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ep.1 - 2 "幻贖のランプ"の探し方

「――サリー」


 パニーが名を呼ぶと、風がふっと海の匂いを運び、彼女の声を波間に溶かす。波音だけがしばし耳に残り、やがて海の表面がゆっくりと持ち上がり、悠然とした大きな頭が現れた。


 のサリーだ。二人を迎えにきたサリーは、その巨大な姿を波から持ち上げ、二人に向かってゆったりと接近する。パニーはためらうことなく手を伸ばし、その冷たくなめらかな皮膚に触れた。海の一部をそのまま引き上げたかのような、しっとりとした感触が返ってくる。サリーは低く鼻を鳴らし、パニーの手にそっと応える。


「――なぁ、あの、さ」

「あ、ちょっとまって」


 二人が小舟に身を委ねると、サリーは水を掬い取るように、湖面を滑り出した。その巨大な身体が湖をかき分けるたび、広がる波紋が夜に紛れ込んで、湖の鼓動となる。エイディが操るパドルが、水音が、夜の帳に刻まれていく。空には星が複雑な模様を描き、湖面に散らばる光がどこまでも広がっていた。


 パニーは舟の端に腰掛けて、サリーの動きを追いかけていた。風が彼女の髪を通り過ぎ、湖の空気が肌に触れた。息を吸うごとに、心が少しずつ透明になっていく。


「ごめん、ごめん。それで、なんだっけ?」

「――俺も。一緒に――連れてってくれ」


 エイディとパニーの視線が絡み、海の上で時がぴたりと止まる


「――え?」

「俺も一緒に連れてってくれ」

「――へ?」

「だーかーらー、お・れ・も! ここから出たいんだよ!」


 エイディの声は夜の風に乗り、広がる海を叩いた。


「!」

「だめか?」

「――!!」

「なぁ? だめか? って、聞こえてるか?」

「――!!!」

「おーい――パニー?」


 パニーは言葉を失い、ぽかんと口を開けたり閉じたりしながら、エイディをじっと見つめる。彼の揺るぎない眼差しに、返事の一つも見つけられず、ただ目を見返すばかりだった。


「――!! ううん! 全然! だめじゃないよ! ただ――そう。ただ驚いたの!だって、一人で行く気だったし、それに――」


 パニーがようやく絞り出した言葉はまだ揺れていた。


「本当に?! いや、でも、あの――外界だよ? 大丈夫――なの?」

「――正直言うと、怖いが八割」

「じゃぁ、なんで――」

「でも、パニーさ、エムスタに言ってたろ? ここを、終わらせたくないって」

「――うん」

「俺もさ、終わらせたくない――そう、思った。あの日のこと、今でもたまに夢に出てくるくらいにはビビってる。けど――このままじゃだめだ。そうだろ?」


 彼は、感情が溢れるまま拳をぎゅっと握りしめて、自らの思いを打ち明けた。その言葉には、気負いも飾り気もなく、ただまっすぐな力強さがあった。


「考えたくはないけどさ。いつか、じいちゃんたち、ばあちゃんたちが――死んじまったら。そしたら、ここには17人しか残らない。たった17人だぞ? もし、もしもさ、幻贖の力も途絶えちまったら? もどうなるかわからない。パニーが言ってたのはさ――そういうことだろ?」


 彼の声は、言葉をつなげるたびに強さを増し、どこまでも力強く、彼女の心を鷲掴みにする。


「17人じゃ、少なすぎる。近くの未来は見えるけど、もっとずっと先が見えないんだ――そうだろ? ここは、俺にとっても大事な場所だ。俺たちを救ってくれた。絶対、終わらせねぇ!――って、そう思った」

「――エイディ」

「それだけじゃない。どうなってるかわかんねぇけど――生まれた場所も気になってる。もしかしたらまだ――いや、それはいい。とにかく行ってみたい」

「――そっか」

「あ、勘違いすんなよ? 行ってみたいだけだ。誰もいないしな。帰るのはここだ」

「――うん」

「それにさ、残りのニ割だけどさ、あー、パニーの言ってたケーキに、チョコレートにー、あと――何だっけ、遊園地? とか行ってみたいんだ」

「――覚えてたの?」

「あったりまえ! パニー達はさ、俺らに遠慮して外の世界のこと話さなくなったんだろうけどさ。俺は、すっげー憧れてた!」

「そっか、うん! うん! そっか、そうだよね」

「――じゃぁ!!」


「うん!二人で、一緒に行こう!」


 パニーの心は、灯された。


「―――ほんとか!!」

「うん、二人で行こう! 行こうよ!それに、エイディが来てくれたら、私もとっても心強いよ」

「だろ? パニー結構抜けてっから、しっかり者の俺がついててやるよ」

「なにそれ、急に調子づくじゃん。私も意外としっかり者だよ――エイディよりお姉さんだし」

「年だけな」

「前言撤回するよ」

「二言はなしだぞ」

「柔軟な対応でしょ」

「あっ!! ってことは、つまり――」


 パニーの口元にふっと笑みが浮かぶ。エイディをちらりと見て、その瞳にいたずらな光を宿らせた。


「バランとウィノナとのドッチボール頑張れ!怪我しないようにね?」


 彼女の茶化すような一言に、エイディは目を細め、眉をしかめた。


 二人は小舟を静かに進め、水上に浮かぶ集落へと向かっていった。そこは、大きさも形もばらばらな筏や浮き台が組み合わされ、思い思いに建てられた小さな小屋が並ぶ、浮かぶ集落だった。家々はほとんどが灯りを落とし、眠りについている。ただひとつ、薬草室だけがまだ灯りをともしており、その金色の光が水面に揺れる道筋を作っている。その道をなぞるように、二人は小舟をゆっくり進めていった。


 風が二人の頬をそっと撫で、波が小舟を揺らす。進むたびに、淡い薬草の香りが漂ってきた。桟橋に舟を繋ぎ、薬草室の灯りが二人を優しく照らす。


「サリー、送迎ありがとな。またな」

「ありがとう―――おやすみ、サリー。また明日ね」


 二人が声をかけると、サリーは首を垂れ、ゆっくりと海の中へ戻っていった。夜の海に残るかすかな波の跡は、彼女の余韻だ。

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