エイディの足元で、海面に映る自身の姿が絶え間なく揺れ動く。波間に映じる自身の影に、掌を向けた。冷たい水が指先に触れると、そこから大きな波紋が広がり、水面に映る影もまた、
「あちぃー」
掌を滑らせ、波を描くように動かす。群青の中で小魚が戯れていた。
「いーなー、お前らはさー。涼しそうじゃん――な、お前もそう思うだろ?」
波間に映るもう一人の自身に向かって問いかける。人影のない静寂の中で、独り二役の芝居に興じた。海面に浮かぶ自分自身は汗一つかかず、実物よりも遥かに涼しげに思えた。
「なぁー、俺。誰が来ると思う? まずは、言い出しっぺのパニーだろ?――来る、よな?――あとはー、ケイとー、リア? 一緒に行くって騒いでたし」
しばらくして、身を横たえた。片腕を額にかざし、もう片方の腕を無造作に垂らす。顔に浮かぶ汗を時折指先で拭い、胸の上で浅い呼吸を繰り返す。白く点在する雲が悠々と流れていく様を、その瞳に捉えていた。
「やっぱ、あちーな――喉乾いたな――でもなー。あー早く、誰か来ないかなー」
波音に紛れ、微かに聞こえる自らの吐息に耳を澄ませると、海と一体となったような感覚が広がった。ふと、海の民が日常的に味わうであろう感覚は、このようなものかと想いを馳せた。
「――誰と話してるの?」
声と共に足音が近づき、その音が次第に大きくなると、エイディの視界の端に影が差し込む。顔を少し上げると、そこにはパニーが立っていた。彼女は身を屈め、寝転がるエイディを覗き込む。エイディは手を額にかざしながら目を細め、彼女の顔を見上げると、二人の視線が絡み合った。
「――遅い」
「ごめん、ごめん。エイディが一番乗りか――ちゃんと許可もらえたんだ」
「おう」
エイディの隣に腰を下ろしたパニーは、同じように足を海に投げ出して座り込んだ。二人の足先が波に触れると、驚いた魚がどこかへ逃げて行った。エイディは再び目を閉じ、彼女の気配を感じつつ、波音に耳を澄ませた。
「ねぇ、さっき誰と話してたの?――サリー?」
「いや、俺」
「――は?」
いぶかしげな表情を浮かべ、首を傾げつつ、パニーは携えたボトルのキャップをひねり、一口含んだ。冷たい液体が喉を潤す感覚に満足し、ほっと安堵の息を洩らした。
「ま、気にすんな――それより結構時間かかったな。パニーは一昨日聞いたんだろ? まだ聞くことあったのか?」
「まぁ、私はね。でもエム姉もロロも知りたいこといっぱいあったし、質問攻めだったよ――でもなによりも」
「――なによりも?」
「一緒に行くー! っていうペオを止めるのが大変で」
「あーまぁ――そうなるよな」
「ね。昨日ペオの夢、聞いたばかりだから。きっかけを作った私が、子どもを理由にペオを――ペオの夢から遠ざけてもいいのかなって考えたら――何も言えなくなっちゃって」
「でも、ここに来てないってことは――引き下がったのか」
「一応ね。おばあちゃんやエム姉に止められて――僕は好きで子どもやってるわけじゃないのに、いっつも我慢ばっかり! ってさんざん怒ってたんだけどね」
「それでよく引き下がったな?」
「――ロディがさ、説得してくれたの。幻贖の力を使いこなせるようになりたいんだろって。それなら、まずは特訓しようって――外界に行くのは、その後でも遅くないって」
「――そっか。ロディが」
昨日のペオの誕生日会で、偶然知ってしまった彼の決意。子どもゆえに行動が制約される辛さは、パニー自身もよく理解しているつもりだった。そのため、曖昧な態度を取ってしまったが、今のパニーには言葉で彼を止めることが心苦しく、ロディの存在が非常にありがたかった。
「――それ何? ベリー?」
「そう、ミックスベリー」
エイディは横目でその様子を見つめ、問いかけた。パニーは答えつつ軽くボトルを揺らすと、中の鮮紅の液体が揺蕩った。
「ひとくち」
「持ってきてないの?――ほら」
渡されたボトルを受け取ったエイディは、一口含んだ。火照った躯体に心地よい冷涼が広がり、エイディは自然と瞳を細めた。
「――見てこれ」
「あぁ――そんなに私遅かった?」
エイディが指し示す先にあるボトルの底に残る微かな液体。彼はため息を洩らしつつ、そのボトルを手に取り、額に押し当てた。
「まぁ、俺と兄貴の二人だったからな。そんな時間かかんなかった」
「え? そうなの?――ケイたちは一緒じゃなかったの?」
「そ、各ご家庭内で話し合いって感じ」
一昨日、ヌプトスはパニーとの約束を守り、あの日の出来事について可能な限り語ってくれた。どのように説得に至ったかは定かではないが、アイガも譲歩の姿勢を示し、不和の期間は一旦終焉を迎えた。
また、エイディにもこの件を告げるべきだというヌプトスの提案に、それならばとリアやケイを含む、他の外界へ行きたがる者たちの存在を伝えた。結局、中途半端な情報伝達が誤解を招く懸念があるため、全員に告げることとなった。
ペオの誕生日に悪影響を及ぼさないため、翌日となる今日、話し合いを行うことが決まり、パニーの家でも朝食後に家族会議が始動した。議論は熱を帯び、次第に深化し、優に四時間が経過していた。
「それにしても、今日暑いな」
「――なーに、その顔」
エイディの呻きに、パニーは顔を上げて視線を交わした。彼は伺うようにパニーをちらりと見やり、両手を合わせて懇願するような仕草を見せた。パニーが眉を下げ、手を海水に浸すと、冷たい水が指の隙間を滑り抜け、やがて小さな氷片が形成されていった。
「――はい」
「ありがと」
パニーはその氷の欠片を手中で纏め、ハンカチで包み込み、それをエイディに手渡した。
「――あー! 生き返る―!」
エイディが即席の氷嚢を顔に当てると、冷たい感触が広がった。冷気が徐々に顔全体に行き渡り、汗が散っていくのを感じた。
「誰も来ないなー」
「まぁ、他の子たちにとっては突然の話だからね。まだ家族会議中かな」
「――じゃぁ、ま、詳しいことはさ、森に行って話すか」
「そだね――誰か来るかもしれないし、置手紙してこうかな」
そのまましばらく語らい続けたが、誰も訪れる気配はなかった。エイディは体を起こし、桟橋の端に停泊しているボートへと視線を移した。パニーもそれに倣い、両手を空へと向けて伸ばしながら、ゆっくりと立ち上がった。