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第2話

「失礼します」

 入ってきたのは花壇にいた女だった。手には新聞紙に包まれた花の束を持っている。女はつかつか歩いて僕の脇を通り、市長の横まで行った。そして置かれた皿と箸をどけると、机の上に新聞紙を広げ、花を並べる。女の手によって種類ごとに分けられた白や黄色の花々は、僕には名前の分からないものばかりだった。

 女はコートを脱ぎ、机の空いている場所に置く。コートの下には、花壇で土を掘っていた男たちと同じ作業服を着ていた。そのポケットからゴム手袋を取り出し、それぞれの手にはめる。準備が整った女は、市長のあごを持ち上げて顔を上に向けさせ、指を突っ込んで口を開かせた。そして、その中へ花を挿し始める。最初はふがふが言っていた市長だったが、女が市長の手を取り自身の尻を触らせると静かになった。市長に尻をなでられながら、女は口の中へ花を挿し続ける。

 しばらくすると、女が手を止めた。市長の手も止まった。女はこちらを見て、

「あら、まだいたの?もう帰ってちょうだい」

と言った。無理やりに来させられたのに、今度は帰れとはひどい話だ。

「青いアジサイについて、何も聞けていないんですが」

 僕は語気を強めた。すると女は、軽蔑したような視線を向ける。

「答えは出ているでしょう?」

 女がただ混乱させようとしてそう言ったのか、本当にこの部屋で見聞きしたことの中に答えがあるのか、僕には分からなかった。女は再び市長の口の中に花を挿しだし、市長も尻なでを再開する。そんな市長の手と、市長の口とを交互に見た。そして、もうここにいる意味はないのだと悟った。僕は何も言わずに踵を返し、市長室を出た。

 エレベータに乗り一階へ下りると、何やら悲鳴のような声が聞こえる。ロビーまで行くと、それが総合受付にいる女の悲鳴とサルの鳴き声だと分かった。サルはカウンターに置かれた壺を持ち上げて落とすふりをしたり、水槽にいた魚を飲み込んだと思ったら吐き戻したりしている。遊んでいるだけで危険はなさそうだったので、受付の女には悪いが、僕はサルにかまわず市庁舎の外へ出ることにした。もしさっきまで市長室にいたのなら、きっと受付の女だって僕と同じようにするだろう。そんなことを考えていると、サルは僕の行く手を遮るように足もとへやってきた。

「しょせんガキはガキだな。お前は味噌田楽でも食ってりゃいいのさ」

 サルはそれだけ言って、市庁舎の出入り口へ向かって駆けていく。その様子を目で追っていると、外から警官がやってきて、網を投げてサルを絡めとった。警官は僕を市庁舎へ連れてきた男だった。

「やれやれ、一日に二度も市庁舎にくることになるとはな。市長とは話せたかい?」

「ええ、まあ」

 僕があいまいな返事をすると、

「そうか、爆発しなくてよかったな」

と警官は真顔で言った。それにどう応えていいか分からなかったので、僕はサルの方を見た。網の中でサルは、威嚇するように歯を剥いている。案外、凶暴そうで、襲われなくてよかったと今になって思った。

「このサル、どうするんですか?」

 僕は訊いた。

「そうだな、見せしめにはく製にでもするか。サルよけにならないかな?」

「さあどうでしょう……」

 カラスの死体はカラス除けに使えると聞いたことはあるが、サルでも同じ効果があるだろうか。

「まあとりあえず、このまま環境保護課へ引きずっていくさ。何と言ってもここは市庁舎だからな。君は帰りなさい。お勤めご苦労さん」

 警官は軽く敬礼して見せる。僕は頭を下げて、足早に外へ出た。僕が市庁舎から離れたら爆発すればいいのに。そう思ったが、もちろん市庁舎が爆発するなんてことはなかった。

 市庁舎の駐車場から歩道へ出て少し歩くと、味噌田楽専門店と書かれたのぼりが立っているのが見える。行きのパトカーの中からこんなのぼり見えたっけ?と不思議に感じたが、そのとき窓から見た景色はうまく思い出せなかった。

 僕は吸い寄せられるように、店の前まで行った。普段は味噌田楽になんて興味を持たないが、あのサルが言ったからだ。そう考えて、サルがしゃべったのはおかしなことだと、ようやく気がついた。しかし、あのあとサルがしゃべることはなかったし、僕の聞き間違いだったかもしれない。しゃべるか確認するために市庁舎に戻る気にはなれなかったし、はく製にするために、どこかへ移されているかもしれない。

 入り口のドアには、『閉店セール 全品半額』と大きく書いた紙が貼られていた。その下に期間を示す日付などが記されていて、今日で店じまいのようだった。ドアを引いて中へ入ると、すぐそばにショーケースがあったので、思わずぶつかりそうになった。

「いらっしゃいませ」

 店員は僕の様子など気にせず挨拶した。店員側にもあまり奥行がなく、ストレスを感じるほど相手の顔が近い。ショーケースの中には、こんにゃくの味噌田楽しかなかった。三百円に斜線が引かれ、赤字で百五十円と書かれている。僕はこんにゃくが苦手なのだが、このまますぐ帰るのは気が引ける距離に店員がいるので、

