翌日、月曜日の夜。
蓮夜はロクロウと連れ立って、件の西叶叶駅を訪れた。
西叶叶駅は地下に駅がある。だが地下鉄と言うわけではなく、地上を走る電車が地下に潜っている所謂地下区間の駅だ。叶叶市には立地の関係上、地上を走るはずの電車がこうして地下に潜る場所が数多く存在している。西叶叶駅もその内の一つだった。
交差点に面した歩道上でぽっかりと口を開けている入り口から階段を下りて行けば、目の前に改札口が現れる。
地上とは違うせいか、はたまた夜間であるからなのか、構内の空気は地上より幾分かひんやりとしていた。
二十三時四分発の電車に乗るためにホームへ行ってみれば、さすが終電に近い時間帯と言うだけあって、人は数える程度しかいない。
塾帰りの学生、残業終わりのサラリーマンに、飲み会帰りの大学生……各々が皆スマホに目を落としながら、次に来る電車を待っていた。
「お前さんも持ってるが、その板はそんなに面白いのか」
「板?」
ホームの人間を観察していたロクロウが言う。
一瞬、何の事を言われているのかわからなかった。
きょとんとロクロウを見上げれば、「それのことだ」と彼が携帯電話を指さす。二つ折り携帯――所謂ガラパゴス携帯の時代を過ぎ、今となってはスマホという俗称で呼ばれるそれを、現代ではだいたいの人間が所持している。板のように薄いが、機能が昔の携帯電話とは比べ物にならない。
ゆえに生活の一部として欠かせない物であるが、ロクロウ達のように人ならざるモノからすれば、そんな板をじっと見ている光景は不可思議に映るのだろうか。
「面白いっていうか、色々便利な機能がついてるんだよ。僕も最近機種変更したから、今持ってるこれをまだ使いこなせてはいないんだけど……」
画面を付けて時間を浮かび上がらせる。ディスプレイが点灯して、デジタル時計が表示された。
時刻は二十三時三分……そろそろホームに電車が入ってくる。
「お前さん、頭弱そうだもんなぁ。覚えが悪いと言うかなんと言うか……」
「え? なんで僕、突然馬鹿にされてるの?」
スマホをしまいながら反論すれば、ロクロウが肩をすくめながら言う。
「能力を使いこなすために修行に付き合ってやっても、なかなか覚えられねぇじゃねぇか」
「な、そんなことは……!」
「あるだろ、見てみな」
くいっと顎でロクロウが示した方へ、つられて目を向ける。
トンネルの奥から眩い光が漏れ出してきて、やがて轟音と共にホームに電車が入って来た。
一拍遅れて、強い風が蓮夜の髪と服をなびかせる。
プシューとエアが抜けるような音がした後、扉が開く合図が鳴り響いた。
ホームで待っていた人々が、吸い込まれるように中に消えていく。
「……こいつを見ての、感想は?」
「感想?」
「何を感じたかって聞いてんだよ」
「何って……」
口を開けている車両を見遣る。先に乗り込んだ人々は、皆静かに着席していた。
暗い地下のホームを、車内から漏れ出す光が照らし出している。一見、普通の電車と変わったところは見受けられない。
「普通の電車に見えるんだけど……」
自信がなさそうに言えば、ロクロウが「ほらな」と肩をすくめた。
「その分だと、前に教えた
言われて、三月の半ばを思い出す。
人ならざるモノが見えるとはいえ、その能力には実は波がある。見えないわけではないが、
目の前の車両が本当に怪異なのだとしたら尚更だ。
蓮夜からすれば、目の前の電車は普通のそれに見えている。
「ま、相手も上手い事悟られねぇようにはしてるだろうからな」
コキリと首を鳴らしながら、ロクロウが歩き出す。
「物覚えが悪いお前さんがわからなくても仕方ないだろうぜ」
「あ、おい!」
先に電車内へと足を踏み入れたロクロウの後を追いかけて慌てて乗車すれば、すぐに合図が鳴り響いて背後で扉が閉まった。
ロクロウ、と呼びかけそうになって慌てて口を噤む。
彼は今実体化していないのだ。車内に数える程しか人間がいないとは言え、見えない以上は蓮夜の独り言になってしまう。変人扱いされて奇異の目で見られるのだけはご免だ。
「…………」
なるべく目立たないように、横並びのロングシートの一番隅に座る。通路を挟んで斜め前にサラリーマンの男性が座っているが、イヤホンをしてうたた寝をしている。この分なら小さな声で話すには問題ないだろうかと考えていると、ガタンと大きく車両が揺れて電車が発車した。
――この電車は、二十三時四分発、普通、広域公園前行きです。
アナウンスが、人気の少ない車内に響き渡った。
「この路線、地下鉄ってわけじゃねぇのに、ほぼ地下を通るんだってな」
蓮夜の右隣に腰掛けながら、スラックスを履いた長い脚を見せつけるように組んだ。
実体化している時ならば、組んだ足先が蓮夜の膝に激突するところだが、幸いにも霊体である彼の靴先は蓮夜の膝を綺麗にすり抜ける。
