「――あ、エル、前より上達したんじゃない? 安定してきた気がする!」
「わかる?僕もそう思うんだー! ニミーもさ、大きな雲作ってたよね! すごいことだよね!」
「でっしょー!」
「――ねぇ、兄ちゃん、練習」
「わかってるって。あ、ニミーはどうする?」
「うん! 私も練習するー!」
エルはまず風の流れを掴む練習から教え始めた。ニウスは兄の言葉に従い、目を閉じて周囲の音に集中する。彼の周りを通り抜ける風のささやき、地面を滑るように通るその音が、ニウスの感覚を次第に引き寄せていった。葉のさざめき、空気のわずかな震え――その一つ一つが風の向きと勢いを教えてくれる。ニウスはさらに意識を澄ませ、風の筋を掴むように手元に誘導しようとする。
「――どんな感じ?」
「葉っぱが揺れてる。風はね――さわさわした感じ?」
「どこら辺が一番強く感じる?」
「膝くらいのところかな――たぶん」
「じゃぁ、ちょっとしゃがんで膝あたりに手を当てて」
ニウスは言われた通り身を低くして手を膝に当てた。風が撫でる言葉にできないが確かな感触、今度こそ掴めた気がする。
「よし。そしたら、手のひらに乗せて、渦巻きのイメージするんだ」
教わった通り、渦巻くイメージを心で反復する。けれども、どうしてもその先に到達できない。風が渦を巻く。その感覚が一体どんなものなのか、まるで掴める気がしない。どれだけ繰り返しても、自分には届かない。
「今日もだめだ。手のひらなんかに乗らないよ――いつもと同じだ」
気づけば、膝裏には軽い痺れが広がり、汗ばむ掌はしっとりとしていた。挑戦を重ねるたび、掴めそうで掴めない感覚に苛立ちを覚え、その重みが心をじわじわと沈めていく。目の前が曇り、焦点がぼやけ、気力が薄れていく。
「どう?」
「――今日もだめだ。全然。わかんない」
「ちょっと休憩する?」
「しない――絶対しない」
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一方で、少し離れた場所ではニミーが黙々と雲を作る練習を続けていた。そろそろ昼時を告げるように、彼女の腹の奥で小さな虫が鳴く。
「――ねぇ、ニウスの調子はどう?」
「頑張ってるんだけどね――なかなか難しいみたい」
「まだ、続けそうだね。どうする? 今日はここでランチ食べる?」
「うん、ありがとう。そうしてくれると助かるよ」
「おっけー! 今日は何かなー楽しみ!」
畑を後にし、道を駆け上がっていくニミー。その姿が小さくなっていくにつれ、エルは再びニウスの方に視線を戻した。
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「おーい! お昼だよー!」
太陽が真上に差し掛かる頃、ニミーが籠バッグを揺らして駆け寄ってきた。その明るい声と弾む足取りが、空気を和らげる。ニウスはその姿を目にし、疲れた心がふっと軽くなるのを感じた。
「つーかーれーたー」
ニウスはその場に大の字になり、冷たい地面に背中を預けた。ひんやりとした感触が全身に広がり、疲れた身体を癒していく。遠くで鳥のさえずりが、頭上には流れる白い雲が広がっていた。
「頑張ってたねー」
「へとへとでペコペコだよ」
「今日のランチはパニー作だよー」
「「野菜たっぷりサンドウィッチだ!!」」
「だーいせいかーい!」
ニミーがバッグを開けると、色とりどりのサンドウィッチが姿を現した。
「「「虹色だーーーー!」」」
パニーはサンドウィッチの芸術家だ。赤いパプリカ、橙の人参、黄色のズッキーニ。緑のレタス、青のブルートマト、藍のブルーベリーソース、紫のキャベツ。見た目にも心を躍らせ、食べる前から元気を与える一皿だった。ニミーはさらに、生搾りのリンゴジュースを取り出した。黄金色の液体が瓶の中に、小さな太陽が閉じ込められている。
ニウスはさっそくサンドウィッチを手に取り、大きくかぶりついた。シャキシャキとした野菜の食感と瑞々しい風味が口いっぱいに広がり、疲れを吹き飛ばしていく。エルもまた、サンドウィッチを味わいながら、絶妙な調和に心を満たされていた。
「ありがとう、ニミー」
「うまっ。ありがと!」
「パニーもありがとうー!」
「帰ったら伝えようね」
穏やかな風に乗り、三人の笑い声が繰り返し空気を揺らし、彼らの疲れた身体と心が少しずつ軽くなっていく。
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「ニミーは練習どうだった?」
「ちょっとだけ大きい雲ができた気がする!」
「いいなー」
「ニウスは?」
「――僕はぜんぜんだめ。才能ないんだよ。きっと」
「そうかなー?――エルは去年から飛べるようになったんだよね?」
「そう、だからニウスも今年中にはできるよ思うんだよなー」
「でも一度も、風をまーったく動かせられないんだよ? エルが飛べるようになったのは確かに去年だけど――風を動かせるようになったのは、もっと前だったよ」
エルが初めて掌で風を掴んだのは、もう一年半も前のこと。毎日、空を見上げては手を差し出し、風を掴む練習を繰り返していた。掴もうとするたびに遠ざかる風に、失望が胸をかすめる日々。けれども、エルは夢を諦めなかった。いつか風を掴み、その力で空を飛ぶ自分の姿を思い描くこと。それが彼の心を支える希望となっていた。
ある日、エルは療養していた海鳥を空へ返す準備をしていた。その小さな命が再び空を自由に飛べるようにと、祈りを込めて掌を差し出した。その刹那、彼の指先にかすかな感触が走った。それはこれまでに感じたことのない、風の柔らかく温かな流れだった。
掌の中で風が渦を巻き、そして動き出した。エルの願いに応えるように、風は彼の手に留まり、そして舞い上がったのだ。その流れに乗った海鳥は、やがて羽ばたき、青空へと消えていった。
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ランチを終え、練習の話題に戻ると、ニウスの表情に再び焦りと不安が戻ってくる。手は膝の上でぎこちなく動き、視線は地面をさまよっている。
「ニウスはさ、空飛べたら何したい?」
「――え?」
「私は、風使えないから、飛べないじゃない? だから直接的なアドバイスはできないけど――私はね、おっきな雲作って、その上に乗って浮かんでみたいなー! って思いながら作ってるの!」
ニミーはニウスの顔を覗き込み、柔らかな笑顔を浮かべた。彼女の言葉に、ニウスの指先が微かに動く。そして、少しだけ時間をかけて考えた後、ぽつりと控えめに答えを絞り出した。
「僕は空に近づきたい。それに――」
その時、
ニウスはリリーをそっと頭の上に持ち上げると、その小さな身体を彼の頭の上で安定させる。それを見ていた他の
「――リリーたちと遊びたいんだ」
リリーがふわりと羽を広げ、ニウスの肩に舞い降りた。耳元で羽ばたきの音がかすかな風を生み、肩を通じて伝わる小さなぬくもりが彼の心をそっと温める。黒曜石の瞳が彼を見つめ、揺るぎない輝きを湛えていた。その瞳に見守られるたび、ニウスは自分の夢が、未来にあると確信を得るのだった。