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第21話 大切な名前

 モン・プチ・ジャルダンの二階。仕事を終えたヴィオレッタは、ご自愛タイムを満喫している。アロマオイルでハンドマッサージをしている最中なのだ。


 甘さと清涼感のあるゼラニウムの香りに癒されながら、指先を優しく揉みほぐす。手の甲から手首、前腕部にかけては親指をぐっと押し当て、すべらせていく。


「あ~~! 気持ち良いわ~~!」


 ちょっと痛いくらいが好きだ。この「痛気持ち好い」感覚は、かなりクセになる。


 ヴィオレッタが極楽気分に浸っていると、ソファの上で腹ばいになったモネが話しかけてきた。


「魔法を使ったな」


「浅水先生のこと?」


「そうだ」


「……溢れそうなくらいに、ギリギリだったから。心の容量を少しだけ広げたの。彼女、忙し過ぎたのね。自分が極限の状態になって初めて、その状況に気づいたんだわ。ちょっとしたおまじないをしたから、考える余裕ができたはずよ。今度は満タンになる前に、色んな決断ができると思うわ」


「同情したのか?」


 モネの言葉に、思わずヴィオレッタの手が止まる。


「違うわ。共感よ……」


 そう言って、またゆるゆるとマッサージを再開する。


 ヴィオレッタは昔、とてもよく働く魔女だった。


 今だって、モン・プチ・ジャルダンで忙しくしているけれど、もっともっと慌ただしい日々だった。


「懐かしいな。『修理屋のヴィオレッタ』だったころが」


 ゴロン、と仰向けに体勢を変えながら、モネがしみじみと言った。


「……ほんと、懐かしいわね」


 ヴィオレッタは、魔法道具の修理が得意だった。


 幼い時分から、身近にあった魔法道具に触れると、大人の魔法使いたちが気づかないほどの小さな不具合を見つけることが出来た。もちろん、その不具合を修理することも。


 自然と周囲から「修理屋のヴィオレッタ」と呼ばれるようになり、次から次へと依頼が舞い込んできた。


 魔法使いは、世界中に散らばっている。ヨーロッパからアジア、海を渡って北アメリカへ。依頼があれば、すぐに現地に向かって魔法道具の修理をした。


「忙しない毎日だったな。地球儀を回してるみたいに、あちこちへ行って」


「自分の仕事が認められて、とても嬉しかったのよ。粉々になった魔法の杖を元通りにしたり、修復不可能と言われていた魔法陣を復活させたり。皆からの賞賛が嬉しくて、良い気になって。調子に乗っていたのね」


「わたしも、彼女と同じだったわ。疲れて、へとへとになっていること。自分のことなのに、まるで気づいていなかった」


「ヴィオレッタが、ご自愛上手になったのはそのせいだな」


「自分のことをちゃんと気にかけて、しっかり労わってあげないとね」


「俺は、昔より今の生活のほうが気に入ってるぞ」


「そうなの?」


「今は心安らかに昼寝ができる! 定休日もあるしな!」


 ふかふかのソファに身を沈めながら、嬉しそうにモネが舌を出す。


「あのころのヴィオレッタは、何かに取り憑かれたみたいに仕事ばかりしていたからな」


「心配してくれていたの?」


「当たり前だろ。使い魔なんだから」


 使い魔は、魔女の影響を強く受ける。


 魔女が疲弊すれば、使い魔は弱ってしまう。


 あのころのヴィオレッタは、隣にいるモネを気遣う余裕すらなかった。気づいたときには、モネはボロボロで。ふわふわの毛は見る影もなく抜け落ちていた。表情に精気はなく、やせ細った姿が痛々しかった。


