三月下旬のとある夕方。
窓から差し込むオレンジ色の光が、室内にいる人間の影を長く伸ばす。
時刻はそろそろ逢魔が時。春休み期間に突入したこの時期。校舎に、人は少ない。
軽音楽部の部室で深雪が片づけをしていると、後輩の女子生徒が片付けもせず、何やら部室の隅でひそひそと雑談をしていた。話している内容は聞き取れないが、別に興味もないので注意もしない。それよりもさっさと片づけを済ませて帰りたかった。
そこに、ガラリと扉が開く音が響く。雑談の声がピタリと止まる。
「あーら? 何あんた達、楽しそうにくっちゃべってさ」
入って来たのは、雑談をしていた女子生徒達と同学年の生徒。ただその横柄な態度からして、彼女達より日常におけるカーストが上だという事はハッキリ見て取れた。
彼女は雑談をしていた生徒達につかつかと歩みよる。すぐ近くで片付けをしている深雪に気がついても、挨拶の一つも寄越さない。
「いいよねぇ。楽器も下手、歌も下手、とりあえずなんかかっこよさそうだから軽音楽部入りました~みたいなお遊びちゃん達はさぁ? 私みたいに本気でプロ目指してる人間からすると邪魔で仕方ないんですけど? 部室は雑談部屋じゃないのよ?」
「でも、今日の活動はもう終わったし……少しくらいいいじゃん」
生徒の一人が反論すれば、彼女は大げさに肩をすくめてため息を吐く。
「はぁ~……やだやだ。雑談なら駅前のファミレスでも行ってやってくんない? この後私が自主練でここ使うんだから。どうせくっだらない話ばっかりしてるんでしょう?」
そんなやり取りを耳にしながら、深雪が荷物をまとめた鞄を持ち上げた――まさにその時。
「くだらなくないよ、私達、
「……は?」
あれの話。
その単語を聞いた途端、さっきまで威勢が良かった彼女の雰囲気が変わった。
偉そうに胸の前で組まれていた手が解け、ゆっくりと横に落ちる。
「……なんで、その話を」
「なんでって……ねぇ?」生徒達が顔を見合わせる。
「二月の終わりごろから噂になってるから。ほら、知らずに通ったり、触ったりしたら呪われちゃうって……おまけにいつどこに出没するかもわからないって」
「そうだよ、それについ一昨日だって私達の学年で――」
「――やめてよ‼」
それまで威勢の良かった彼女が、大声で叫んだ。
深雪がど驚いて振り返れば、彼女の顔は真っ青になり、まるで寒さを我慢するかのように両腕を抱えていた。
「あれの話を、しないで」
「え?」
「いいから‼ あんた達もとっとと消えてよ‼」
「でも……」
「…………ッ!」
いたたまれなくなったのか、彼女は踵を返すと乱暴に扉を閉めて部室から出て行った。
一気に静まり返った室内で、生徒達はお互いの顔を見合わせる。明らかに異常な様子を示した彼女の行動に、誰しも言葉を失っているようだった。
「…………」
あまりこの手の話には関わらない方が身のためだと、深雪はよく知っていた。
だが今の一連の流れを目の当たりにした今、黙っていられなかった。
「……ねぇ」
荷物をもう一度机に置いて、深雪は後輩達に呼びかける。
突然先輩が声をあげたもんだから、後輩達はびくりとして声を止めた。
深雪は一度ため息を吐くと、ゆっくりとした口調で続ける。
「もうすぐ暗くなるし、あんまりそういう話はしない方がいいわよ」
「あ、すみません。でも……」
何か言いたそうに後輩たちはお互いにの顔を見合わせた。
「でも、何?」
どことなく香った不穏な気配に、深雪が思わず追撃をする。
「吹き溜まり……何処にでも現れるって言うし、目に見えないっていうから尚更怖くて……」
「……吹き溜まり?」
なによそれと言わんばかりに復唱すれば、後輩が「えっと……」と少し言葉を選びながら続ける。
「
「でも目に見えないから、実際遭遇してもわからない。回避できないから厄介だって……」
「…………」
顔を見合わせる後輩を前に、深雪は言葉を失った。
数か月前……夏の出来事が頭に思い起こされる。あの時は百五十年に一度訪れるとされる
(まさか、また閻魔の目が?)
いや、そんなはずはないと深雪は一人で小さく首を振る。閻魔の目は確かにロクロウが道連れに地獄へ押し返し、封印したのだ。その証拠に、印をつけられていた妹の満春の背中にはもう何も残っていない。七獄の年も、閻魔の目も、確かに終焉している。
では、後輩達が話す吹き溜まりとは、何なのか――。
「それって、誰か実害を受けた人がいるんじゃないの?」
「え?」
だから噂になっているんでしょ、と言えば、後輩はきょとんとした顔をした。食いついてくると思っていなかったのか、話をふられたことに対して少しばかり嬉しそうな顔をする。
「あ、えっと。います」
「というか先輩、校内では割と有名ですよ、吹き溜まりの噂。もう何人も被害にあってて……私の幼馴染もそうだし、隣のクラスの子だって……」
尻すぼみになっていく声に、後輩達が抱えている不安が偽りではないと認識する。
とどのつまり、深雪の知らないところで何かの怪奇現象が始まっているのだ。
それはさっき逃げ出した彼女の様子を考えても、間違いないだろう。
夏から数か月、平穏な春が来るかと思っていたが、どうにも、そうは問屋が卸さないらしい。
「…………」
ふぅ、と小さくため息を吐く。
このことを、あの除けの血筋の男子は認識しているのだろうかとぼんやり考える。
深雪は扉から踵を返し、近くのテーブルに鞄を再び置くと、後輩達の方を向き直って窓の外で傾きつつある太陽を見ながら促した。
「知ってること、詳しく教えて?」