんぼりと項垂れるプーパの頭に、レインの手が乗せられる。
「お前が僕の好みに合わせて、小さい姿を選んでいたのは分かってる。たとえこのままでも、追い出したりしないから安心しろ」
撫でられる心地よさに、プーパの瞼が閉じていく。
しばらくレインの手に浸っていたプーパだが、目を開けると首を横に振った。
「……そうか」
ぽつりと溢れた声は、ぬるま湯のように柔らかい。
傍で見守るビベレが大号泣する中、レインはプーパにとある場所へ向かうよう告げた。
ビベレを掴むと、プーパの背に跨がる。
一瞬、睦月がいた先を振り返ったレインだが、翼を広げたプーパに連れられ、その場から飛び立っていった。
◆ ◆ ◇ ◇
「今更なんのつもり?」
背後にアヴァリーの気配を感じ、インヴィーは足を止めた。
「私の気持ちを知っていながら、少しも応えるつもりがなかったじゃない。いくらあなたの大罪が『強欲』でも、私を救う理由にはならないはずよ」
「んー、まあちっと気になってな」
同じ将だから、他よりは傍にいられた。
でも、それだけだ。
結局アヴァリーの
「どうして負けを認めた? お前の本気は、あんなもんじゃなかっただろ」
「どうして……ね。初めから、おかしいとは思ってたの。あの死神は、私を見ているようで見ていなかった。足場を崩壊させた時、私の使い魔が一匹残らず消えたのを感じて確信したわ」
睦月が警戒していたのは、目の前にいるインヴィーではない。
その先にいる──魔王の方だ。
空間能力という規格外の手札がありながら、睦月はその手札をなかなか切ってこようとしなかった。
魔界にいる影響で、上手く扱えないのだろう。
そんなインヴィーの考えは、大きな間違いだったのだ。
「あの死神が何をしていたか、あなたも気づいたはずよ。私と戦いながら、創り出した空間に使い魔を閉じ込めてたの」
落下先に現れた空間は、使い魔の檻へと変わる。
捧げ物にでもするつもりなのだろうか。
睦月はインヴィーの使い魔を、あえて
「あの死神は、他に能力を割きながら、私の鎖を難なく避けてみせた。挙げ句の果てに、陣を一度に破壊されたわ。あれだけの数を、それも内側から」
割いていた能力が不要になったことで、インヴィーの攻撃のみに集中できたのだろう。
気づいた時には、インヴィーの身体は円盤の上に横たわっていた。
「たとえ本気を出せたとしても、間違いなく負けていたでしょうね」
──そのくらい、あの死神はおかしかった。
睦月という存在自体に、何かとてつもない秘密が隠されているようで。
死界の王が、まだ幼い死神を過剰に警戒する理由。
その理由の片鱗を、インヴィーは目にしたのだ。
「領地に戻ってからはどうすんだ?」
悪魔は敗者に厳しい。
たとえ爵位はそのままでも、周りはインヴィーを負け犬だと嘲笑うだろう。
アヴァリーの問いかけは、心配や気遣いからくるものではない。
インヴィーの行く末を、見定めようとするものだ。
「大罪を失ったことで、一つはっきりした事があるわ」
視線で続きを促すアヴァリーに、インヴィーが微笑む。
「魔界の男は、大体クソってことよ」
予想外の言葉に、アヴァリーが目を瞬く。
次いで、盛大に笑い始めた。
「あー、おもしれぇ。んで、さっきの答えは決まったか?」
領地に戻ってからどうするのか。
真意を探ろうとするアヴァリーを、インヴィーは真っ直ぐ見返した。
「もう嫉妬はいらないわ。他の大罪に比べて面倒だもの」
恐らくアヴァリーは、この先の未来も予想している。
きっかけは睦月かもしれない。
それでも、選んだのはアヴァリーの方だ。
「そうは言っても、私に見る目がなかったのも事実よ。だからもう一度やり直すつもり」
インヴィーは、アヴァリーを追いかけたことで暗黒将の座を手にした。
それなら今度は──。
「次はあなたの大罪をいただくわ。覚悟しておくことね、アヴァリー」
「そりゃいいな。楽しみにしてるぜ」
アヴァリーを、強欲の座から引きずり降ろす。
そう宣言したインヴィーは、城に背を向け去っていった。
「面白れぇことが増えたな」
のろまは嫌いだ。
けれど、たまには待ってみるのも悪くないかもしれない。
上機嫌で呟いたアヴァリーの姿は、城の中へと溶け込んでいった。