「すみません、豆腐のはありませんか?」

と訊いてみた。これでないと言われれば、しょんぼりしてみせて帰ればいい。しかし店員はしばらく僕の顔を見つめたあと、

「少々お待ちください」

と言って、後ろのドアを開けて奥に引っ込んだ。そのとき見えたのは、広い空間の奥の棚にたくさんのポリバケツが置かれた部屋で、もっと接客スペースを広くすればよかったのにと思わせる配置だった。

 店員は、手に豆腐の味噌田楽を一本持ち戻ってきた。指で串の部分をつまんでいる。

「こちらになります。どうぞ」

 そう言って、肘を曲げて僕に串の持ち手を向けて差し出した。小さな紙袋にでも入れてくれればいいのにと思いながら、僕はそれに手を伸ばす。相手の指に触れずに受け取ろうとしたが、それはできなかった。店員の指は少しベトっとしていた。僕は豆腐に塗られた味噌が落ちないように、串を水平に持つ。

「いえね、先週この店を始めたばかりなんですけど、今日で閉店なんですよ。オープンした瞬間になんか違うな、と思いましてね。あるでしょう?そんな感覚」

「そうですね」

 店員が話しかけてきたので、僕は適当にあいづちを打った。支払いの済んでいない味噌田楽を持たされたまま、店員の話は続く。

「内装もお客さんと近い距離で接客したいと思ってこんな感じにしたんですけど、それもなんか違ったっていうか。ほら、近すぎて気分悪いじゃないですか。いや、あなたのことを気分悪いって言ってるんじゃないですよ。でも、そんな人もいたなあ。オープン初日の午後に、なんかやぼったい見た目でちょっとすえたような嫌なにおいをさせた人。

 あと、味噌田楽だから味噌が大事だと思って、いろんな種類を用意したんですけど。さっきうしろのドア開けたとき見えました?あれ、全部ウチで作ってる味噌なんですよ。大豆をいろんな産地から取り寄せたり、あちこちの醸造所に頭を下げて麹菌を譲ってもらったりして。でも田楽に合わせるだけなら、そんなに必要なかったなって」

 店員はそこで言葉を切って、目を伏せ自嘲気味に笑う。心ある人なら、店員とともにしんみりするのだろうが、今の僕には驚くほど何も響かなかった。ようやく会計だろうかと思っていると、店員が視線を上げ明るい表情を見せた。

「でも今度、ここをリニューアルして味噌の販売をすることにしたんです。来週には再オープンできそうなので、よかったらまた来てくださいね」

 心ある人なら、さっきしんみりした気持ちを返せと思うだろう。あるいは、また来るねと笑顔を返すだろうか。僕にはどうでもよかった。今度こそ店員の話が終わったようなので値段を聞く。

「あの、おいくらですか?」

「八百円です」

 今までの店員の言動は何とも思わなかったが、これには面食らった。

「え、半額ですよね?」

「はい。半額で八百円です」

 こんにゃくの味噌田楽と大差ないだろうと思っていたで、何とも腑に落ちない。しかし、わざわざ奥から出してもらい、受け取ってしまった後で返すのはためらわれた。僕は釈然としないまま金を払うことにする。本と味噌田楽で両手がふさがっているので、本をショーケースの上に置き、スマホをポケットから出して決済した。

「そういえば、うちのサル見ませんでした?」

 突然の店員の言葉に、僕の心は一気に波立った。ひょっとして市庁舎に入ってきたサルのことだろうか。しかし、そうではなかった。

「ああ、すみなせん。サルといっても犬なんです。サルは名前で。チワワなんですけど、今朝、散歩していたら逃げ出してしまって。見てないですよね」

「ええ……見かけたらお知らせしますよ」

 そんな機会は訪れないだろうと思いながら、忘れずショーケースの上の本を持ち、店を出た。

 相変わらず水平に味噌田楽を持ちながら、どこにそんな金がかかっているんだろうと眺めながら歩く。店員もいろいろとしゃべるなら、この味噌田楽の値段の正当性について話してくれたらよかったのにと思う。

 僕は公園に戻ることにした。もうすぐそこだったので、この味噌田楽を食べるなら、歩きながらより、いつものベンチに座っての方がいい。

 公園の中にはもう誰もいないようだった。誰もいない、いつもの見慣れた公園。しかし例の死体を埋めていた花壇の方を見て、ぎょっとした。人が胸のあたりまで土に埋められ、上を向いた口の中には青っぽい何かが詰め込まれている。てっきり掘った穴の中に死体を横たえ、その上にアジサイを植えるのかと想像していたのだが。そう思いながら近づいてみると、埋められているのは見覚えのある顔だった。市長だ。そして口の中に入っていたのは、青いアジサイの花だった。

 なんだ市長か。そうと分かると急に興味がなくなり、僕はその正面にあるいつものベンチに座った。そして、手に持っていた豆腐の味噌田楽を食べる。味噌はやや甘みが強く、豆腐は寒い中持ち歩いたせいか少し硬い。はっきり言って、あまりおいしくない。期待はしていなかったが、その下がったハードルすら越えてこなかった。それでも最後まで食べ切り腹の中に収めた。

 僕は立ち上がって花壇まで歩き、青いアジサイの花で埋め尽くされた市長の口の真ん中に、食べ終わった田楽の串を挿した。アイスの棒なら墓標のように見えただろうけど。そんなことを思いながらベンチに戻った僕は、本を開いて続きを読み始めた。

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