セドリックが生まれた家は、ウィルベリーの傍系である男爵家だった。傍系といっても血筋が遠すぎるのでほぼ他人といって差し支えないだろう。
男爵家の嫡男として生まれたセドリックだったが、男爵とは名ばかりで、領地も資産もない爵位だけを持った平民同然の暮らしをしていた。
物心がついたときからその日暮らしの生活だったため、食べるものがない日は空腹で辛いとか、汚らしい浮浪児めと理不尽な暴力を受けるのは痛くて悲しいと思うことはあっても、貴族の生活に憧れることはなかった。
しかし、セドリックの両親は違ったらしい。貴族として過ごした日々を忘れることができない父親は、借金をして博打をうち、酒に溺れて暴力をふるった。
容姿が美しかった母親は、セドリックの食費と夫の借金を返すために昼夜にかかわらず身を粉にして働いたが、無理がたたって病を得ると、あっという間に亡くなってしまった。
そして母親が亡くなったことを悲しむ間もなく、妻を追うように父親が急死した。死因は急性アルコール中毒だった。
まだ幼かったセドリックには父親が残した借金だけが残り、あわやぺドフィリアの老侯爵に売られるところでウィルベリー伯爵に助けられ、養子縁組をするに至った。
運がよかったのか。はたまた伯爵の思惑通りだったのか。真相は藪の中だ。
「セドリック。君には将来、ウィルベリー伯爵位を継いでもらうことになる。まだ5歳の君には難しい話かもしれないが……。そうだな……要するに、私の娘のお婿さんになってほしい、ということだよ。意味がわかるかい?」
「はい、わかります。結婚するということですよね?」
「そうだ。君はかしこいね。……ただし、それには条件があるんだ」
「条件、ですか」
「君が将来、ウィルベリー伯爵になるということは変わらない。だが、私の娘と結婚することになるかは私の娘次第になる。……君を迎えるにあたって、娘には婚約者だということは伏せておく」
「そうするとどうなるのですか?」
「そうだね。将来2人が大人になったとき、お互いに愛し合っていれば結婚することになる。しかし娘に好きな人がいる場合は、2人の婚約を解消して、他の女性と結婚してもらいたい。……わかったかい?」
育った環境が劣悪だったせいか、5歳児にしては達観していたセドリックにも“愛し合う”という意味はよく理解できなかった。けれど、伯爵に引き取られる以外に選択肢がないということは、十分理解していた。
「はい、わかりました。これからよろしくおねがいいたします」
「……ああ、よろしく、セドリック」
そうして連れてこられた春の伯爵邸で、シルティに出会い、――恋をした。
*****
シルティに好きな男ができたと知ったのは、彼女が少し早めのデビュタントに出発しようとしている時だった。
本来ならば婚約者としてシルティのエスコートをする予定だったが、ウィルベリー伯爵が娘のエスコート役をねだって大人気なく駄々をこねたので、セドリックは、想い人のエスコート役を譲るしかなかった。
せめて見送りだけでもと玄関ホールで待っていると、純白のドレスを身にまとったシルティが階段の踊り場に現れ、一瞬思考が止まる。
「まぁ……! とても美しいわ、シルティ」
感嘆の声をあげたのは伯爵夫人で、エスコート役として控えていた伯爵は感無量の様子で鼻の頭を赤くしていた。
セドリックはというと、あまりにも可憐な姿に言葉をなくし、まるで純白の妖精のようなシルティから目を離すことができなかった。
――彼女の隣には、僕が立ちたかった。
思わず、タキシードを着たセドリックと純白のドレス姿のシルティが仲睦まじく並び立ち、王宮のパーティーホールでダンスを踊る想像をしてしまう。
「セディ、似合ってる?」
ハッと我にかえると、緊張した面持ちのシルティが履きなれないヒールをカツンと鳴らし、すぐ目の前に立っていた。手を伸ばせば抱き寄せることができる距離で、シルティはもじもじと髪の毛を指に巻き付けながら、セドリックの返事を待っている。
ドレスのことは良く知らないが、繊細な刺繍は白に近い銀糸で施されているようだった。いつもは春の妖精のように可憐なシルティ。だが、照明を受けた刺繍が星屑のように輝いているせいだろうか。セドリックの瞳には、月から舞い降りた女神の如く美しくうつっていた。
――とても綺麗だよ。
そう、言えたらいいのに。
セドリックは頬の内側をぐっと咬んでから、できるだけ感情を面に出さないようにつとめた。
「まぁ、似合ってるんじゃない?」
思ったよりもそっけない声が出てしまったことにセドリックは驚いた。
さすがにこれは、シルティを傷つけてしまったのではないか。
不安を隠せずシルティの反応を伺ったが、どうやら取り越し苦労だったようだ。シルティは、ぷくっと頬を膨らませてふてくされているだけだった。
「もうっ、セディは意地悪ね! 今日くらい、
ツンと顎を尖らせてそっぽを向いてしまったシルティの横顔をみつめる。
セドリックだって、「綺麗だよ、とても似合ってる」と素直に伝えたかった。しかしそのことを、バカ正直に話すことはできない。
せっかくの喜ばしい日だというのに最悪だ、と俯いたとき、今まで一度も聞いたことがないシルティの甘い声が鼓膜を震わせた。
「エドガー様! どうしてこちらに?」
反射的にシルティの方を見遣る。すると侍従を伴って玄関ホールに現れたのは、垂れ目にほくろが印象的な甘い顔立ちの男だった。
エドガーは、小走りで歩み寄ってきたシルティの姿に微笑むと、優雅な仕草でお辞儀をした。
「こんばんは、シルティ嬢。素敵な夜ですね」
首の後ろでひとつくくりにされたミルクティ色の髪が、広い肩をさらりと撫でて首筋に垂れた。
その様子がなんとも色気を放っており、思わず見とれてしまったシルティは、伯爵の咳払いで我に返ると、慌ててカーテシーをした。
「こ、こんばんは、エドガー様。本当に素敵な夜ですね」
そうして胸元を押さえながら、恥ずかしそうにはにかんだ。
「今夜のデビュタントには、妹君のロレーヌ嬢も参加なさると聞いております。ですから、てっきりエドガー様がエスコートをなさるのだと思っておりましたわ」
少し緊張した様子で話すシルティの姿を見て、セドリックは、胸中に黒いもやがかかっていくのを感じた。
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