目の前に一匹の猫が座っている。
黒々とした毛並みと、月をはめ込んだような目がとても綺麗な猫だ。
猫は私と目が合うと、「にゃあ」と一つ鳴いて、何処かへ向かって歩いていく。
それがまるで、「ついて来て」と言っているようで、私はそのまま猫の後ろに続くように歩いて行った。
しばらく進んでいくと、ぽっかりひらけた空間へ出た。
周りにはいくつもの扉があったが、ほとんどの扉は
たまに理解できる文字が覗いたりするのだが、意味までは分からなかった。
不思議な心地で眺めていると、猫は一つの扉の前で立ち止まり、また「にゃあ」と一声鳴いた。
「ここを開けろってこと?」
扉の前に立つと、何故かカタカタと振動を始め、思わず伸ばしかけていた手を止める。
扉に文字が浮き上がり、はっきりと読む事ができた。
【お還り】
「おかえり……?」
この扉を開けると、どこかに帰れるのだろうか。
それにしては違和感を感じる扉だ。
なかなか扉を開けない私に
「ごめんごめん、今開けるから」
扉に手をかけながら、ふと思う。
私は前に、このやり取りを何度もしたことがある。
扉の前で開けてと鳴いては、足に頭を押しつけてきたあの子の姿。
真っ黒の毛並みがとても綺麗で、目はまるで満ちた月のようにキラキラと輝いていた。
──だから私は、あの子にこう名付けたんだ。
「満月……?」
振り返ると同時に扉が開き、向こう側へと引っ張り込まれるように落ちていく。
見上げた扉の先で、満月はこちらを見つめながら、「にゃあ」と可愛く鳴いてみせた。
◆ ◇ ◇ ◇
「満月っ!」
急速に浮上した意識と共に飛び起きる。
同時に、ゴンッと鈍い音が鳴り響き、おでこの辺りに痛みが走った。
「……いたい」
おでこに手を当てながら、視線だけを動かして確認する。
どうやら私は、カプセルのような形をしたものに入れられているらしい。
なぜ例えがカプセルなのかは、以前泊まったカプセルホテルが、これにそっくりの形状をしていたからとでも説明しておこう。
「あ〜、起きたんですね〜」
すぐ近くで間延びした声が聞こえた。
私を包んでいた上側の壁がどろりと溶け始め、だんだんと壁の先の光景が見えるようになっていく。
半カプセル状態になった場所から体を起こそうとすると、いつの間にか隣に立っていた少年が、「無理しちゃダメですよ〜」なんて言いながら手を貸してくれた。
「あの、どちらさまでしょうか」
私の問いかけに「そうでした〜」と呟いた少年は、こちらに向かってぺこりと頭を下げてくる。
「初めまして睦月さん〜。ボクは死神たちの治療を担当している、
紬と名乗った少年は、水色のふわふわした髪を揺らしながら微笑んでいる。
外見は霜月よりも歳下に思えるのだが、べったりと張り付いた濃い隈が、紬の容姿をアンバランスにしていた。
「死神の治療?」
「そうですよ〜。睦月さんは怪我をしていたので、ここに運ばれてきたんです〜」
そうだ、たしか悪魔にやられて──。
記憶が
「大変だったんですよ〜。とんでもない剣幕で飛び込んできたと思ったら〜、『今すぐ睦月を治療しろ!』って言われまして〜。そのまま連行されてきました〜」
「えっと、すみません。ご迷惑をおかけしたみたいで」
「いえいえ〜。死神が現世でここまでの怪我をするのは珍しいですからね〜。面白いものを見ることもできましたし〜、まあ結果オーライってことで〜」
こちらを見て意味あり気に笑う紬に首を傾げていたが、詳しいことを聞く前に、誰かが室内に入ってきた。
「紬、目が覚めたと聞きましたが」
「あ〜、美火ちゃん〜。待ってたよ〜」
「美火と言います。上司から貴女をお連れするよう言われてきました」
私の前で止まり、こちらを見ながらはっきりとした口調で話しかけてくる少女。
後頭部についている黒色の大きなリボンが印象的で、正面から見ると、リボンの出っ張っている部分が猫耳のように見えてくる。
思わずじっと眺めていると、美火は視線を逸らし、居心地悪そうに身じろぎした。
「
「かわ……っ」
近くで聞いていた紬が、「睦月さんが美火ちゃんを口説いてる〜」なんて言いながら、ほわほわした笑みを浮かべている。
うん、今すごく口説きたいかもしれない。