気づけば、雨は上がっていた。どうやら通り雨だったらしい。
「あれ……? 何だか、思ったより痛くないかも……?」
音々が、何か違和感に気づいたように、そっと自分の膝を確認する。
ヴィオレッタが魔法の力を使ったので、ほとんど治っている。ほぼかすり傷程度まで快復させた。
「血が出てるわりには、ぜんぜんひどい怪我じゃないみたいです。おかしいな……。さっきまで、ジンジンしてて、すごく痛かったんですけど」
患部を見ながら、不思議そうに音々が首をかしげている。
「ヴィオレッタの治癒魔法のおかげだな! 久々に見たけど、やっぱり見事だった!」
うなずきながら、モネが自慢げな顔になる。
「明日には、きれいさっぱり治るはずよ。傷跡も残らないわ」
本当は、今すぐにでも完治させたい。けれど、それはそれで音々に怪しまれると思った。
「わたしのバッグ、どうなっちゃったんでしょう……?」
ひったくられたバッグの行方が心配で仕方ないようだ。ヴィオレッタには、バッグが今どこにあるか分かっている。ビジョンで追跡済みだ。
中学校の指定バッグを盗んだことに、犯人たちはすぐ気づいたようだった。
落胆して、すぐにバッグを捨てている。角を曲がって、しばらく進んだところに空き地がある。そこが音々のバッグの現在地だ。
「雨が降って、急に暗くなったからな。犯人たちもよく見えてなかったんだろう」
ビジョンを共有すると、モネがそんなことを言った。
「懲らしめるわよ」
ヴィオレッタが、めずらしく怖い顔つきになった。冴え冴えとした表情だ。能面のような顔。
今は、どこから見ても冷酷な魔女にしか見えない。そんなヴィオレッタに気圧されながら、モネが同意する。
「もちろんだ!」
犯人たちのバイクを故障させ、ちょっとだけひどい目に合わせる。「ちょっとだけ」というのは魔女の主観なので、人間が思う「ちょっと」とはかなり違う。
魔女の仕打ちを目の当たりにしたモネが、ぶるっと身震いしている。
「久しぶりに見たな~~! ヴィオレッタの『お仕置き』。はーー、怖い怖い。ちょっと、ちびりそうだったぞ。この世で一番怒らせちゃいけないのは、やっぱり魔女だよな」
ぶるぶると震えながら、本気でモネが怖がっている。
「ちょっと、こんなところでおしっこしないでよ? 今はわんこ用のオムツ持って来てないんだから」
すっかり元の顔に戻ったヴィオレッタが、心配そうにモネのおしりを触る。
「こんなところでするわけないだろ! 俺は普通の犬じゃないんだからな! ヴィオレッタの顔が怖くて、ちょっと尿意を催しただけだよ!」
ぷんすか怒るモネに「実際にしてないなら良いわ」と言って、安堵したヴィオレッタがおしりをポンポンと軽く叩く。
犯人たちを懲らしめたあと、ヴィオレッタは音々のバッグを元通りにした。
汚れたところは綺麗にして、傷がついてしまった箇所は治して。箱の中で崩れてしまったケーキは、何事もなかったかのように。
傷ひとつないバッグを見て、音々は目を丸くしていた。
おそるおそるケーキの箱を開ける。そして、音々の瞳からぶわっと涙があふれた。
「ケーキも無事です……! ぜんぜん型崩れしてない。良かったぁ……」
大事そうに、音々が箱を撫でる。
ヴィオレッタの頭の中には、幸せな家族の風景が映っている。
四人家族だ。皆でテーブルを囲んでいる。テーブルの上にケーキが並ぶ。そのひとつひとつを、音々が説明している。ホイップクリームはなめらかで、甘さ控えめで、とても美味しいこと。フルーツは、どれも新鮮で瑞々しいこと。
音々は、ちょっと得意げだった。
その音々を優しい眼差しで両親が見守っている。
幼い妹は、嬉しそうにケーキを見ていた。そして音々から、フルーツがたっぷり乗ったケーキをもらい、目をキラキラさせている。
