目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報
第22話 家族のかたち

 スンスンと鼻を鳴らしながら、モネが音々に近づいていく。足元をドテドテと歩き回る。ビー玉みたいな瞳で、じいっと音々を見上げている。


 モネなりに、彼女を励ましているのだろう。モネの存在に気づいて、音々がふわりと表情を緩めたのが分かった。


「……俺も子どものころ、名前が変わった。君と同じように、親の再婚で」


 ヴィオレッタの隣にいる大夏が、ゆっくりと口を開いた。


 まさか、音々と大夏が同じ境遇だったなんて。


「混乱するのは当然だ。納得していないのに、勝手に自分の名前を取り上げられたような気がするよな? 大切な名前を奪われて、俺は悲しかった。同時に腹立たしく思った。新しい姓で呼ばれると、苛立っていたよ。その名前は、俺のことじゃないと思っていた」


「大夏さんも、そんな風に思っていたんですか……?」


 ちょっと驚いたような、でもホッとしたような表情で音々が問う。


「ああ」


「そんな風に考えるのは、決してわるいことじゃないと思うぞ。馴染みがなくて当然だし、違和感を持つことも、おかしいことじゃない」


「ずっと、自分じゃないような、変な感じのままなんでしょうか……。大夏さんは、慣れましたか?」


「俺は、少しずつ馴染んでいった。……というより、違和感を忘れていったと表現したほうが正しいかもな」


「そうなんですか……」


 大夏の言葉に、音々が小さくうなずく。何度もうなずきながら、耳をかたむけている。


「俺、は魚釣りが趣味なんだが」


 ヴィオレッタが「趣味?」と少し違和感をおぼえたところで、モネの声が流れ込んできた。


「おい、大夏が急に趣味の話を始めたぞ?」


 モネも同じことを思ったらしい。


「そ、そうね。とりあえず、話の続きを聞いてみましょう」


 隣の大夏をちらりと見る。釣りの話から、少しずつ出世魚の話題に変化している。


「出世魚というと、スズキとかですよね?」


「そうだ。初めて知ったとき、俺は衝撃だった。成長するだけで名前が変わるなんて。魚を見ながら、こいつも勝手に名前を取り上げられたんだなと思っていた」


 大夏と音々の会話を聞きながら、モネがヴィオレッタを見る。


「なんか、大夏ってかなりセンチメンタルだよな?」


「感受性が豊かな少年だったのよ」


「前から思ってたけど、やっぱり例え方が変だ!」


 眉間に皺を寄せながら唸るモネを、ヴィオレッタは「まぁまぁ」と宥める。


「たとえばブリだと、地方によって呼び名は変わるらしいんだが。関東の場合だと、ワカシ、イナダ、ワラサ、ブリの順だな」


「ずいぶん変わるんですね」


「君も、また変わる可能性あるぞ」


「……また、ママが離婚するって言うんですか?」


「いや、そうじゃなくて。君自身が結婚したら変わるだろ。……いや、今は夫婦別姓とかあるのかもしれないが」


「け、結婚ですか……。それは、ちょっと、想像がつかないです」


 音々が目をパチパチさせている。


「まぁ、どっちみち当分先だろうな」


「一生しないかもしれませんよ」


「それじゃあ『桐嶋音々』とは長い付き合いになるな」


「そうですね。大夏さんは?」


 音々が大夏を見上げる。


「俺?」


「変わる予定があるんですか?」


「俺は、今の名前と添い遂げようと思ってるんだ」


 生涯独身を宣言する大夏は、謎に誇らしそうだった。


 強張っていた音々の表情が和らいでいて、ヴィオレッタは胸を撫でおろした。


「ふん! 良い風に言うなよ。モテないだけだろ」


 モネが大きく鼻を鳴らす。


 大夏に向かって「もっと例え上手になったほうが良いぞ」とか「そのほうがモテるぞ」とか、モネが上から目線のアドバイスをしている。もちろん、大夏には届いていない。


 あと残りふたつ。父と妹のケーキを、大夏のアドバイスを聞きながら選んでいる。


「……良いコンビね。音々ちゃんが、いつか本当に大夏くんの弟子になってくれたら理想なんだけど」


 泣きそうになるのをグッと堪えて、心の中でモネに語りかける。自分の声を聞いて、ヴィオレッタは驚いた。


「心の中でしゃべっても、涙声になるのね。知らなかったわ……」


「長生きしていても、新発見がある。良いことじゃないか」


「確かに、そうね」


「それにヴィオレッタは、魔女なんだから。ふたりの未来が気になるなら、力を使って視れば良いだけだろ」 


 モネの提案に、ヴィオレッタは首を振った。


「あえて視えないようにしてるの。全身に力を入れて、これでもけっこう踏ん張っているのよ。気を抜いたら、ふたりの未来が今にも流れ込んでくる気がするわ」


「良い未来か? それくらいは分かるだろ?」


 興味津々の顔で、モネが迫ってくる。


「もちろんよ。だから、視ないようにしてるの」


 ヴィオレッタの返答に、モネは舌を出した。そしてニヘヘッと、愛嬌たっぷりの顔で笑ったのだった。





 ショーケースをキュッキュと磨きながら、ヴィオレッタはため息を吐いた。


「今ので、何度目のため息だ?」


 足元に寝転がったモネに指摘される。


「さぁ、分からないわ……」


 音々が帰ったあと、ヴィオレッタは急に寂しくなった。


「ぽっかりと心に穴が開いたような気分だわ」


「店を出てから、まだ十分だぞ」


 音々は、無事に一週間の職業体験を終えた。


 そしてつい先ほど、大事そうにケーキが入った箱を抱えて、モン・プチ・ジャルダンを出て行った。


「寂しいわ……」


 ショーケースはすでにピカピカで、磨く必要はない。けれど拭いている。妙に手持ち無沙汰なのだ。


「俺がいるじゃないか」


 だらんと寝転がったまま、ニヒヒとモネが笑う。


「そうね」


 ヴィオレッタが適当に返事をする。


 そして、再び手を動かし始めたとき。開け放たれていた窓から、湿った風が入ったきた。


「雨の匂いがするな」


 モネが鼻をクンクンさせている。


 しばらくすると、ポツポツと雨音が聞こえてきた。


 庭をのぞくと、ハーブたちが嬉しそうに雨粒を受けている。


「そろそろ梅雨入りだものね」


 雨のせいで、辺りは急に薄暗くなった。


 ヴィオレッタは窓を閉じて、カーテンに手をかけた。その瞬間。


 とてもイヤな感じがした。訪れて欲しくない、未来の予感。ひどく胸騒ぎがする。


 頭の中で、パシャリと音がした。水たまりを蹴る音だ。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?