金縁の丸いメガネをかけ、書類の束を抱えた医者らしき人物が、白衣をはためかせながら地下牢をバタバタと走って来る。彼の前を厳しい表情のリナルドが先導し、医者がうっかり転んで顔面を石の地面に叩きつけないよう足元に気を配ってやっていた。
「アルベルト殿下! こんな所にいらしたんですか? 勝手に病室を抜け出すなんて! しかも看護師を三人も気絶させて!」
「ジャック先生! 原因が分かったのですか?」
切迫したアルベルトの言葉に、その場にいる全員がしん、と静まり返った。シアンもズキズキする背中の痛みを堪えながら必死に聞き耳を立てた。
「全く大変でしたよ。なかなか当てはまる症状が見つからなくて、色んな方面からアプローチをかけて、ようやく原因が分かった……」
「先生! 原因は一体何だったんですか? 早く教えて下さい!」
アルベルトは最低限の礼節を持って医者の先生と対峙していたが、丁寧な口調とは裏腹に声音には隠しきれない苛立ちが
「何だ、当てはまる症状が無いというのは、獣人特有の毒か何かということか?」
悪意のこもった国王の言葉にアルベルトはきっと父親を睨みつけたが、あろうことか医者は肯定の意を示すように頷いて見せた。
「まあそんなところです」
「先生!?」
(そんな馬鹿な……)
シアンは絶望に打ちひしがれ、アルベルトは信じられないというふうに牢屋でうつ伏せに倒れているシアンの背中を見た。
「やはりな。それ見た事か。わしの言った通りだ。やはり獣人など信用するべきではなかったのだ」
勝ち誇ったように頷く国王の言葉を聞き流しながら、ジャック医師は書類のページをパラパラとめくって、
「原因は、猫アレルギーです!」
……
地下監獄内に、水を打ったような静けさが広がった。
「あれ、皆さん、私の声が聞こえてますか? もっとこう、何か反応があるのを期待してたんですけど。あの状況でアレルギーを特定したのって、私けっこうすごい事だと思うんですけど」
「……え、先生、その猫アレルギーって、一体何なんですか?」
おそらく一番最初にその場で我に返ったのであろう、アルベルトが戸惑ったような声で医者に質問した。
「免疫の過剰反応の一種でして、本来害のないはずの物質を体が毒だと判断して、そのせいで様々な不調が起こるのです。人によって程度は異なるのですが、殿下の場合は初めてアレルゲン物質に触れたせいか、割と重篤な症状が出ましたね」
「え、それはつまり、猫アレルギーの私にとって、猫の獣人であるシアンはアレルゲン物質?」
「そういうことになります」
静まり返っていた牢獄内が、再びざわざわとざわめき始めた。
「猫アレルギーって何だ?」
「ほら、食べ物でもあるだろ、食べちゃいけないやつ。あれと一緒だろ」
「そういえば小麦アレルギーでパンが食べられないやつがいたな」
「え、それってつまり……」
妙に間の抜けた空気が広がる中、つかつかとリナルドが兄の面前まで詰め寄ってきた。
「兄上、お聞きになられましたか?」
「何だ、何が言いたい?」
「今すぐシアン殿下に対する数々の非礼に対して謝罪を!」
兄弟はまるで敵同士であるかのように鋭い目つきで睨み合った。
「なぜわしが謝る必要がある? こいつが毒であることに変わりはないだろう?」
「これは彼にはどうしようもないことではありませんか! それなのにシアン殿下が悪意を持ってアルベルト殿下を害したのだと、兄上の妄想でしかないただの憶測で殿下を拘束した上、鞭打ちにまで処したのですよ!」
「我々は一国を任された身だ。危険因子を見逃すわけにはいかぬ。少々行きすぎる方が、緩すぎて見逃すより断然ましなのだ」
「それなら尚更、行き過ぎた行為であったことを認めて謝罪するべきでしょう!」
国王と王弟が激しく口論している声をぼんやりと聞いていたシアンは、誰かが自分の倒れている牢屋に近づいて来る足音に気がついた。
「シアン!」
「……殿下?」
恐る恐る顔を上げたシアンは、アルベルトの顔を見た瞬間ぎょっとして思わず全身を硬直させた。白くて美しい彼の顔の中で、目の周りだけが異常に赤く腫れている。そんな状態でも彼の美貌が全く損なわれていないのが全くもって不思議なくらいだ。
「殿下! その目は……」
「シアン、すまない。まさかこんなことになるなんて」
「いえ、それは……」
こちらのセリフです、と言おうとしたが、自分を心配しているような切迫した表情のアルベルトを見た瞬間、急に体から力が抜けて、シアンはふっと意識が遠のくのを感じた。
「シアン!」
慌てて牢屋に入ろうとしたアルベルトを、兵士の一人が血相を変えて止めに来た。
「殿下、いけません!」
「放せ! シアンが……」
「私が参ります。殿下は奥様に触れてはなりません」
「そんな……」
兵士はすぐに牢屋に入ると、意識を失ってぐったりしているシアンを抱き上げて牢屋の外へ連れ出した。
「彼は大丈夫なのか?」
「お体が随分冷えていらっしゃいますので、すぐに暖かい部屋で背中の傷の手当てを。ジャック先生……はお忙しそうですね」
「パスカル医師を呼ぼう」
「かしこまりました。すぐに誰かに呼びに行かせます。殿下も早くお部屋にお戻り下さい」
兵士の腕に抱かれたシアンの顔色は蒼白で唇にも血の気がなく、まるで生気を感じられなかった。アルベルトは銀色のふわふわの毛に覆われた彼の耳に思わず手を伸ばしたが、すぐにだらんと力無くその腕を落とした。彼の指先をかすりもせずに、シアンの身体は兵士に抱えられて地下牢から出る階段を上がって行き、やがてアルベルトの視界から姿を消した。
『小麦アレルギーでパンが食べられないやつがいたな』
先程誰かが言っていた言葉が耳の奥で鳴り響き、アルベルトの心を絶望に近い感情が徐々に蝕んでいった。