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第12話 シアンの決意

 声をかけてきたのは四十代くらいに見える落ち着いた雰囲気の中年男性で、シアンはどこかで見たことのある顔な気がして微かに首を傾げた。


(誰だろう? 一体どこで会ったんだっけ……)


「ドッツと申します。城の清掃係で、シアン様のお部屋の掃除を担当しております」

「ああ!」


 シアンは慌ててペコリと頭を下げた。確かに彼が身につけているのは使用人の制服で、来賓が着ている礼装とは明らかに違うことに、人間の洋服に疎いシアンでも流石に気がついた。


「これは失礼しました。いつもお部屋の掃除、ありがとうございます」


 微笑みながら差し出された手を取ろうとしたシアンだったが、手が触れる前にドッツはひょいっと肩をすくめて自らの手を引っ込めた。


「冗談ですよ。私のような身分の低い使用人と王太子妃殿下が踊るだなんて、それこそ皆の笑い者です」

「え、そうなんですか?」


 きょとんとしているシアンを、ドッツは優しい眼差しで見つめていた。


「よろしければ外のテラスにご案内しますよ。ここは少し居心地が悪いのではないですか?」

「あ……」


 確かにこのままここにいても、遠巻きに諸侯たちの好奇の目に晒されるだけだろう。


「そんな、いいんでしょうか?」

「大丈夫ですよ。ルイス陛下もアルベルト殿下も取り込み中ですし、だからと言って清掃員の私がシアン様を紹介して回るわけにもいきませんから」


 シアンはちらっとアルベルトを振り返った。人だかりの中で黒い礼服の男性と何やら話している様子の彼だったが、シアンがそちらを見た瞬間、バッチリ視線が合ってしまった。


(あ……)


 アルベルトの黒い瞳の中に心配しているような表情を読み取ったシアンは、すぐに視線を逸らしてドッツに向き直った。


「案内していただけますか?」

「もちろんです」


(殿下はお優しい方だから、僕が一人で手持ち無沙汰にしていたら気になってしょうがないだろう。それなら僕はここにいない方がいい。どこか別の、殿下の目の届かない所へ行くべきだ)



 ガラスの扉の向こうに広がるテラスはボールルームの延長のような作りになっていて、扉を全て開放すれば屋外まで会場を広げられる構造になっている。青白い満月に照らされた白塗りのテラスは肌寒く、外に出てきているのはシアンとドッツの二人だけであった。


(思ったより広い場所だな)


 ひやりと冷たい手すりにもたれかかって夜空を見上げていると、ドッツが後ろから声をかけてきた。


「やはり明るくてうるさい室内のダンスフロアより、こちらのステージの方があなたにはお似合いですよ」


 銀色の耳から髪の毛にかけて流れ落ちるように月光を浴びて、今のシアンはどことなく妖艶でミステリアスな雰囲気を漂わせている。しかし当の本人は他人を惑わす自身の魅力には全く気がついておらず、それよりずっと気になることがあってドッツの方に二、三歩歩み寄った。


「あなたにはあまり私たち獣人に対する差別や偏見がないように思えます」

「おや、そんなあからさまに偏見むき出しであなたに接した人間がいましたか?」

「いえ、そんなことはないんですけど、なんというかあなたには壁を感じないというか……我々のことをよく知ってくれているような、親しみやすさを感じます」


 建物の影になっている暗い部分に立ったドッツは、舞台を眺める観客のように月明かりに照らされたシアン見て微笑んだ。


「殿下はお若くていらっしゃるのでしょう?」

「今年二十八になります」

「私は四十四になるのですが、私が十代の頃は今ほど人間と獣人の関係は悪くはなかったので、ずっと行き来も盛んでした。実は私は猫の獣人国に行ったことがあります」


 ドッツはさっと手を伸ばして、夜の匂いがする神秘的なテラスを指し示した。


「彼らの舞踏会にも参加させてもらいました。月明かりの下で歌って踊る彼らの神秘的で美しい姿は今でも瞼の裏に焼きついています」


(なるほど、そういうことだったのか)


