アルベルトの天蓋付きの寝台は大人四人くらいなら余裕で一緒に寝られるほどの大きさだったが、シアンは部屋の南側の窓辺に急遽
(僕のために無駄な家具を用意することになってしまったな……)
「新しい寝台の寝心地はどうだ?」
朝、上半身だけを起こして窓の外をぼーっと眺めていたシアンは、部屋の奥から声をかけられてはっと我に返った。
「あ、はい! とても素晴らしいです。故郷では
「良かった。藁の方が馴染みがあっていいと言われたらどうしようかと心配していた」
アルベルトは寝台から起き上がると、シアンの方へ数歩近づいてきた。金色の朝の光の中で色白の美貌が明るく輝き、シアンは思わず眩しそうに目を細めた。
「私の寝具と全く同じで、大きさだけ少し小さくした物を用意させたのだ。あなたが私と一緒に寝られるようになった時、慣れない布団であなたが不自由しないように」
「え……」
「どうしても藁でないと寝られないと言われたら、私が藁で寝る訓練をするしかないと思っていたから助かった」
「そんな、殿下を藁の上で寝かせるなんてことできませんよ!」
「なぜだ? あなたが寝られるのに、私にできないはずがないだろう? それに時間はたっぷりあるんだ。三年もあれば十分慣れるはずだ」
(ああ、どうしてこの人はこんなにも前向きで、僕なんかに真摯に寄り添おうとしてくれるんだろう……)
芽生えてはいけない感情が芽生えてしまいそうで、シアンは慌てて立ち上がるとさっと窓を開けた。
『いいですか、猫の獣人と猫アレルギーの人間が同じ部屋で過ごすためには、色々と気を使う必要があります。あっ、性行為なんかもっての外ですよ! 分かってますか?』
ジャック医師の忠告を一つ一つ頭の中で
(まず窓を開けて、空気の入れ替えをする)
「はっくしゅん!」
「大丈夫か?」
朝の肌寒い空気が鼻をくすぐって、思わずくしゃみが出たシアンは恥ずかしそうに鼻をこすりながら振り返った。
「大丈夫です。殿下は寒くはありませんか?」
「私は平気だ」
シアンは次に、自分が寝ていた寝具のシーツを
「そんなのは使用人に任せればいいだろう?」
「でも、毎日交換してもらうのは申し訳ないです。本来なら週に一度くらいの頻度でいいはずでしょう?」
「なら、私のものも毎日交換させよう。それなら誰も文句を言えまい」
「殿下、それでは本末転倒です!」
それからシアンは箒を取って部屋を掃除しようとしたが、さすがにそれはアルベルトに取り上げられてしまった。
「部屋の掃除は毎日使用人がする仕事だ」
「でも、私のせいでより念入りに掃除しなければならないので……」
「私の部屋を念入りに掃除するのは当たり前だ」
アルベルトは不思議そうに首を傾げてシアンを見た。
「あなたは猫の獣人国の第二王子だろう? そもそも掃除なんてしたことがあるのか?」
「ありますよ。私の故郷では基本的に長男以外は重宝されませんから。妹も多いですし」
「そうか。兄弟が多いと大変なこともあるのだな。私にはいないから想像もつかないが」
シアンはふっと故郷にいる兄や妹たちに思いを馳せた。
(みんな元気かな。そういえば妹たちは人間の国に嫁入りすることを酷く怖がっていたっけ。それもあって結局僕が引き受けることになったんだけど、結果的に良かったかな。女の子が鞭で打たれたりなんて、とても耐えられなかっただろう。アルベルト殿下はとてもいい人なんだけど……)
シアンは寝具から外したシーツを集めて腕に抱えると、アルベルトに向かってお辞儀をした。
「それでは私は水浴びに行って参ります」
「ん、水浴び?」
「はい、ジャック先生がなるべく身体を清潔に保つようにと、朝夕身体を清めるよう仰っていました」
「それなら浴室で湯を使えばいい」
「いえ、私のためだけにお湯を沸かすのは勿体無いですし……」
