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ep.4 馬鹿と鋏


 つかまれた腕はそのままに、時雨しぐれの方を見返す。

 お互い無言で見つめ合う中、先に口を開いたのは時雨の方だった。


「……しは、…ぃきか」


「え?」


 聞き取れず首をかしげると、時雨は一瞬言葉に詰まった後、もう一度絞り出すように言葉を発した。


「虫は……、平気か」


「虫? 苦手かどうかって意味なら、平気だけど」


 別に好きでもないし、嫌いでもない。

 あまり興味がないと言った方が正しいのかもしれないが、「平気か」と聞かれたら「平気だ」と答える以外にないだろう。


 私の返事を聞いた時雨は、「ちょっと来て」と言いながら腕を引いてくる。

 Ⅲ号室と書かれた部屋の前まで来ると、時雨は唐突に掴んでいた腕を離した。


「あんた、虫は平気だって言ったよな」


「うん。言ったね」


「だったら一つ、頼みがある」


 時雨はまるで、ドアの向こうに恐ろしい何かがひそんでいるかのような雰囲気を漂わせている。


「リビングに……ヤツが出たんだ。代わりに始末してきてくれ」


「ヤツ?」


「黒くてテカってる、アレだよ……!」


 なるほど理解した。

 つまり、「家の中にゴキブリが出たから代わりに退治してきて欲しい」と言うことなのだろう。


 会話だけ聞くと物騒ぶっそうだが、意味が分かると何だか可愛く思えてくる。

 まさか、時雨の苦手な物が虫だったなんて。


「退治するのは構わないけど、まだ部屋の中にいるんだよね? 昨日会ったばかりの私より、他の人に頼んだ方がいいんじゃないかな」


 一応プライベートな場所ではあるし、私も会ったばかりで個人的なスペースに入るのは気が引ける。

 そんな事は一切気にせず、いきなり不法侵入をかましてきた|死神もいたりするのだが。


「今アパートに居んの、あんたらだけだから」


「そうだったんだ」


 どうやら、他の住人は全て出払っていたらしい。

 後で律のところに行こうと思っていたが、日を改めた方が良さそうだ。


「それなら霜月は? もうすぐ手も空くと思うけど」


 霜月からは、あらかじめスケジュールの共有を受けている。

 そろそろ終わる時間なのは知っていたし、何より霜月の方が早く確実に仕留めてくれると思う。


「は? あいつに頼むとかマジでありえねぇ」


「どうして?」


「あんた、あいつがどんだけヤバいやつか知らないで組んでんの? どうりで一緒に住めるわけだわ」


 あざけるように話す時雨の姿に、だんだんと頭のしんが冷えていくのを感じた。


「一緒にいるって決めたのは私だから。それに、少なくとも霜月のことなら時雨よりは知ってると思うよ」


 言外げんがいに「余計なお世話だ」と話したつもりだったが、どうやら意図は伝わったらしい。

 時雨は顔をひそめると、「バカみてぇ」と吐き捨てている。


「バカに頼む必要もないだろうし、私は帰るね」


「おい、待てよ!」


 部屋に戻るためきびすを返した私を、時雨があせって呼び止めるのが聞こえた。


「引き留めても無駄だから諦めて」


 ぐっと言葉を飲み込む様子を見せた時雨は、うつむいてこぶしを握りしめている。


「……そうやって、みんなあいつの事ばっか……」


 いきなり降り始めた雨に、空を見上げた。

 何故か、アパートの中にまで雨が降っている。

 れていく髪や服をよそに、降ってくる雨を呆然ぼうぜんと見ているしかない。


 ──これは、時雨の能力?


 もしそうだとすれば、この状況は中々に危険だ。

 咄嗟とっさに時雨の方へ向かおうとした身体は、誰かの腕によって阻止そしされた。


 降っていた雨があられへと変わり、濡れた地面は一瞬で凍りついていく。

 予想しうる事態の中で、かなり悪い方へと傾いてしまったようだ。


 急速に下がっていく気温を感じながら、お腹に巻き付いた腕を見下ろす。


「どういうつもりだ。場合によっては……ただじゃ済まさない」


 霜月の声は淡々たんたんとしていて、どこか落ち着いているようにも聞こえる。

 けれどその声には、まぎれもなく凍りつくような怒りが込められていた。


 降り続く雨とあられ

 外出中の住民たちへ向けて、私は切実にヘルプの念を送りたくなった。



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