インヴィーの剣を弾き距離を取った睦月だが、毒に侵された腕は徐々に皮膚が壊死している。
その下の肉まで腐れば、胴体から腕がおさらばするのは時間の問題だろう。
使い魔の鉤爪に囲われ、プーパの意識が戻ったか知ることはできない。
しかし、たとえ把握できたところで、この状況を打開できるかは別の問題だった。
インヴィーが示した選択は、プーパと共に全てを失うか。
それとも、睦月一人で全てを失うかだ。
小さなプーパは、使い魔が力を込めれば簡単に潰れてしまうだろう。
毒が侵食していく腕を見下ろし、睦月はインヴィーへと口を開いた。
◆ ◆ ◆ ◆
魔界において、最も尊いのは悪魔だ。
その中でも貴族は、群を抜いて特別だった。
魔獣として生まれれば、まず悪魔になることから目指さなければならない。
初めから悪魔として始められる存在とは違い、魔獣は魔界の最下層に位置している。
悪魔の一種とはいえ、使い魔にも見下されるような底辺。
それが魔獣だった。
それでも唯一幸運なことは、生まれたばかりの悪魔が赤子のように弱いのに対し、魔獣は生まれた時からある程度自立した行動が可能だったことだ。
見つけた悪魔を手当たり次第取り込み、自らも悪魔へと昇華していく。
本能にも近い意志とでも言えばいいのか。
魔獣は完全な悪魔になるため、常に目を光らせていた。
悪魔と魔獣の間に、絶対的な格差がある世界。
しかしそんな魔界にも、極稀に生まれる特異な存在がいた。
「半端者」
「未熟な悪魔」
「悪魔でも魔獣でもない、異質な存在」
噂話のように小さかった声は、どんどん大きさを増していく。
不快な気持ちが湧き上がり、プーパはぱっちりと目を開けた。
「は! ここはいったいどこです?」
睦月がいないことに気づき慌てるも、全身を覆われた状態では、周りの光景を覗くことすらできない。
鉤爪の隙間に顔を当てたプーパは、上空でぶつかり合う音と、楽しそうに話すインヴィーの声を耳にした。
圧倒的優位を疑わず、プーパと引き換えに敗北を認めるよう迫っている。
そんな状況を知り、猛烈な怒りが込み上げてきた。
インヴィーもだが、それ以上に、プーパ自身への苛つきを抑えきれずにいる。
「なぜすぐにことわらないのです!」
そう口にしてから、プーパは主であるレインのことを思い出した。
プーパたちのために、無理をしてまで条件を呑んだレイン。
レインを扱き使う嫌な死神だとばかり思っていたが、それでも、プーパに触れる手はどこか優しかった。
まるで……あの日プーパを拾った、レインの温もりのように──。
◆ ◆ ◆ ◇
「形勢逆転ってか。どうするよレイン。お前の部下が負担になってんぞ」
観覧席で試合を見守っていたアヴァリーは、隣に座るレインに声をかけた。
プーパのせいで睦月が苦戦しているとでも言いたげなアヴァリーに、ビベレが身を乗り出す。
しかし、何かを言う前にビベレを制したレインは、目の前の光景から視線を逸らすことなく沈黙を破った。
「プーパがあの程度の魔獣に負けるわけがない」
「魔獣ったって、インヴィーの使い魔だぞ。それもかなり上位のな。貴族の使い魔になりゃ、そこらの悪魔よりも力を持てるのは常識だ。だがな、単純な強さは元の素質が備わってこそだぜ」
可愛いに重きを置くレインとは異なり、インヴィーの使い魔は戦闘力を重視して選ばれている。
そもそもの強さが、レインの使い魔とは違うのだ。
部下を大切にするレインであれば、相当取り乱しているはず。
そう思い声をかけてみたが、恐ろしいほど冷静なレインを目にして、アヴァリーは自然と口を閉じた。
楽しみだ。
揺らぐことのない信頼を向けられた使い魔が、どんな面白い光景を見せてくれるのか。
そして──。
「必ず勝つんだろ、嬢ちゃん」
音になることなく呟かれた言葉は、睦月と交わした約束を表している。
一見、危機的にも思える光景を眺めながら、アヴァリーは期待に満ちた笑みを浮かべた。
◆ ◆ ◇ ◇
プーパが生まれたのは、とある悪魔の領地だった。
より強い悪魔を生み出すため、交配を繰り返していた貴族。
その貴族の実験中に、プーパは生まれた。
悪魔でも魔獣でもない半端者。
小さく弱々しい形のプーパを、他の実験体は嘲笑った。
しかし、これまでの実験結果から、貴族はプーパが稀有な成功体だと予想したのだ。
実験体同士を戦わせる場面でも、プーパだけは除外された。
そして、
そんな日々が変わったのは、プーパよりも先に生まれた実験体が、突如変異したことにあった。
巨大で醜く、桁違いに強い。
完全体とも言える姿に成長した悪魔を見て、貴族は大層喜んだ。
他の実験体を喰らい、さらに強くなっていく完全体を見ながら、次はプーパかと待ち望まれる。
しかし、貴族の予想に反して、プーパの姿が変わることは一向になかった。
次第に、「半端者」「未熟な出来損ない」と言われることが増えていく。
早く成長しなければと焦るプーパの内面に反し、体は何一つ変化してくれない。
完全体の餌にする。
貴族がプーパを見捨てたのは、そう遠くない未来でのことだった。
実験場を取り囲む塀には、逃亡を防ぐため、高度な魔術が仕掛けてある。
たとえ飛び越えられたとしても、無事では済まないだろう。
貴族に連れられ、餌場に放り込まれたプーパは、目の前の完全体にただ震えることしかできなかった。
新しい実験体が興味津々で覗く中、鋭く巨大な牙が迫る。
ふと気がつくと、プーパは荒野にいた。
小さくぼろぼろな体は、ほんのちょっとの気力さえ残っておらず。
どこからか魔獣がやってきて、プーパを見つけた時──漠然と終わりを感じた。
しかし、魔獣はいつまで経ってもプーパを食べようとしない。
それどころか、何かを待っているようにも見える。
「お前か。僕の領地に突っ込んできた悪魔は」
近くで聞こえた声に、プーパは視線だけを動かした。
自分はまた、貴族の元にやってきてしまった。
その事実が、プーパから口を開く気力さえ奪っていく。
貴族は焼けた地面を見渡すと、何も言わないプーパに手を伸ばしてきた。
目を閉じたプーパを、荒い手が持ち上げる。
乱暴な掴み方だ。
それでも、プーパはこの手を一瞬で好きになった。
この手に抱えてもらえるなら、ずっと未熟なままでいいと。
そう、思った。
◆ ◇ ◇ ◇
魔力が膨れ上がる気配を感じ、インヴィーは足元を見下ろした。
甲高い鳴き声と共に、使い魔が鉤爪から何かを落とす。
ぬいぐるみのように小さな塊は、途中まで落下するも、不意に空中で動きを停止した。
ぬいぐるみの体が、音を立てて裂けていく。
ぶちぶちとちぎれた背中の隙間から、異様な何かが姿を現そうとしている。
まるで、蛹から蝶が羽化するように。
漆黒の翼が、城に影を落とした。
元のサイズからは考えられないほど巨大な魔獣は、インヴィーの使い魔に向けて咆哮を上げている。
大きく開いた口元に、エネルギーの塊が集まり始めた。
魔獣の前方に現れた魔法陣を見て、睦月が小さく笑みを浮かべる。
放たれた光線は、インヴィーの使い魔を一瞬で焼き払った。