青く晴れた空にくっきりと浮かび上がる巨大な白い城壁を見上げて、シアンは思わずほうっとため息をついた。
(これが人間の国の統治者が住む建物か……)
シアンの故郷である猫の獣人の国では、このような建造物を見ることはまず無い。人間と違って道具を使わず、昔ながらの生活様式を崩さずに生きている獣人たちは、このように頑丈かつ精巧な建物を作る知恵も技術も持ち合わせていないのだから。
「なんて美しい建物なんだ」
「お気に召されましたか、シアン殿下」
王城の正面玄関からシアンを迎えに出て来たのは、この国の王弟であるリナルド殿下だ。彼の政務は外交であり、猫の獣人国にも何度も訪れていて、シアンが顔見知りである唯一の人間でもあった。
「はい、とても」
「それは良かった。これから殿下がお住まいになるお城ですからね」
全く実感が湧かなかったが、シアンは軽く微笑んで頷いた。
猫の獣人国の第二王子であるシアンは今日、人間の国の国王ルイス陛下の一人息子、アルベルト王子殿下に嫁ぐため、はるばる故郷を離れてやって来たのだ。
「人間の国と獣人連合国の平和維持のためとはいえ、顔も見たことのない人間に嫁ぐのは不安が大きかったのではありませんか?」
リナルドはシアンを優しくエスコートしながら、気遣うように話しかけた。
「不安が無い、と言えば嘘になりますが、アルベルト殿下は立派な聖人君主の器であるとお聞きしております。我々獣人に対する差別意識も無く、殿下が王位を継承された暁には、長く続いた人間と獣人のいがみ合いの歴史もようやく幕を閉じるのではないかと」
「そうですね、我が国の王族が獣人の伴侶を受け入れたのはこれが初めてですからね。殿下の太平の世に対する思いは並々ならぬものであるはずです。和平交渉のために長年走り回ってきた私の努力もようやく報われる形となったわけです」
赤い絨毯の続く廊下を進み、リナルドはアルベルト王子の寝室へとシアンを誘った。
「こちらで殿下がお待ちです」
覚悟を決めて嫁いではきたものの、やはりこの後起こることを考えると途端に緊張して、シアンは怖気付きそうになる自身を落ち着かせようと深く息を吸った。
「殿下、シアン殿下がご到着になられました」
「入れ」
低く耳に心地良い声に、シアンは心臓が口から飛び出しそうな心地がした。リナルドに促されるままにドアノブに手をかけ、そうっと扉を開くと一人で中に足を踏み入れた。
(わぁ……)
部屋の中は少し薄暗かったが、猫目のシアンには昼間のように明るく隅々まで観察することができた。青地に幾何学模様の刺繍の施された敷物に、重厚で表面の滑らかな木の家具、天蓋のついた巨大な寝台など、シアンには物珍しいものばかりだった。
そして部屋の中央に立って自分を待っていたのが、これから伴侶となる王子アルベルトだ。敷物と似た色彩の青い衣をまとい、長くて美しい黒髪をさらさらと背中に流している。白い肌に切れ長の目、すっと通った鼻筋に形の良い薄い唇はどこを取っても文句のつけようが無いほど美しかった。
(まるで神様が丁寧に作った、お気に入りの天使の一人みたいだ……)
「遠路はるばるご苦労だった」
再び低い声で話しかけられ、シアンははっと我に返って深々とその場でお辞儀した。
「お初にお目にかかります。猫の獣人国第二王子、シアンでございます」
「人間の国の第一王子アルベルトだ」
アルベルトはゆっくりと歩いてくると、シアンの前で一旦立ち止まった。
「我々人間の文化については知っているか?」
「はい、一応一通り学んで参りました」
「そうか。明日我々の婚姻の儀が行われる。人間の結婚式では晴れ着を着て正装をするのだが、早急にあなたの晴れ着の手配をする必要がある」
「はい、存じております」
「到着早々性急で悪いのだが、触れてもいいだろうか?」
「は、はい……」
アルベルトは手を伸ばすと、シアンの柔らかくて癖のある銀髪にそっと触れた。彼が小刻みに震えていることに気がついたアルベルトは一瞬躊躇したが、すぐにシアンの後頭部に手のひらを当ててかがみ込むようにそっと口付けした。
「……んっ」
舌を絡められ、ゾクリとした快感が下腹部に走った瞬間、シアンの体を覆っていた毛皮がはらりと剥がれ落ちて、すべすべとした白い肌のほっそりとした腕と胸、足と臀部が露わになった。
(やっぱり僕が子供を産む側か。まあ分かってたことだけど)
この世界では異種間で交わる際、生まれ持った性別は意味を成さない。全ては種としてどちらが上か下か、強者か弱者か、捕食者か非捕食者かによって決定される。最初の契りを交わした際に起こる身体的変化によって、初めてそのつがいの雌雄が一目瞭然となる。具体的に言うと、産む側が産ませる側の外見により近づくのである。