アルベルトはシアンの言葉を遮るように、部屋の隅にある呼び鈴の紐を引いて鳴らした。すぐに近くに控えていた使用人が部屋の前にやって来る気配がした。
「お呼びでございますか?」
「すぐに湯浴みの用意を」
「かしこまりました」
「殿下!」
シアンの抗議の声をゆっくり落とすようにアルベルトが手を振った。
「水浴びなど一体どこでするつもりなのだ?」
「えっと、お城の後ろの森の中に綺麗な川が流れているのを見つけて……」
「誰に見られているかも分からない場所で服を脱いではだめだ。あなたの身体はもはや毛皮で覆われてはいないのだから」
「あ……」
「それに猫は水が苦手だと聞いたことがある。川は流れがあって危険だし、たとえ湯を使わない時でも身体を清めるときは浴室を使うこと」
「……はい、分かりました」
アルベルトは優しい瞳でシアンを覗き込んだ。
「あなたは私の妻なのだから、ここではなにも遠慮する必要などない。あなたが湯を使うのは、私が湯を使うのと同じことだ。故郷ではあまり優遇されなかったかもしれないが、ここでは私と同じだけ優遇されるべき存在であるということを心に刻んでおいて欲しい」
シアンもエメラルドの瞳でおずおずとアルベルトを見返した。
(僕が優遇される……?)
「もっとわがままになって構わないということだ。私の元に嫁いだ経緯はリナルドから聞いている。他の候補者の身代わりになったのだろう?」
シアンはゆっくりと首を振った。
「それは違います。確かに他の獣人たちは人間に嫁ぐのを怖がっていましたが、私は自分の意志でここに来ました。決して身代わりなどではありません」
「それは私にとっては朗報だが、どちらにせよもっと自分の意志を尊重して欲しいのだ。水が怖いのに無理して川に入ろうとしないで、自由に温かいお湯を使って欲しいということだ」
胸の中に
(温かい……)
湯気の立ちこめる浴室で身体を清めながら、シアンはアルベルトの逞しい腕に抱かれた初日を思い出して、思わず自分で自分の身体をぎゅっと抱きしめた。
(また触れて欲しいな。もしも本当に、殿下が仰る通りに僕がわがままを言っても良いのなら……)
彼の優しい眼差しも、焼け付くような激しい劣情も、全て自分にだけ向けられるものであって欲しい。
(そんなこと言ったら殿下はなんて思われるだろう? 調子に乗りすぎだって呆れられるかな。でも……)
湯浴みの後、二人で庭園を散歩しながら、シアンは少し離れて横を歩いているアルベルトをこっそり盗み見た。
(ひょっとして喜んでくれたりして。もし殿下も僕と同じ気持ちだったら……)
「シアン、見てごらん」
不意にアルベルトが草むらにかがみ込んで、掴んだものをシアン見せてくれた。
「えっ、これは……」
「兎だ。父上が好きで、庭園で何匹か飼っているんだ」
茶色い毛に覆われたふっくらと丸い兎が、アルベルトの手の中で大人しくくりっと丸い目をこちらに向けている。
「殿下、兎は触っても大丈夫なのですか?」
「ああ、アレルギー反応は出なかったらしい。抱いてみるか?」
「はい」
兎はシアンに渡されても嫌がることなく、大人しく腕の中におさまっていた。
「可愛いですね」
「そうだな」
頭から長い耳にかけて優しく撫でてやると、兎は気持ちよさそうに目を細めた。それを見たシアンの顔からも自然と笑みが溢れた。
「殿下!」
不意に背後から切羽詰まったような使用人の声が聞こえて、シアンは思わず兎を取り落としそうになった。かろうじて落としはしなかったものの、体勢が崩れた拍子に兎はぴょいっとシアンの腕の中から逃げ出してしまった。
(あ……)
「何事だ?」
厳しい声で問われた使用人は、ちらっとシアンを見てからアルベルトに向かって深々と頭を下げた。
「国王陛下がお呼びでございます」
「父上が?」
「はい。ご婦人が二人、お見えになっておられます」