ズキンと鋭い痛みが背中に走って、
「痛っ!」
「シアン!」
彼が目覚めたことに気がついたアルベルトが、窓辺に座って読んでいた書物を投げ出してシアンの元に駆け寄って来た。
「大丈夫か?」
「で、殿下……」
怯えたように潤んだ瞳で見上げられて、アルベルトははっとその場に立ち止まった。
「……すまない。怖い思いをさせてしまって」
「い、いえ! それよりも殿下は……」
アルベルトの目の周りの腫れはだいぶ良くなったように見えたが、それでもまだ僅かに肌荒れのような赤味が痛々しく残っている。
「私は大丈夫だ。まさかアレルギーだなんて、情けない話だな」
「申し訳ありません。私のせいで……」
「あなたは何も悪くない。ただ命じられるがままに、政略結婚で顔も知らない人間の元に嫁がされただけだ」
「でも、この結婚は失敗ですよね」
俯いてそう呟いたシアンの声を聞いて、アルベルトは一瞬言葉に詰まった。
(人間と獣人の間の和平のための政略結婚。でもそれだけではまだ弱い。より強固な関係を築くためには、二つの種族の架け橋となりうる子供の存在が不可欠だ。すなわち人間と獣人の血を引く、ハーフの子供が)
「……殿下、私を国に帰してください」
「何?」
「事情が事情ですから、私が出戻ったところで父王も何も言わないでしょう。すぐにもっと殿下に相応しい、別の獣人の妻を娶るべきです」
アルベルトは、布団から出ている白くてすべすべの肩を見て静かに首を振った。
「一度他種族と契りを交わし、姿の変わった者は二度と貰い手がない。人間に近い姿になったあなたを、獣人たちが伴侶に望むことはないだろう。このまま帰せば、あなたは一生独り身で過ごさなければならなくなってしまう」
それは確かにその通りだった。人間の子を孕む姿となった自分を好き好んで娶る獣人などどこにもいないだろう。
「しかしこのままでは……」
「あなたは何も心配しなくていい。突然のことで驚いただろうが、手立てが無いわけではない」
「そうなのですか?」
「ああ、今医師が薬を調合しているところだ」
アルベルトは赤く充血した目を細めてふっと笑った。
「きっとまたすぐにあなたに触れられるはずだ」
(本当に? そんな薬があるのか? 僕はここにいても良いのだろうか……)
ほっと胸を撫で下ろすのと同時に涙が溢れてきて、シアンは慌てて掛け布団を顔の上まで引っ張り上げた。アルベルトの前で涙を流す姿を見せたくはなかったのだが、優しい言葉をかけられたせいでずっと張り詰めていた心が緩み、不安や恐怖、苦しみや悲しみなどの感情が
(可哀想に。知らない土地に嫁いできたばかりだというのにいきなりこんなことになって、ずっと不安で仕方なかったに違いない)
押し殺したように鼻を啜る小さな音を聞きながら、アルベルトはギュッと胸が締め付けられる思いをしていた。
(私はこの人の伴侶だと言うのに、怯えて震えているこの人に触れて抱きしめてやることすらできないなんて……)
どうにもできない自分に対する不甲斐なさに、アルベルトは爪が手のひらに食い込むほど強くぐっと拳を握りしめた。
◇
不測の事態が起こったため、次の日に行われる予定だった婚姻の儀は中止となり、シアンとアルベルトの新婚生活は静かに幕を開けた。
「この青い布はどうやって着ればいいの?」
「それは一番上に羽織るものです。まずはこの白い下着からお召しください」
晴れ着を作る必要は無くなったものの、今まで服を着る必要のなかったシアンは当然一枚も衣服というものを持っていなかったため、予定通り採寸を行った担当者がすぐにたくさんの洋服を用意してくれた。
「よくお似合いですよ、シアン様」
(アルベルト殿下と同じ、青い衣だ)
侍女に褒められて照れている様子のシアンを、アルベルトは満足げに目を細めて眺めている。
「こちらの白い
「間違えてもすぐに気がつくから大丈夫だ。裾を引き
書物を片手に窓際に座っているアルベルトを、シアンは遠慮がちに振り返った。