「めちゃくちゃ妹が喜んでるな」
同じ映像を見ているモネが、ニヘへと笑う。
音々の妹は、頬の辺りまでクリームで汚しながら、口いっぱいにケーキを頬張っていた。思わず、ヴィオレッタの表情がゆるむ。
「そうね。あ、どうやら、ふたりの好みも分かったみたいよ」
今までたくさん映画を観たけれど、こんな幸福なエンディングは知らない。
ずっとこの幸せな風景を見ていたいと、ヴィオレッタは祈るように願った。
✤
雨の日から一週間後。閉店作業を終えたヴィオレッタは、いつものようにソファに倒れ込んだ。
「ふぅ~~! 今日も疲れたわねーー!」
「雨なのに客足は悪くなかったな」
「本当ね。ありがたいことだわ。……それにしても最近、雨が多いわね。そろそろ本格的に梅雨入りかしら」
うつ伏せの状態で、そっと目を閉じた。心地よい疲労感を感じながら微睡む時間は、格別だとヴィオレッタは思う。
「ジメジメするのはイヤだな」
ヴィオレッタのふくらはぎに顎を乗せたモネが、渋い顔をする。ふくらはぎを枕にしているのだ。モネ曰く、ちょうど良い高さらしい。
「新しい寝具に変えようかしらね。ジメジメ対策として」
「それ良いな!」
「筋肉痛も治ったことだし、ササッとやっちゃうわよ!」
寝具の交換は、意外と重労働なのだ。
「ヴィオレッタ、筋肉痛だったのか?」
「ほら、久しぶりに治癒魔法を使ったじゃない? ホウキにまたがったのも久々だったし。身体中がバキバキだったのよ。でも、すっかり良くなったわ!」
あの日の三日後から、筋肉痛の症状が現れはじめた。
「年を取ると……」
モネは何かを言いかけて、ハッとした。それから一切の口をつぐむ。
「何よ?」
「な、なんでもない!」
ぶんぶんと首を振っている。魔女を怒らせてはいけないと、改めて実感した結果だろう。
ヴィオレッタは、鼻歌をうたいながら寝具の交換をはじめた。
ついでに、ルームウェアも新しいものにする。肌ざわり良好。夏仕様のダブルガーゼのワンピース。もちろん、見た目は最上級に可愛い。
「寝具とルームウェアを新しくすると、なんだかワクワクするのよね。子どものころに、プレゼントをもらったときみたいな。嬉しい気持ちになるの」
うっとりしながら、ヴィオレッタは真新しいワンピースに袖を通す。
「そんなもんか?」
乙女心の欠片も持ち合わせていないモネが、フンッと鼻を鳴らす。
ヴィオレッタは、小箱を取り出した。中にはアロマオイルがいくつか入っている。どれもこれも、気持ち良く眠れるようにブレンドしてある。
今日の気分でオイルを選び、数滴を枕に垂らした。
「良い香りね~~!」
布団の中に入り、柔らかい感触の寝具に満足する。明かりを消すと、ヴィオレッタの顔の付近にモネがやってきた。鼻でちょいちょいと掛け布団を持ち上げるような仕草をする。
これは「布団の中に入れてくれ」という図だ。ぺちゃっとした鼻で、一生懸命に布団をちょいちょいする姿に癒される。
掛け布団をめくってやると、ズンズンと勢いよく侵入してくる。そして、布団の中でモゾモゾとする。
しばらくすると、ドテンと寝転がった。同時に、フフンッ! という粗い鼻息が聞こえる。わんこには、気に入ったポジションというものがある。
どうやらお気に入りの場所で、寝転ぶことが出来たようだ。この粗い鼻息は、ベストポジションに大満足した証なのだ。
ヴィオレッタは、モネのぬくもりを感じながら、そっと柔らかな毛並みを撫でた。アロマオイルの優しい香り。真新しい寝具の、心地よい肌ざわり。
また、明日も早起きをしよう。そしてたくさんケーキを焼こう。初夏限定のメニューも考えなくっちゃ。
善き日々だと、胸がいっぱいになる。とても満たされた気分で、ヴィオレッタはそっと目を閉じた。