 シアンはしん、と静かなステージの上に軽く一歩踏み出した。そのままくるりと回って地面に膝をつき、すっと顎を上げて背中を反らしながら夜空を見上げる。まるで一匹の美しい銀色の猫のような姿に、ドッツが感嘆のため息を漏らした。


「何をしている」


 押し殺したような低くて威圧感のある声に、シアンはギクッとしてぱっと振り返った。まるで追っ手を振り切ってきたかのように軽く息を荒げたアルベルトが、険しい目つきでドッツを睨みつけている。


「で、殿下……?」

「これは失礼致しました。シアン殿下のダンスを一目拝見したく、お付き合いいただいておりまして」

「なぜわざわざ外に連れ出した? ダンスならダンスフロアでもできるだろう」

「猫の獣人のダンスはこのような月光の下でこそ最も美しく映えるのです」


 アルベルトがなおも詰め寄ろうとしたため、シアンは慌てて立ち上がると二人の間に割って入った。


「殿下! 勝手に外に出てきてしまい申し訳ありませんでした。彼は何も悪くありませんので……」


 シアンはドッツに向かって振り返り、ペコリと頭を下げた。ドッツはまだ何か言いたげではあったが、立場をわきまえた大人の対応で深々とお辞儀を返すと、踵を返してボールルームへと続くガラスの扉の向こうへ消えて行った。

 アルベルトと二人でポツンとその場に残されたシアンは、気まずい空気の中思い切って隣に立つアルベルトを見上げるように向かい合った。


「ご心配おかけして申し訳ありませんでした」


 曇りのない宝石のような目で見つめられて、アルベルトは後ろめたそうに視線をすっと逸らした。


「いや、私の方が悪かった。あなたの事を放っておいたから……」


 シアンも視線を落としてゆっくりと首を振った。


「それは違います。殿下のお役目は私のお守りではありません。来賓をもてなし、シャルロット様やカトンテール様との仲を深めることが殿下のお役目です」

「なぜあなたとの仲を深めることは私の役目に入っていないのだ?」

「それは……私は一度殿下と関係を既に持っておりますので……」


 そう言いながら赤面するシアンを見て、アルベルトは少し機嫌を直したように軽く口角を上げた。


「仲を深めるというのがそういう意味なら、私はあの二人との仲をこれ以上深めるつもりは無い」

「殿下!」

「シャルロットと踊ったのが気に食わなかったのだろう? もしまた似たような事態に遭遇したら、次は無理矢理にでもカトンテールを引っ張り出す。あなた以外の二人のどちらにも特別な感情など抱いていないのだから、あれも浮気に含まれるのなら許してくれ」


 シアンは再びアルベルトをゆっくりと見上げた。優しく微笑みながら見返す黒い瞳が、深い想いを湛えている。何度も気づかないフリをして、自分の勘違いだと言い聞かせて、でも心のどこかで期待していた彼の気持ち。まっすぐで純粋な愛をその目で語るアルベルトをこれ以上無視することはできないのだと、シアンはようやく気がついた。


(これ以上はだめだ……)


 これ以上ここにいては、自分も自分の心を無視できなくなってしまう。今でも他の妃に嫉妬して胸がチリチリ焼けているのに、これ以上想いが募れば胸が焼け焦げて死んでしまうのではないだろうか?


(僕がここに来た目的は何だ? 人間と獣人の関係改善のため、架け橋となりうる子供を産むためだったはずだ)


 その目的は、カトンテールが現れたことによって自分が必ずしも果たす必要のないものとなった。


(殿下は種馬として見られたくないと仰っていたけど、僕がいるせいで最初から彼女たちを眼中に入れる気も無いんだ。きっとよく見れば、僕なんかよりずっと魅力的なはずなのに……)


 それなら、自分がするべきことはただ一つ。


(殿下の元を去ろう。潔く身を引いて、猫の獣人国へ帰るんだ)

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