(アルベルト様、とても背が高くていらっしゃるもんな。僕だって決して小さいわけじゃないはずなのに。体つきも筋肉質でしっかりしてて……)
昨日輿入れ早々に彼の逞しい腕に抱かれた記憶が蘇って、シアンは頬にじわりと熱が上がるのを感じた。
「……あの、それより、私はこの部屋にいていいんでしょうか?」
「夫婦なんだから当然だろう?」
「いや、でも……」
アルベルトは出窓の縁に書物を置くと、シアンに向かってゆっくりと近づいてきた。
「アレルギーのことを気にしているのか?」
「はい、私はあまり殿下の近くにいるべきではないのではないかと」
「そういう意見もあるようだが、私が調べた情報によると、対策をきちんと立てれば同じ部屋に住むことも可能だそうだ」
「本当ですか?」
「ああ、本当だ。すぐに寝床を共にすることはできないが、治療を行えばそれもじき可能になるだろう」
自分との関係を前向きに考えてくれているアルベルトの言葉に、シアンは心がふわっと軽くなるのを感じた。
(知らない人間の元に嫁ぐなんて不安でしかなかったけど、この方の所に嫁げて本当に良かった)
「人間の方々が使う薬という物は、本当にすごいんですね。まるで神の御技であるかのように、様々な病を治すことができるとか」
「獣人は薬を使わないのか?」
「そのような物を作り出す知恵も技術もありませんし、薬で病を癒すという思想もありません。患って命を落とせば、それがその者の定めであったと我々は考えます。それが神が与えたもうた、抗うことのできない運命であったのだと」
「ではあなたと一緒になるために抗っている私は、神の意志に逆らう罰当たりな存在であると?」
そう言われて、シアンは少しばかり考えた。
「……今まで考えたこともありませんでしたが、でも抗えるなら、私だって抗いたい。せっかくこの世に生を受けたのですから、運命だと諦めるのではなく、幸せになりたいです」
「ならばあなたを幸せにするために、私は全力で足掻いて見せよう」
シアンが思わず、窓から差し込む光を背負って立つアルベルトに見入っていた時、ドンドンと遠慮なく扉を叩く音が部屋中に響き渡った。
「殿下、開けてください! 薬をお持ちしましたよ」
アルベルトが急いで扉を開けると、書類の束を抱えたジャック医師がイライラした様子で部屋に踏み込んできた。白衣はヨレヨレで赤い髪の毛もボサボサになっており、昨日から寝ていないのか目の下にくっきりクマを作っている。
「全く! 殿下の不調の原因を突き止めるのにも時間がかかったというのに、陛下には長いこと拘束されて尋問まがいの仕打ちを受けるし、その上今すぐ薬を調合しろですって? みなさん私をなんだと思ってるんですか! 寝なくても生きられる何かとでも勘違いしてらっしゃるんですか?」
シアンはどうしていいか分からずオロオロしていたが、アルベルトは笑いを堪えた様子でジャック医師が垂れ流す文句を聞いていた。
「先生、本当に助かりました。こんなこと先生以外の人間にはとてもできることではありませんよ。先生だけが頼りですから」
「そうですね! パスカルにこんな難しい薬の調合は任せられませんから。奴にできるのはせいぜい注射くらいですよ!」
ジャック医師はぷりぷりしながら、丸くて薄い錠剤の入った瓶をアルベルトに手渡した。
「こちらを一日一回、舌の下に一分間入れてから飲み込んで下さい。薬を飲んだ後五分間は何も飲んだり食べたりしてはいけません」
「舌の下に入れるのですか?」
薄い錠剤を指先でつまんでしげしげと眺めながら、アルベルトが医師の言葉をくり返した。
「舌下治療といって、アレルゲン物質を少しずつ取り入れて体に慣れさせるのです。殿下の体が猫をアレルゲン物質と判断しなくなれば、免疫の過剰反応は起こらなくなりますから」
「なるほど。こんな治療法を思いつくなんて、流石はジャック先生です。それで、どれくらいで効き目が現れるんですか? 一週間ほどでしょうか?」
何気なく聞いたアルベルトに、ジャック医師は現実を突きつけるようにビシッと言い放った。
「まず最低でも三年はかかると思ってください」