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第9話 在りし日の


 エドガーの様子がおかしい、と感じるようになったのは、いつからだっただろうか。


 月に一度の逢瀬だというのに、今まで感じていたエドガーの愛情と慈しみに満ちていた眼差しが、シルティに向けられなくなったことに気付いたときだっただろうか。


 それなのに、逢瀬の場所がエルヴィル伯爵邸になった途端、今までと何一つ変わらない、愛情深い空色の瞳に見つめられ、エドガーに口づけをねだられたことに、思わず、

頭が混乱したときだっただろうか。


 そんな、ささいな違和感を、「気のせいだ」のひとことで片付けてしまうのは、愚かで馬鹿らしいことだろうか。


「私は、ただ逃げているだけの、臆病者なのかしら……」


 シルティの疑問に答えをくれる者は、いない。



*****



 冬の到来を告げる風が吹く頃。毎月恒例のお茶会の日がやってきた。


 朝早くから起きていたシルティは、掃き出し窓のガラスに、そっと手を添えた。窓の外は冷たい北風が吹いていろようで、暖炉で暖かくしている室内にいても、こうして窓辺に寄ると、その風の強さを感じるほどだった。


 隙間風にふるりと肩が震える。それでも窓辺から離れないシルティを見兼ねて、侍女のノナリアが肩にストールをかけてくれた。そのストールを胸元で合わせ持つと、在りし日の秋薔薇の美しかった頃を思い出す。あの頃はまだ、今より、平穏な日々を送ることができていたように思う。


 エドガーとの関係は順調で、秋薔薇は美しく咲き、セドリックとの関係も、今ほど悪化してはいなかった。少なくとも、言葉を交わすことはできていた。それに、秋薔薇を、髪に飾ってくれたのだ。


 シルティは、マホガニー製の机を一瞥した。そこには、読みかけのページを開いたままの一冊の本と、あの日の秋薔薇で手作りした栞が置いてあった。セドリックが大切に愛でてくれと言ったから、栞にして、あの日の思い出を永遠に閉じ込め、手元に置いているのだ。


 かじかんできた指先に、温かい息を吹きかける。そうしていると、ノナリアが近づき、入れたばかりのココアが入ったカップを持たせてくれた。


「……ありがとう、ノナリア」


 ノナリアは、音もなく礼をすると、ティーワゴンを引いて退室した。


 彼女には、応接室にお茶の準備をするように申し付けているので、その仕事をしに行ったのだろう。


 両手の中に収まっているカップを傾けて、ココアを喉に流し込む。こくり、こくり、と嚥下する音だけが、鼓膜を震わせた。



*****



 かじかんでいた指先は体温を取り戻し、吐く息は、窓を白くもらせる。そのくもりが冷気に冷やされていくのをぼんやり眺めていると、扉の外からノナリアの声が聞こえた。


「シルティ様。エルヴィル小伯爵様がご到着なさいました」


「……わかりました。すぐに向かいますわ」


「かしこまりました。わたくしは厨房を見て参ります」


「ええ、お願い」


「では、失礼いたします」


 扉越しの会話が終わり、ノナリアの足音がしなくなった頃、肩からストールを取り払い、まだ中身の残っているカップを机の上に置いた。そして視界に映った栞を癖のようにひと撫でし、重い足取りで扉へと向かったのだった。



*****



 「行きたくないわ……」


 誰もいない廊下を歩きながらひとりごちる。


 しかし、そんな泣き言を言ったとて、道が悠久に続くはずもなく。ついに、目的地である応接室に到着してしまった。


 シルティは、すぐに扉を叩かず、何度も逡巡する。そうしている間にも、扉越しに、楽しげな笑い声が聞こえてくる。扉は完全に閉じられていて、内容を明確に聞き取ることはできないが、それでも、すぐに立ち入ることが憚られる程には、室内が、ただならぬ雰囲気であることは確かだった。


 本音を言えば、自室に引き返してしまいたかったが、婚約者であるエドガーの訪問を無視することは、婚約者としても、伯爵令嬢としても、許されない。


「大丈夫、大丈夫よ……」


 そう自分に言い聞かせるように同じ言葉を何度も口にして覚悟を決めたシルティは、深く深呼吸をしたあと、控えめに扉をノックした。


 その直後、一瞬で室内が静まり返り、暫しの間を置いて、「どなたですか」とセドリックの声が聞こえた。


「……私よ、シルティ。入ってもよろしい?」


「シルねぇさま! どうぞお入りください」


 ――シルねぇさま。


 エドガーがウィルベリー邸を訪れたときだけ、昔のように戻る呼称。


 デビュタントの翌日から呼ばれなくなった呼び名。それをどうして今になって再び使うのか。なぜ、エドガーの前でだけ、その愛しい呼び方をするのか。


 疑問はたくさんあって、何度もセドリックを問いただしたくなったけれど、そうすることは出来なかった。


 ――だって、嬉しかったから。


 セドリックに「シルねぇさま」と呼ばれることに喜びを感じ、過ぎ去りし思い出の、愛らしく、愛おしい、シルティのセドリックを取り戻したような気がするから。


 もしも問いただして、二度とシルティのセドリックに会えなくなるくらいなら、疑問などささいなことだと、得体の知れない不安など、飲み込んでしまえばいいと思ってしまったのだ。


「シルねぇさま? どうなさいましたか?」


 その声にハッと我に返り、シルティは、努めて冷静にドアノブに手をかけた。



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