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ep.4 小さな坊や


 楽しそうに笑うクリスティーナは今、あの頃の夢を見ているのだろうか。


「わたしが気づいた時には隣にいて、じっとこちらを見つめていたのよ。まだ幼くて、見た目だけで言えば5、6歳くらいに思えたわ。周りに親らしき人が見当たらなくて、もしかして迷子なの?って聞いてみたの」


 クリスティーナが「あの子」と呼ぶのは、出会った相手が幼い子供だったからのようだ。

 日本に来てまで会いたかったあの子は、いったいどんな子なのだろう。


「そしたらあの子ってば、『僕は迷子になるような歳でもないよ』なんて言ったのよ。だから思わず、『小さいのにおませさんなのね』って返したの。あの子はなにか言おうとしていたけれど、結局は何も言わず、黙って隣に座ったわ」


 クリスティーナが語る「あの子」の話には、気になる部分も多い。


 相槌だけ返すと、そのまま続きに耳を傾ける。


「あの子はきっと頭が良かったのね。博識で、色んな事を知っていた。日本に滞在する残りの間、わたしはあの子と毎日のように川原で一緒に過ごしたわ。ただ、あの子は何故か、名前だけは決して教えてくれなかったの。だからわたしは、あの子をちっちゃな坊や。『ティニー坊や』って呼んでた。博識なあの子のことだから、タイニーって呼ぶとバレちゃうかと思って、わざと言い換えてみたんだけど。結局はバレて、ねさせてしまったわ」


 笑みを溢すクリスティーナの目が、少しずつ閉じてきていることに気づく。

 薬が効いてきたのだろう。

 ふわふわとした空気を漂わせるクリスティーナに近寄った。


「ティナさんは、その子のことが大好きだったんですね。何としても、もう一度会いたいと願うくらいに」


「ええ……そうね。その通りだわ。わたし、会いたかったのよ。イギリスへ帰る日の前日も、寂しくて涙が出るわたしを見て、ティニーは慌てていたわ。だから言ったの。明日イギリスへ帰る前に、もう一度ここで会えないかって」


「ティニーはなんて言ったんですか?」


「ティニーは……悩んでいたわ。でも、少しして顔を上げると、わたしに向かってはっきり言ったの。ここで、『この場所でもう一度会おう』って。そう言ってくれた」


 クリスティーナの話す速さが、ゆっくりとしたものに変わっていく。


 彼女の座っている椅子がキコキコと音を立て始め、まるで、少しずつ弛緩しかんしていく彼女の身体に呼応しているかのようだった。


「でも、ティニーはその日、来てくれなかった。ぎりぎりまで待っていたのだけど、ティニーと会えることはなかったわ。あんなに小さい子だもの。一人で出歩いていることがばれて、親に叱られたのかもしれない。色んな言い訳をしたけれど、わたしとっくに気づいてたのよ。ティニーが人とは違う存在だってことに」


 ティニーと会えなかったクリスティーナのつらさが、声から伝わってくる。


 もし、ティニーが本当に人とは違う存在だったんだとしたら、クリスティーナがティニー探す手段として、魔法の助けを借りたというのも理解できる気がした。


 わらにもすがる思いだったのだろう。


「もう一度だけでいい。あの子に会いたかった。でももう、それは無理な話ね。神さまがくれた時間はまだあったけれど、わたし自身がその時間を捨ててしまった。でもいいの、後悔はしてないわ。だって……あの子のことを忘れたわたしは、きっともうわたしじゃないから」


 数年前、とある病気がこの世界を襲った。


 「ロストメモリーシンドローム」と呼ばれた病気は、原因不明のやまいとして、今も時折世間を騒がせている。

 この病気に罹患りかんした者は、なぜか幸せな記憶ばかりが消えていくのだという。


 初めてこの病気が知られたのは、とある有名なピアニストが、アメリカで行われたコンサートの最中に突如発狂したことにあった。


 彼は以前からピアノに関する楽しい思い出や、ピアノを始めるきっかけになった記憶ばかりが少しずつ消えていることに気がつく。


 当然周りに訴えるも、その頃はまだ知られていない病気だったこともあり、結果的にストレスによる一時的な記憶障害と判断されてしまうのだ。


 周りは彼をサポートしようと全力を尽くしたが、彼はどんどんおかしくなっていくばかりで、このコンサートを終えたら本格的に休みを取り、復帰へ向けた治療をしようと相談されていたらしい。


 しかし彼は、そのコンサート以降もう二度とステージに立つことも、ピアノを弾くこともなかった。


 ステージの上で発狂した彼は、「ピアノなんてクソ喰らえだ!」と叫んだ後、取り押さえようとしたスタッフを振り切り道路へと飛び出すと、バスと衝突しそのまま帰らぬ人となってしまったのだ。


 その後もいくつか同じような事件が起こり、彼らに共通して起こった事を調べた結果、医師たちはこの「ロストメモリーシンドローム」を発表するに至ったのである。


 ロストメモリーシンドロームにかかった者は、幸福な出来事や、強く刻まれた思い出のような記憶から消えていく。


 なぜこんな本を書いているのか。

 なぜ好きでもない恋人と一緒にいるのか。

 なぜ自分たちの子だと実感できないのか。

 なぜ、なぜ、なぜ。


 自分を育ててきた出来事も、支えてきた感情も、全て思い出という名の記憶から消去されていく。

 安楽死を望む声が出るのは、もはや時間の問題だった。


 自分が自分であるうちに、死なせて欲しい。


 原因不明の病に、治療法が見つかっているわけもなく。

 この病気に罹患した者が安楽死を選ぶ権利が与えられるようになるまで、そう時間はかからなかった。


 その後、日本にもやってきたこの病は、安楽死が許されていない国として大いにめる出来事となったものの、国民の声にも推され、いくつかの病気などに限定して安楽死を認める判決に終わった。


 薬を服用してしばらくすると、徐々にやってくる眠気と共に意識を失い、そのまま二度と目覚めることはない。

 最近になって自宅など、患者が最後に過ごしたい場所で服用を許されることも増えてきた。


 明朝みょうちょうになれば、彼女の元へ病院から人が送られてくるはずだ。


 クリスティーナはもう目を開いていなかった。

 閉じたまぶたの裏で、彼女は今、何を見ているのだろうか。

 どうかその夢が、楽しいものであってほしい。


「むつきちゃん」


 クリスティーナの唇が名をかたどり、小さくもはっきりと私を呼ぶ声が聞こえた。


「はい」


「ありがとう。さいごに話せたのが、あなたでよかった……。ゆめのなかでも……ティニーにまたあえるなんて……。わたしはほんとうに……しあわせもの……ね……」


 その言葉を最後に、彼女は深い眠りへと旅立っていった。


 幸せ、だったのだろうか。

 もし私が同じ状況だったら、果たしてそう言えるだろうか。


 クリスティーナの息は虫のように小さい。

 このまま全ての器官が停止したら、魂を回収して終わりだ。


 話を終えたのだろう。

 いつのまにか霜月が、少し後ろからこちらを見守るように立っていた。


 クリスティーナを見つめ続ける私の横に並び、魂が離れるまで静かに時を過ごす。


「睦月、無理はしなくていい。今回は見てるだけでも大丈夫だから」


「ありがとう霜月。でも、私がやりたいんだ」


「分かった」


 霜月が一歩下がったのを確認し、死神之大鎌デスサイズを要求する。


 現れた鎌を手に取り、魂の回収へ入ろうとした、その時──。


「アレアレェ〜? おかしいナァ。なぁんで死神がここに居るんですかネェ?」



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