「――サリー」
パニーが名を呼ぶと、風がふっと海の匂いを運び、彼女の声を波間に溶かす。波音だけがしばし耳に残り、やがて海の表面がゆっくりと持ち上がり、悠然とした大きな頭が現れた。
「――なぁ、あの、さ」
「あ、ちょっとまって」
二人が小舟に身を委ねると、サリーは水を掬い取るように、湖面を滑り出した。その巨大な身体が湖をかき分けるたび、広がる波紋が夜に紛れ込んで、湖の鼓動となる。エイディが操るパドルが、水音が、夜の帳に刻まれていく。空には星が複雑な模様を描き、湖面に散らばる光がどこまでも広がっていた。
パニーは舟の端に腰掛けて、サリーの動きを追いかけていた。風が彼女の髪を通り過ぎ、湖の空気が肌に触れた。息を吸うごとに、心が少しずつ透明になっていく。
「ごめん、ごめん。それで、なんだっけ?」
「――俺も。一緒に――連れてってくれ」
エイディとパニーの視線が絡み、海の上で時がぴたりと止まる
「――え?」
「俺も一緒に連れてってくれ」
「――へ?」
「だーかーらー、お・れ・も! ここから出たいんだよ!」
エイディの声は夜の風に乗り、広がる海を叩いた。
「!」
「だめか?」
「――!!」
「なぁ? だめか? って、聞こえてるか?」
「――!!!」
「おーい――パニー?」
パニーは言葉を失い、ぽかんと口を開けたり閉じたりしながら、エイディをじっと見つめる。彼の揺るぎない眼差しに、返事の一つも見つけられず、ただ目を見返すばかりだった。
「――!! ううん! 全然! だめじゃないよ! ただ――そう。ただ驚いたの!だって、一人で行く気だったし、それに――」
パニーがようやく絞り出した言葉はまだ揺れていた。
「本当に?! いや、でも、あの――外界だよ? 大丈夫――なの?」
「――正直言うと、怖いが八割」
「じゃぁ、なんで――」
「でも、パニーさ、エムスタに言ってたろ? ここを、終わらせたくないって」
「――うん」
「俺もさ、終わらせたくない――そう、思った。あの日のこと、今でもたまに夢に出てくるくらいにはビビってる。けど――このままじゃだめだ。そうだろ?」
彼は、感情が溢れるまま拳をぎゅっと握りしめて、自らの思いを打ち明けた。その言葉には、気負いも飾り気もなく、ただまっすぐな力強さがあった。
「考えたくはないけどさ。いつか、じいちゃんたち、ばあちゃんたちが――死んじまったら。そしたら、ここには17人しか残らない。たった17人だぞ? もし、もしもさ、幻贖の力も途絶えちまったら?
彼の声は、言葉をつなげるたびに強さを増し、どこまでも力強く、彼女の心を鷲掴みにする。
「17人じゃ、少なすぎる。近くの未来は見えるけど、もっとずっと先が見えないんだ――そうだろ? ここは、俺にとっても大事な場所だ。俺たちを救ってくれた。絶対、終わらせねぇ!――って、そう思った」
「――エイディ」
「それだけじゃない。どうなってるかわかんねぇけど――生まれた場所も気になってる。もしかしたらまだ――いや、それはいい。とにかく行ってみたい」
「――そっか」
「あ、勘違いすんなよ? 行ってみたいだけだ。誰もいないしな。帰るのはここだ」
「――うん」
「それにさ、残りのニ割だけどさ、あー、パニーの言ってたケーキに、チョコレートにー、あと――何だっけ、遊園地? とか行ってみたいんだ」
「――覚えてたの?」
「あったりまえ! パニー達はさ、俺らに遠慮して外の世界のこと話さなくなったんだろうけどさ。俺は、すっげー憧れてた!」
「そっか、うん! うん! そっか、そうだよね」
「――じゃぁ!!」
「うん!二人で、一緒に行こう!」
パニーの心は、灯された。
「―――ほんとか!!」
「うん、二人で行こう! 行こうよ!それに、エイディが来てくれたら、私もとっても心強いよ」
「だろ? パニー結構抜けてっから、しっかり者の俺がついててやるよ」
「なにそれ、急に調子づくじゃん。私も意外としっかり者だよ――エイディよりお姉さんだし」
「年だけな」
「前言撤回するよ」
「二言はなしだぞ」
「柔軟な対応でしょ」
「あっ!! ってことは、つまり――」
パニーの口元にふっと笑みが浮かぶ。エイディをちらりと見て、その瞳にいたずらな光を宿らせた。
「バランとウィノナとのドッチボール頑張れ!怪我しないようにね?」
彼女の茶化すような一言に、エイディは目を細め、眉をしかめた。
二人は小舟を静かに進め、水上に浮かぶ集落へと向かっていった。そこは、大きさも形もばらばらな筏や浮き台が組み合わされ、思い思いに建てられた小さな小屋が並ぶ、浮かぶ集落だった。家々はほとんどが灯りを落とし、眠りについている。ただひとつ、薬草室だけがまだ灯りをともしており、その金色の光が水面に揺れる道筋を作っている。その道をなぞるように、二人は小舟をゆっくり進めていった。
風が二人の頬をそっと撫で、波が小舟を揺らす。進むたびに、淡い薬草の香りが漂ってきた。桟橋に舟を繋ぎ、薬草室の灯りが二人を優しく照らす。
「サリー、送迎ありがとな。またな」
「ありがとう―――おやすみ、サリー。また明日ね」
二人が声をかけると、サリーは首を垂れ、ゆっくりと海の中へ戻っていった。夜の海に残るかすかな波の跡は、彼女の余韻だ。