「うん、叶叶市は地上で入り組んでいる場所が多いし文化財とかも多いから、路線によっては地下区間が長いんだ。今乗ってるこの便は一番端の駅の
こそこそと小さめの声で、車内入り口付近に表示してある路線図を指さしてやる。
「だから逆に広域公園前駅から乗ったとしたら、その後ずっと地下を走って、終点になる神之本堂の三つ手前……えっと、あの路線図だと
路線の事を口に出して説明するのは意外と難しいなと思いつつ、視線を路線図から戻してロクロウを見遣れば、彼は腕組をしてジッと蓮夜を見ていた。
視線が交わって、何故か気まずい。
「……なんだよ、その顔」
「いやぁ? お前さんにご教授頂くのは新鮮だと思ってよ。そういう事はちゃんと覚えてんじゃねぇか」
口角を上げてニヤリと笑う。
「馬鹿にするなよ、叶叶市民にとっては常識なの」
同じように腕組みをして、少しだけ座席に沈み込むように体勢を崩してみせる。機嫌を損ねたぞとアピールしても、隣に座るこの悪霊には暖簾に腕押しだという事は重々承知しているが、反抗する姿勢だけは見せておきたいのだ。当てつけに。
そんなことを思いながら、前を見た。
車窓の外は暗い。
その暗さの中に、一定の間隔で設置された電灯の光が走る。
やがて数分もしないうちに電車は減速をはじめ、次の駅のホームに滑り込んだ。
乗り込んだ時と同じ側の扉が開く。
蓮夜の目の前の車窓には相変わらず地下の壁が広がり、そこには駅最寄りにある病院の広告が掲げられていた。電灯の薄明るい光が、ぼんやりと浮かびあがらせるそれを何気なしに眺めていると、再び発車の合図が鳴り響き扉が閉まる。
ガタン、と揺れた電車は、次の駅へとまた走り始めた。
そうして、二つ、三つと終点へ向けて駅を超えていく。
「……この分だと、今回じゃ終わりそうにねぇな」
ふと、ロクロウがぼそりと零した。
どういう意味だと言わんばかりに顔を見れば、じろりと持ち前の鋭い視線を向けられる。
「いくらお前さんがポンコツでもな、」
「おい」
「お前さんの隣には俺様がいるからな」
「……はぁ?」
何を当たり前の事実を言っているんだと思えば、その反感を察知したかのようにロクロウが続けた。
「戦において最後に勝ち残る奴ってのはな、馬鹿みたいに慎重な奴が多いんだ。徳川幕府を築いた徳川家康だってそうだ。あのじいさんは他の武将に比べて慎重だったんだろ」
「ちょっと待って……ロクロウの口から徳川家康の名前が出てくることに違和感しか覚えないんだけど……何の話なの? これ」
突如降って湧いた戦国武将の名前にもそうだが、まさかロクロウが歴史に精通しているなんて……近頃の霊というのはなんでも知っているのだろうか。情報網に恐怖すら覚える。
「何の話だぁ? お前さん、行間を読めよ」
「行間を読めとか、お前に言われたくないんだけど……」
「いいか? もう一度言うぞ。要するに戦いってのは慎重な奴が勝ちやすいんだ」
「それはさっき聞いたよ……つまりどういう事?」
周りを気にしながらコソコソと問えば、ロクロウがため息を吐いてから言った。
「単刀直入に言う。今回の事件の主犯は……俺様がいたら出て来ねぇだろうぜ」
恐らくな、とロクロウが足を組み替える。
ガタン、と電車が左右に大きく揺れた。
「え、なんで……?」
「どうやら思ったより臆病者みてぇだからな。臆病な奴は慎重だ。勝ち目がなさそうな喧嘩は絶対しねぇだろうぜ」
「……なら、」
どうすればいいんだ。
蓮夜がそう言おうとした時、あと数駅で終点だというアナウンスが流れた。
ガタンガタンと、無機質な音をさせたまま電車は地下を走っていく。
言葉を失って黙り込んだ蓮夜に、ロクロウが嫌に静かな口調で言った。
「さて……臆病な奴を引きずり出すには、どうするのがいいんだろうな?」
顔を上げてロクロウを見る。
身を乗り出す様にして蓮夜の顔を見る彼の表情は、どことなく愉快そうに歪んでいた。
「……ロクロウ、お前楽しんでるだろ。他人事だと思って」
「そう見えるなら、そうなんじゃねぇか」
「あのなぁ……」
「お前さんのその小さい脳みそをフル回転させて、作戦を立て直すことだな」
ククッと喉の奥で笑うロクロウに呆れて、言葉がどこかへ行ってしまう。
ふと、車内を見渡した。
乗っている人々のほとんどは、こちらを気にもしていない。皆それぞれ手元のスマホに視線を落とすか、もしくは目を閉じてうたた寝をしている。
もしも今、仮にこの人達を狙った怪異が誰かをどこかに連れ去ったとして、すぐに顔を上げてその異変に気が付く人はどのくらいいるのだろうか。
(ある意味……現代ならではの怪異なのかもしれないなぁ)
そんなことを思って、蓮夜は小さくため息を吐いた。