 そうしたのは自分なのだと知って、全身が冷たくなった。


 今でも、申し訳なく思っている。


 ヴィオレッタが自分を癒しているのは、モネのためだ。ヴィオレッタが元気になれば、モネも力を取り戻す。


 モネには、ずっと健やかでいて欲しい。


 愛くるしい鼻ぺちゃの顔で、いつまでもニヘへと笑っていて欲しい。


 モネに聞こえないように、ヴィオレッタは「ごめんね」と小さくつぶやいた。 





 音々がモン・プチ・ジャルダンの来て五日目。いよいよ今日で最終日だ。


「はぁ。寂しくなるわね……」


 ヴィオレッタは朝からしんみりしている。


 必要もないのに作業場へ行って、彼女が働く姿を眺めてはため息を吐いている。


「おい、ヴィオレッタ。そんな風に意味もなくウロウロしてたら、仕事の邪魔だぞ」


 作業場の隅でおすわりをしながら、モネが呆れている。


「だって、寂しいんだもの……」


 項垂れていたヴィオレッタは、ふいに良いことを思い付いた。


「音々ちゃん!」


「はい。なんでしょうか……?」


 ナパージュでケーキのおめかし中だった音々が、ピタリと手を止める。


「音々ちゃんが着ているそのワンピース、大切に置いておくからね! もし良かったら、高校生になったらアルバイトしに来て? うんと時給をはずむから!」


 ヴィオレッタの提案……というか思いつきに、大夏が食いつく。


「それ、良いですね!」


 大夏の表情は明るい。女子中学生を怖がらせないか心配で、青い顔をしていたのが嘘みたいだ。


「そういえば、ヴィオレッタさん。音々ちゃんが持って帰るケーキのことなんですけど。先に選んでもらったほうが良いと思います。すぐに売り切れになる商品もあるので」


 大夏が、思い出したように言う。


「あ、そうね!」


 ヴィオレッタがコクコクとうなずく。


 音々だけが「何のことだろう……?」という顔をしている。


「音々ちゃん、今日で最後でしょ? すっごく頑張ってもらったから、何かプレゼントをしたいねって話してたの。それで、良かったらモン・プチ・ジャルダンのケーキを貰ってもらえないかと思って」


 本当は、アルバイト代をわんさか渡したい気分だけど、そうもいかない。


 大夏と話し合ったところ、作業しながら音々が「美味しそうです」と目を輝かせていたらしいと知った。それなら、思う存分ケーキを持って帰ってもらおうということになった。


「好きなだけ選んで良いわよ~~!」


 ショーケースの前で、真剣な顔でケーキを選ぶ音々を見て、ヴィオレッタは微笑ましい気持ちになった。


「あ、ありがとうございます。でも、さすがに食べきれないので……。自分と家族の分を、いただきます」


 音々は遠慮がちに、ショートケーキと桃のタルトを指定した。


「ママは、ショートケーキが好きなので……」


 そして音々自身は、スポンジケーキよりもタルト生地が好みらしい。フルーツの中では特に桃が大好物らしく、迷わずに桃のタルトに決めたようだ。


 うきうきしながらケーキを選んでいた音々の表情が、ふっと翳った。


「音々ちゃん……?」


 どうしたのかと心配になって、ヴィオレッタは声をかける。 


「あと、ふたつ……。父と妹の分なんですけど……」


 音々が下を向いた。


「わたし、ふたりの好みがよく分からなくて。どれを選べば良いのか、分かりません……」


 どこか寂しげな、途方にくれたような音々の声に胸がつまる。


 浅水から聞いていた、音々の家庭の事情を思い出す。


 母親の再婚によって、新しくできた家族のこと。


「……このあいだ、浅水先生がいらっしゃったでしょう。そのときにね、音々ちゃんのご家族のこと、ちょっと聞いたのよ」


 音々が、こくりとうなずく。


「新しい環境に慣れなくて。ちょっと家の中がギクシャクしているんです。わたしの、せいなんですけど……」


「音々ちゃんのせい?」


「……はい。わたし以外の皆は、新しい環境に慣れて、受け入れていて。でも、わたしだけが納得していなくて。そんなわたしに、皆は遠慮してるっていうか。気を使われているんです」


 新しい環境に慣れていないのは、自分だけ。そう思うから余計に孤独なのかもしれない。


「家族が増えて戸惑う音々ちゃんの反応は、別におかしいことではないと思うわよ?」


 音々が、ゆっくりと顔をあげる。


「むしろ当然の反応だ」


 大夏がうなずきながら、ヴィオレッタに加勢する。


「わたし、ママが再婚することに反対だったわけじゃないんです。むしろ良かったと思っていて……。でも、いざそうなったら違和感というか」


 抑揚のない声で、静かに音々が語る。


 感情的にならないように、必死に抑えているのが分かった。 


 いちばん奥にある気持ちを吐露しているはずなのに、こんなときにまで自分を抑える音々を痛々しく思う。


「少し前まで、わたしは『坂井音々』という名前でした」


「お母さんが再婚して、名前が変わったのね」


「はい」


「ずっと、わたし坂井音々だったんです。それなのに、急に桐嶋音々になって……。なんだか今の自分は、自分じゃないみたいなんです。以前の自分が、どこかに消えちゃったような気がして。もうどこにもいないような……。こんな風に考えるの、変ですよね」


「ぜんぜん変じゃないわよ……」


 本当に、何も変じゃない。おかしいことはない。けれど、それ以上の言葉が見つからなくて、ヴィオレッタは途方に暮れた。


 何と言ってあげれば良いのか。どうすれば音々の心が軽くなるのか。普通の人間よりもずっと長い時間を生きているのに、こんなときに何も言えない自分がイヤになった。

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