(元々猿の獣人だった彼らの祖先は、知能を発達させ道具を使うことによって飛躍的な進化を遂げ、『人間』という独自の種族を誕生させた。柔らかい肌の表面を覆う毛皮も鋭い爪や牙も持たず、生身では他の獣人たちより明らかに弱小種族のはずなのに、その知恵と道具によって生態系の頂点に君臨するまでに成長したんだ。今では百獣の王の獅子の獣人ですら、人間の前ではただの雌と化すらしい。猫科の下位種の僕が孕まされる側になるのは当然のことだ)
毛皮の剥がれ落ちた皮膚はただでさえ敏感になっているのに、そこにするりと手を這わせられて、シアンは思わず体をビクリと痙攣させた。
「……寒いのか?」
「い、いえ。ちょっとくすぐったくて」
「あなたにピッタリの人間の衣装をこしらえるには、毛皮を落としておく必要があったんだ」
「はい……」
人間の衣服のように全身を覆っていた毛皮が全て剥がれ落ちた今、そこにいるのは恥じらいに白い肌を紅く染めた、一糸纏わぬ姿の儚く美しい人間に他ならなかった。シアンが猫の獣人だった痕跡は、頭の上に付いている二つの尖った耳だけとなっていた。
「これで、よろしいんでしょうか?」
今にもこぼれ落ちそうに潤んだエメラルドの瞳に見上げられて、アルベルトはごくりと唾を飲み込んだ。
「初夜は明日だ」
「はい」
そう言いながらも臀部を優しく弄る手に、シアンは戸惑いを覚えていた。
「……っ、あの、殿下?」
アルベルトは流れるような動作でシアンを横抱きに抱えると、天蓋付きの寝台まで運んで真っ白なシーツの上にそっと寝かせた。
「殿下?」
「もしあなたが良ければ」
劣情を孕んだ黒い瞳に見下ろされて、シアンの心臓がドクンと跳ね上がった。
「まだ、一日早いけれど……」
ドクン、ドクン、と心臓が大きく脈打っている。
「……はい」
消え入りそうな声で、シアンはアルベルトに答えた。食い入るように自分を見つめてくる瞳を直視できずに、彼はギュッと目を瞑って横を向いた。筋のすっと通った綺麗な首筋が露わになり、相手の欲望をさらにかき立てる結果になるとはつゆ知らずに。
◇
扉をコンコンと叩く音がして、シアンははっと我に返った。
(いけない! すっかり眠ってしまっていた!)
「殿下? もうそろそろよろしいでしょうか? いい加減服の採寸を始めないと間に合わなくなるのですが……」
どうやら晴れ着制作担当の使用人が、痺れを切らして部屋まで押しかけてきたらしい。
「殿下、起きてください。採寸をしたいと使用人の方がいらしてますよ」
隣で眠っているアルベルトは、顔を枕に押し付けたまま起き上がる気配を見せない。
(お疲れなのかな? けっこうシたもんな……)
「殿下、どうされましたか? 殿下? シアン様はいらっしゃいますか?」
「あ、は~い! ちょっと待ってくださいね! 殿下、起きて……」
アルベルトを起こそうと背中に触れた瞬間、シアンは何かがおかしいことに気がついた。
(あれ? なんだか呼吸がおかしいような……)
嫌な予感が冷たい風のようにすうっと胸をよぎった。慌てて仰向けにひっくり返すと、アルベルトは固く目を閉じて眉間に皺を寄せ、ゼイゼイと苦しそうに荒い呼吸をしていた。
「殿下!」
シアンの悲鳴を聞きつけた使用人が、焦って扉を開けて部屋に飛び込んできたが、毛皮が剥がれて全裸の人間状態になったシアンを見つけて慌てて両手で目を覆った。
「申し訳ありません!」
「いえ、僕のことはいいので、それより助けを呼んで下さい! 殿下、大丈夫ですか? 殿下!」
「えっ? どうされたのですか? 一体何が……?」
騒ぎを聞きつけた使用人が数名、わらわらとアルベルトの寝室に集まって来た。
「どうした? 一体何事だ?」
集まって来た人々の中にリナルドの姿を見つけて、シアンは慌てて彼の元に駆け寄った。
「リナルド様!」
「シアン殿下! どうされたのですか? とりあえず何かお召し物を……」
「それより殿下が大変なんです! さっきまでなんともなかったはずなのに、急に呼吸が苦しそうに……」
リナルドは自分の着ていたマントをさっと脱いでシアンの肩にかけてやると、大股でアルベルトの寝ている寝台へと近づいた。
「殿下! どうされましたか!? 殿下!」
「アルベルト、どうしたのだ?」
とうとうルイス国王陛下までが、騒ぎを聞きつけて息子の寝室へやって来た。
「陛下! それが、急に呼吸困難のような症状に見舞われたようでして……」
「なんだと? 医者は呼んだのか?」
「はい、ただいまこちらに向かっているところです」
「うむ、分かった」
ルイス国王はそう言って頷くと、裸の体にマントだけ被った姿のシアンをじろりと睨みつけた。
「今すぐこの者を拘束せよ」