スンスンと鼻を鳴らしながら、モネが音々に近づいていく。足元をドテドテと歩き回る。ビー玉みたいな瞳で、じいっと音々を見上げている。
モネなりに、彼女を励ましているのだろう。モネの存在に気づいて、音々がふわりと表情を緩めたのが分かった。
「……俺も子どものころ、名前が変わった。君と同じように、親の再婚で」
ヴィオレッタの隣にいる大夏が、ゆっくりと口を開いた。
まさか、音々と大夏が同じ境遇だったなんて。
「混乱するのは当然だ。納得していないのに、勝手に自分の名前を取り上げられたような気がするよな? 大切な名前を奪われて、俺は悲しかった。同時に腹立たしく思った。新しい姓で呼ばれると、苛立っていたよ。その名前は、俺のことじゃないと思っていた」
「大夏さんも、そんな風に思っていたんですか……?」
ちょっと驚いたような、でもホッとしたような表情で音々が問う。
「ああ」
「そんな風に考えるのは、決してわるいことじゃないと思うぞ。馴染みがなくて当然だし、違和感を持つことも、おかしいことじゃない」
「ずっと、自分じゃないような、変な感じのままなんでしょうか……。大夏さんは、慣れましたか?」
「俺は、少しずつ馴染んでいった。……というより、違和感を忘れていったと表現したほうが正しいかもな」
「そうなんですか……」
大夏の言葉に、音々が小さくうなずく。何度もうなずきながら、耳をかたむけている。
「俺、は魚釣りが趣味なんだが」
ヴィオレッタが「趣味?」と少し違和感をおぼえたところで、モネの声が流れ込んできた。
「おい、大夏が急に趣味の話を始めたぞ?」
モネも同じことを思ったらしい。
「そ、そうね。とりあえず、話の続きを聞いてみましょう」
隣の大夏をちらりと見る。釣りの話から、少しずつ出世魚の話題に変化している。
「出世魚というと、スズキとかですよね?」
「そうだ。初めて知ったとき、俺は衝撃だった。成長するだけで名前が変わるなんて。魚を見ながら、こいつも勝手に名前を取り上げられたんだなと思っていた」
大夏と音々の会話を聞きながら、モネがヴィオレッタを見る。
「なんか、大夏ってかなりセンチメンタルだよな?」
「感受性が豊かな少年だったのよ」
「前から思ってたけど、やっぱり例え方が変だ!」
眉間に皺を寄せながら唸るモネを、ヴィオレッタは「まぁまぁ」と宥める。
「たとえばブリだと、地方によって呼び名は変わるらしいんだが。関東の場合だと、ワカシ、イナダ、ワラサ、ブリの順だな」
「ずいぶん変わるんですね」
「君も、また変わる可能性あるぞ」
「……また、ママが離婚するって言うんですか?」
「いや、そうじゃなくて。君自身が結婚したら変わるだろ。……いや、今は夫婦別姓とかあるのかもしれないが」
「け、結婚ですか……。それは、ちょっと、想像がつかないです」
音々が目をパチパチさせている。
「まぁ、どっちみち当分先だろうな」
「一生しないかもしれませんよ」
「それじゃあ『桐嶋音々』とは長い付き合いになるな」
「そうですね。大夏さんは?」
音々が大夏を見上げる。
「俺?」
「変わる予定があるんですか?」
「俺は、今の名前と添い遂げようと思ってるんだ」
生涯独身を宣言する大夏は、謎に誇らしそうだった。
強張っていた音々の表情が和らいでいて、ヴィオレッタは胸を撫でおろした。
「ふん! 良い風に言うなよ。モテないだけだろ」
モネが大きく鼻を鳴らす。
大夏に向かって「もっと例え上手になったほうが良いぞ」とか「そのほうがモテるぞ」とか、モネが上から目線のアドバイスをしている。もちろん、大夏には届いていない。
あと残りふたつ。父と妹のケーキを、大夏のアドバイスを聞きながら選んでいる。
「……良いコンビね。音々ちゃんが、いつか本当に大夏くんの弟子になってくれたら理想なんだけど」
泣きそうになるのをグッと堪えて、心の中でモネに語りかける。自分の声を聞いて、ヴィオレッタは驚いた。
「心の中でしゃべっても、涙声になるのね。知らなかったわ……」
「長生きしていても、新発見がある。良いことじゃないか」
「確かに、そうね」
「それにヴィオレッタは、魔女なんだから。ふたりの未来が気になるなら、力を使って視れば良いだけだろ」
モネの提案に、ヴィオレッタは首を振った。
「あえて視えないようにしてるの。全身に力を入れて、これでもけっこう踏ん張っているのよ。気を抜いたら、ふたりの未来が今にも流れ込んでくる気がするわ」
「良い未来か? それくらいは分かるだろ?」
興味津々の顔で、モネが迫ってくる。
「もちろんよ。だから、視ないようにしてるの」
ヴィオレッタの返答に、モネは舌を出した。そしてニヘヘッと、愛嬌たっぷりの顔で笑ったのだった。
✤
ショーケースをキュッキュと磨きながら、ヴィオレッタはため息を吐いた。
「今ので、何度目のため息だ?」
足元に寝転がったモネに指摘される。
「さぁ、分からないわ……」
音々が帰ったあと、ヴィオレッタは急に寂しくなった。
「ぽっかりと心に穴が開いたような気分だわ」
「店を出てから、まだ十分だぞ」
音々は、無事に一週間の職業体験を終えた。
そしてつい先ほど、大事そうにケーキが入った箱を抱えて、モン・プチ・ジャルダンを出て行った。
「寂しいわ……」
ショーケースはすでにピカピカで、磨く必要はない。けれど拭いている。妙に手持ち無沙汰なのだ。
「俺がいるじゃないか」
だらんと寝転がったまま、ニヒヒとモネが笑う。
「そうね」
ヴィオレッタが適当に返事をする。
そして、再び手を動かし始めたとき。開け放たれていた窓から、湿った風が入ったきた。
「雨の匂いがするな」
モネが鼻をクンクンさせている。
しばらくすると、ポツポツと雨音が聞こえてきた。
庭をのぞくと、ハーブたちが嬉しそうに雨粒を受けている。
「そろそろ梅雨入りだものね」
雨のせいで、辺りは急に薄暗くなった。
ヴィオレッタは窓を閉じて、カーテンに手をかけた。その瞬間。
とてもイヤな感じがした。訪れて欲しくない、未来の予感。ひどく胸騒ぎがする。
頭の中で、パシャリと音がした。水たまりを蹴る音だ。